2014年3月8日土曜日
「最後の仕事」
父はとても前向きな人でした。戦争の時代を生き抜いた人特有の強靱さで、これまで数々の病を克服してきました。「生きることはよいことだ」というゆるぎない信念がありました。
入院したとき体調が最悪だったのと耳が遠いせいで、本人の前で語られた病名を父は知りませんでした。いや、むしろ知りたくなかったのです。治すのは医者なのだから医者が知っていればよいと言い、病名を聞こうともしませんでした。
入院の翌日、私は牧師先生に電話し父の病状と今後の見通し(早ければ1ヶ月以内、長くても3ヶ月)についてお話しました。とりあえず知っておいていただきたいと思ったからですが、その日の午後には牧師先生が来て病室で祈ってくださいました。そして
「だめですよ。会堂が建つまでは。」
と言って帰られました。牧師が帰った後、しばらくして父は
「これは何の病気なの。病名は何なの。」
と聞きました。私は病名を話し、急激によくなることはないけれど、これまでもいろいろな病気を克服してきたお父さんだからがんばってゆっくり治しましょうと言いました。
父の容体は少しよいように見える日もありましたが、がくんと悪くなる日もあり、起こりつつある事態を考えざるを得ませんでした。この頃はほとんど食べられなくなっていましたが、父が食べたいというものやほしいものは極力持って病院へ行きました。
入院生活は治療よりも緩和ケアを中心に行い、入院して2週間後の週末に家に一時帰宅する計画を病院とともに進めていました。これが家に帰れる最後の機会と思い、少しでも快適に過ごせるよう考えを巡らせました。父の寝室はベッドではないので立ち上がるのが難しいだろうと思い、処分しようと思っていた百科事典を敷き詰めて布団の位置を高くしたり、電気毛布をそろえたり、簡易トイレを購入したりというようなことをしているうち、もっと大事なことに思い至りました。
「一時帰宅の時、牧師先生に来ていただいて聖餐式をしていただきましょうか。」
と父に聞くと、父は「うん、うん。」と大きくうなずいて、まだ牧師先生に都合も尋ねない前からすっかりその考えで頭がいっぱいになったようでした。
それとは別に父は以前から3月に会堂建築献金をすると言っていたことを思い出しました。3月も近いし急に言われても困るので、私は言われた額を準備しておきました。そのことを父に話すと、
「献金は3月でなくてもよい。今でいい。今度牧師先生が来るとき、持って行ってもらったらいい。」
と言いました。その頃はもうベッドの上で身を起こすのもかなりきつくなりつつあったのですが、私はひょっとしたらと思い家から筆ペンと封筒を持って行きました。父の返事は判然としませんでしたが、献金袋の宛名書きは可能なら父に書いてほしかったからです。持っていくと父は宛名書きを書くと言い、ベッドの上であれこれレイアウトを考え原稿を書き始めました。少し休んで間をおいてから、「よし、仕事を片付けてしまおう。」と父は言いました。車椅子に乗せ私が押していくと、テーブルのある談話室で父は車椅子を止めさせ、「ここで書く。」と言いました。それから封筒と同じ大きさに紙を切らせそれに下書きをしました。私が傍で見ていると気が散るらしく、「離れてろ。」と言い、小一時間かけて書き上げました。それから病室に帰るとぐったり横になりました。
そんなふうにして準備をしていたのですが、明日は一時帰宅という晩、父はトイレに移る際にベッドから落ちて肩を骨折しました。頭を打たなかったのは幸いでしたが、一時帰宅は無しになりました。でも今考えるとこれはむしろよかったのです。土曜は大雪で午前中ぎりぎり帰宅できたとしても翌日は車が出せず、父は病院に戻れなかったことでしょう。土曜の午後病院から帰る時、すでに車で帰るのは無理な道路状態で、兄は県庁の駐車場に車を置いて帰ると決断し、一緒に1時間半かけて歩いて帰宅しました。翌日も電車が運休だったので歩いて病院まで来たのです。父の容体を考えると、もし一時帰宅をしていたら点滴を2日あけることになって大変な事態になっていただろうと想像しぞっとしました。
父の骨折で帰宅できなくなったことに兄と私は非常にがっかりしたのですが、父はそれ以上に動揺していたらしいことを担当医から聞きました。「自分はやることがある、役目がある。」と彼に訴えていたというのです。
すぐに、「聖餐式は病院でしていただきましょう。」と父に言い、牧師先生と連絡を取り、「先生は明日の2時に来てくださいますよ。」と伝えたときのうれしさに輝いた父の顔が忘れられません。ギブスで固定した手を打ちならす拍手の仕草をして、人の顔が輝くとはこういうことかと思いました。
大雪の土曜日、国道4号が動かず病院の方が「よく来れましたね。」というほどの交通状況の中、牧師先生と2名の長老がみえ、父、兄、私とともに聖餐式を行いました。恵みの時でした。相部屋の方にご迷惑にならぬよう讃美歌はなしのはずだったのですが、その方が突然その日の午前中退院されたので気兼ねなく病室を使うことができました。
式の後、父は会堂建築委員長でもある長老を呼び止め、
「会堂はきっといいものが建つから。自分勝手な考えはだめ、牧師、長老、そしてみんなでよく話し合ってがんばりなさい。」
と声をかけました。いつもの説教口調なのは父らしいことでした。
三人が帰られた後、全く満ち足りた様子でリクライニングベッドにもたれながら父は言いました。
「すばらしかったね。」
「うん、いい式だった。すべての罪許されて新しくされました。イエス様と一緒に復活できます。聖餐式ができて、そのあと会堂建築献金をお渡しできて、長老さんともお話できて、100点満点だったね。」
「120点。」
父はそう言うと、目を閉じてなんともいえない微笑みを浮かべかみしめるようにそのままおりました。あんなに幸せそうな表情は見たことがないほどでした。
父のことで様々な後悔はありますが、これだけは私にしかできなかったことだと思います。これができただけでも私が存在した意味があったと思います。