2014年3月29日土曜日

「パソコン復活」


 「パソコンってすぐ壊れるものなんだな。」というのが率直な感想です。修理中に間に合せで買ったタブレット型のパソコンが1カ月で故障しました。修理中のパソコンの時は、「何か使い方が悪かったのか・・」とも思いましたが、今回は電源が入らないという予想もしないトラブルでどう考えてもハードの問題です。こちらも修理に出したところ、「I/Oボード(と聞こえました。)の不具合でした。ご迷惑おかけします。」と電話が来ました。

 タブレット型のパソコンは、インターネットやメールの使用には便利かもしれません。文書作成もとりあえず支障なくできますが、デザイン画をエクセルで作るには全く不向きでした。マウスではなくシフトキーのあるキーボードがどうしても必要でした。

 2つ目を修理に出したころ、1つ目の修理が完了しましたという連絡があり、2泊ですぐ東京に取りに行きました。いずれにせよ一週間後には上京の予定だったのですが、一週間パソコンなしで過ごすことはできないと判断したからです。ホームページ(教会と事業所)やブログの計3つに手をいれないといけない時期でもあり、それに関連してメールの送受信や新製品の作成・販売準備などはパソコンなしではできません。パソコンはもはや外部化されたその人の脳なのです。

 修理から戻ってきたパソコンは初期化された状態ですので設定が大変です。外部記憶に保存できていたものはよいのですが、過去のメール等は全部飛んでいます。これはなくなったものとしてどうしようもありません。タブレット型のパソコンの設定に四苦八苦したばかりなのにまたです。メールの設定などはウィンドウズのバージョン(7か8か)によっても微妙に違うようで、何度もはねられトホホでした。ホームページやブログにアクセスできるよう設定し、プリンターなどの外部ディバイスを認識させ・・・というようなことをしていると丸一日かかります。これを東京と福島の両方でやらなければならないのです。やっと終わってシャットダウンしたところ、「130個の更新プログラムがあります。終了するまで電源を切らないでください。」との表示が出ました。私は寝ましたが、パソコンはその後何時間か働いていた模様です。あんたはエライッ。




2014年3月19日水曜日

「父の腕時計」


 「家から時計を持ってきてほしい。」
と入院中、父に言われました。目覚ましかと思ったら腕時計がよいとのこと。「電話の下の引き出しにあるから。」と言われたのですが、翌日私は持っていくのを忘れてしまいました。トイレの時間と回数を数えるのに必要だからというので、私は自分の時計を貸して次の日父の時計と交換することにしました。

 翌日、父の時計を持っていき交換しようとすると、父は「これでいい。」と言いました。私の時計はバックライトで夜でも文字盤が見えるので気に入ったようなのです。それでしばらくこのまま使い、退院したら交換しようということになりました。

 しかしその日は訪れず、結局私は通販で買った1980円の時計の代わりに父が40年以上前にスイスの本店で買ったオメガの時計を手に入れてしまいました。でもこれは兄にあげようと思います。私には自分の、そして父が最期にしていた時計があるからです。

2014年3月17日月曜日

「不幸中の幸福」


 葬儀の翌日、「11時頃携帯に電話してもいいですか。」というメールを友人から受け取りました。その日私は外で浄化槽を雪の中から掘り起こすのに必死で、時計を見たらもう11時半に近い時刻でした。なにも葬儀の翌日にそんなことしなくてもと思われるかもしれませんが、この仕事はその日の最重要課題でした。

今なら笑い話なのですが、葬儀の日、出棺の2時間前に家にバキュームカーが来たのです。このあたりは各戸が浄化槽を持ち定期的に清掃が行われるのですが、たまたまその日に当たったのです。すぐできることならやっていただこうと思いましたが、浄化槽が雪に埋もれていて今日は無理、また来週出直しますとのことでした。私はこのことに因縁めいたものを感じました。なぜなら入院中にわかった重要なこととして、排泄は人間の尊厳と大きく関わっているという事実があったからです。実際、入院中の問題の半分は排泄の問題だったと言ってもいいほどです。そのためこの排泄の問題を解決するため、私はすでに凍って固くなった雪に風呂場の蛇口からお湯をひいて、さらにつるはしを振るってやっとの思いで浄化槽を掘り出したのです。

 ともかく、すぐ友人の携帯に電話してみました。
「今、清水小学校ってところにいるんだけど・・・」
「はっ? 清水小ってそこの清水小?」
ぶっ飛びました。ぶっ飛んで迎えに行きました。彼女は子供を夫に托し今朝6時に大阪の家を出てきたというのです。住所から携帯のマップを頼りに電車を乗り継ぎ近くまで来て、橋のたもとの和菓子屋で聞いてみたもののわからず、はやり無謀だったかと思っていたところだったと言っていました。向こうから電話しなかったのは家の状況をおもんぱかって遠慮したとのこと。

 彼女は私には絶対できないことをあっさりできてしまう人なのだなあと思いました。会えるかどうかもわからないのに友人にお悔やみを述べるために800キロの道のりをやってくるとは。
結局、1時間半ほど話をして彼女は帰っていきました。しばらくして落ち着いたらあいさつに行きたいと思います。

2014年3月14日金曜日

「病院の人々」


 医者や看護師は大変な激務にさらされる職業です。分刻み、秒刻みで次々とやることがあり、しかも間違いが許されないという緊張の中に置かれています。

 入院中の父の担当医および主に担当してくれた看護師は、大変誠実な職業意識を持った方でした。担当医は超多忙な中でもこちらの要請に応じて要所要所で時間をとって適切な説明をしてくれました。また父の骨折に際しても、それは医療側の奨めに反し、どうしても排泄を自分でしたいという父の強い希望を通したのが一番の遠因なのですが、「こんなことになって申し訳ない。」と率直に述べられました。

 また、看護師さんは大変若い人でしたが、ゆるぎないプロ意識で必要な処置を必要な説明をしながら行ってくれました。特に排泄の問題は大きなそして微妙な問題でしたが、彼女は家族にもできない、家族だからできないことをてきぱきと行ってくれました。耳の遠い父にも聞こえるよう大きな声で話してくれ、父が冗談を言ったりすることもありました。担当の看護師は毎日変わりましたが、おそらく父の病状を知っていたためでしょう、彼女は担当でないときも何かとケアをしてくれていました。

 またその他の病院スタッフも、お風呂に入れない父のために足湯を用意してくれたり、明日は聖餐式という日には父の依頼に応じてきれいに髭を剃ってくれたり、少しでも快適に過ごせるようにしてくれました。

 そのような環境の中で父が最期を迎えられたのは幸いだったと思います。後日病院にご挨拶に行ったとき、担当医には会えませんでしたがお礼状をお渡しくださるよう頼みました。看護師さんには会え、「あなたのおかげで父の入院生活がどれほど明るいものになったか、深く感謝します。どうぞくれぐれもお体に気を付けて、お仕事がんばってください。」とお礼を述べました。

2014年3月12日水曜日

「伝えられたこと、伝えたこと」


 入院中言ってしまったことややらないでしまったことについて、「元気づけのつもりだったが言わなければよかった。」とか「どうしてせずにすませたのだろう。しておけばよかった。」と後悔することがいくつかありますが、「言えてよかった。」「できてよかった。」と思うこともいくつかあります。

 母の時は突然だったので何か伝えるという暇もなかったのですが、私は大事なことを母に言っておかなかったことをずっと後悔してきたのです。それは「私は世界中で一番お母さんのことが好きだった。」ということです。おそらく母は知っていただろうと思いたいのですが、伝えていないことに変わりはありません。

 亡くなる十日ほど前、父は兄と私に対してそれぞれ希望を述べました。兄に対する希望は具体的なものでしたが、私に対する希望は「何でも思ったこと、好きなことをやってみなさい。」というものでした。二人で相談して決めたことならお父さんは反対はしないとも言いました。それから
「お母さんとも話したけど、『大賛成』と言ってた。」
と父は言いました。このころから、壁の方を向いているなと思うと、「今、お母さんと対話してた。」と言うことが増え、先ほどの遺言めいた言葉といい、天に召される日が近いのではないかと思わざるを得ませんでした。

 私も父に伝えたいと思っていたことがありましたが、タイミングが難しく、最後の言葉のように聞こえて父の生きる気力を奪ってしまわないかという心配もありました。

 2月19日の早朝、父の血圧が上がらないと電話があり兄と私がかけつけたとき、幸いなことに意識ははまだありました。今しかない。
「お父さん、今日は少し早く来ましたよ。私たちがこれまで無事に生きてこれたのはすべてお父さんのおかげです。ありがとうございました。これからお父さんはまっすぐ神様のところへ行きます。何の心配もありません。イエス様にも会えますね。お母さんもいます。ヘルベルトもいます。これまでお父さんは一生懸命がんばって生きてきました。家を守ってきました。私たちはお父さんの子供で本当に幸せでした。安心して少しゆっくり休んでください。もう何の心配もいりません。」

 こう言った途端、「ああっ、だめだ。」という兄の声が聞こえました。それまで100あった心拍数がすうっと40まで下がり、やがてゆっくりゼロになりました。その場にいた看護師の方によると「安心されたのでしょう。」ということでした。私の最後の声は父に届いたのです。父と私は最後の思いを伝え合うことができたのです。

2014年3月10日月曜日

「会堂建築と父」


 会堂がない中、伝道館で父の葬儀を執り行っていただいたことを今思い返し、これは決して当たり前のことではなかったと感じています。父が亡くなってすぐに私は牧師先生に「本当は無理なのでしょうが、伝道館で葬儀をさせてください。」と言いました。父をどこかの斎場から送り出すわけにはいかない、父を送れる場所は福島教会以外ないのだという一心からでした。似田先生も教会の皆様も父の葬儀のために最大限心を砕いてくださり、大変温かい立派な葬儀をあげてくださいました。確かに新会堂の建築には間に合わなかったけれども、父は全幅の信頼を置く似田先生の司式により、愛する福島教会の方々が心をこめて準備してくださった場で最期のお別れをすることができました。無牧の時もあったのだ思うと、これが恵みでなくて何でしょうか。

  私自身、2年近く福島教会の方々との交わりがありましたので、父の入院中も、「何があっても似田先生と教会の方々がいてくださる」と思い、一切不安を感じることなく過ごすことができました。毎朝ちょうど一日分の仕事が与えられ、それを終えると夜になるという繰り返しで、主イエスが寄り添っていてくださることをはっきりと感じていましたし、「一日の苦労は一日にて足れり」という御言葉をこれほど身をもって体験したことはありませんでした。

  震災後、伝道館で礼拝が守られたのは幸いでしたが、だからといって会堂がなくてもよいとは父は思っていませんでした。「神様がここに教会を建てなさいといってできた教会なのだから、必ずここに会堂は再建されなければならない、会堂は必ず再建されるのだ。」と父はかたく信じていました。その点では全くぶれることがありませんでした。会堂建築の道筋が整い、基本設計もできて、あとは施工業者を決めて建築するというところまできましたので、父は入院中、会堂建築に関する心配を口にすることはありませんでした。また、自分の寿命が新会堂の完成に間に合いそうもないと知っていたかもしれませんが、それも問題ではありませんでした。父の頭の中ではもう会堂は建っていたのです。最期の表情があまりにも穏やかだったので、父が全く安らかな気持ちでこの世を去ったのは確かです。

2014年3月8日土曜日

「最後の仕事」


 父はとても前向きな人でした。戦争の時代を生き抜いた人特有の強靱さで、これまで数々の病を克服してきました。「生きることはよいことだ」というゆるぎない信念がありました。

 入院したとき体調が最悪だったのと耳が遠いせいで、本人の前で語られた病名を父は知りませんでした。いや、むしろ知りたくなかったのです。治すのは医者なのだから医者が知っていればよいと言い、病名を聞こうともしませんでした。

 入院の翌日、私は牧師先生に電話し父の病状と今後の見通し(早ければ1ヶ月以内、長くても3ヶ月)についてお話しました。とりあえず知っておいていただきたいと思ったからですが、その日の午後には牧師先生が来て病室で祈ってくださいました。そして
「だめですよ。会堂が建つまでは。」
と言って帰られました。牧師が帰った後、しばらくして父は
「これは何の病気なの。病名は何なの。」
と聞きました。私は病名を話し、急激によくなることはないけれど、これまでもいろいろな病気を克服してきたお父さんだからがんばってゆっくり治しましょうと言いました。

 父の容体は少しよいように見える日もありましたが、がくんと悪くなる日もあり、起こりつつある事態を考えざるを得ませんでした。この頃はほとんど食べられなくなっていましたが、父が食べたいというものやほしいものは極力持って病院へ行きました。

 入院生活は治療よりも緩和ケアを中心に行い、入院して2週間後の週末に家に一時帰宅する計画を病院とともに進めていました。これが家に帰れる最後の機会と思い、少しでも快適に過ごせるよう考えを巡らせました。父の寝室はベッドではないので立ち上がるのが難しいだろうと思い、処分しようと思っていた百科事典を敷き詰めて布団の位置を高くしたり、電気毛布をそろえたり、簡易トイレを購入したりというようなことをしているうち、もっと大事なことに思い至りました。
「一時帰宅の時、牧師先生に来ていただいて聖餐式をしていただきましょうか。」
と父に聞くと、父は「うん、うん。」と大きくうなずいて、まだ牧師先生に都合も尋ねない前からすっかりその考えで頭がいっぱいになったようでした。

 それとは別に父は以前から3月に会堂建築献金をすると言っていたことを思い出しました。3月も近いし急に言われても困るので、私は言われた額を準備しておきました。そのことを父に話すと、
「献金は3月でなくてもよい。今でいい。今度牧師先生が来るとき、持って行ってもらったらいい。」
と言いました。その頃はもうベッドの上で身を起こすのもかなりきつくなりつつあったのですが、私はひょっとしたらと思い家から筆ペンと封筒を持って行きました。父の返事は判然としませんでしたが、献金袋の宛名書きは可能なら父に書いてほしかったからです。持っていくと父は宛名書きを書くと言い、ベッドの上であれこれレイアウトを考え原稿を書き始めました。少し休んで間をおいてから、「よし、仕事を片付けてしまおう。」と父は言いました。車椅子に乗せ私が押していくと、テーブルのある談話室で父は車椅子を止めさせ、「ここで書く。」と言いました。それから封筒と同じ大きさに紙を切らせそれに下書きをしました。私が傍で見ていると気が散るらしく、「離れてろ。」と言い、小一時間かけて書き上げました。それから病室に帰るとぐったり横になりました。

 そんなふうにして準備をしていたのですが、明日は一時帰宅という晩、父はトイレに移る際にベッドから落ちて肩を骨折しました。頭を打たなかったのは幸いでしたが、一時帰宅は無しになりました。でも今考えるとこれはむしろよかったのです。土曜は大雪で午前中ぎりぎり帰宅できたとしても翌日は車が出せず、父は病院に戻れなかったことでしょう。土曜の午後病院から帰る時、すでに車で帰るのは無理な道路状態で、兄は県庁の駐車場に車を置いて帰ると決断し、一緒に1時間半かけて歩いて帰宅しました。翌日も電車が運休だったので歩いて病院まで来たのです。父の容体を考えると、もし一時帰宅をしていたら点滴を2日あけることになって大変な事態になっていただろうと想像しぞっとしました。

 父の骨折で帰宅できなくなったことに兄と私は非常にがっかりしたのですが、父はそれ以上に動揺していたらしいことを担当医から聞きました。「自分はやることがある、役目がある。」と彼に訴えていたというのです。
すぐに、「聖餐式は病院でしていただきましょう。」と父に言い、牧師先生と連絡を取り、「先生は明日の2時に来てくださいますよ。」と伝えたときのうれしさに輝いた父の顔が忘れられません。ギブスで固定した手を打ちならす拍手の仕草をして、人の顔が輝くとはこういうことかと思いました。

 大雪の土曜日、国道4号が動かず病院の方が「よく来れましたね。」というほどの交通状況の中、牧師先生と2名の長老がみえ、父、兄、私とともに聖餐式を行いました。恵みの時でした。相部屋の方にご迷惑にならぬよう讃美歌はなしのはずだったのですが、その方が突然その日の午前中退院されたので気兼ねなく病室を使うことができました。

 式の後、父は会堂建築委員長でもある長老を呼び止め、
「会堂はきっといいものが建つから。自分勝手な考えはだめ、牧師、長老、そしてみんなでよく話し合ってがんばりなさい。」
と声をかけました。いつもの説教口調なのは父らしいことでした。

 三人が帰られた後、全く満ち足りた様子でリクライニングベッドにもたれながら父は言いました。
「すばらしかったね。」
「うん、いい式だった。すべての罪許されて新しくされました。イエス様と一緒に復活できます。聖餐式ができて、そのあと会堂建築献金をお渡しできて、長老さんともお話できて、100点満点だったね。」
「120点。」
父はそう言うと、目を閉じてなんともいえない微笑みを浮かべかみしめるようにそのままおりました。あんなに幸せそうな表情は見たことがないほどでした。

 父のことで様々な後悔はありますが、これだけは私にしかできなかったことだと思います。これができただけでも私が存在した意味があったと思います。

2014年3月7日金曜日

「父を送る」

 今思うとパソコンの不調と父が倒れたことは無縁ではなかった気がします。パソコンは父の病状に合わせるかのように重篤な状態になっていき、私はパソコンを用いた活動をすっぱりやめ、心安く父のことだけに集中できるようになりました。 あとのことはどうでもいいことでした。

 父は1月中旬に倒れ、通院検査の後1月下旬に入院し、きっかり3週間後に亡くなりました。入院中の個々の出来事、いやそれ以前にさかのぼる父との様々なやりとりを思い返すと自分の言動で悔いが残る部分がありつらいものがありますが、大局的にみて神様の恵みの御手の中にあったことは疑いありません。

 何よりも最期の三週間を父とともに過ごせたこと、また福島教会に籍を移して2年近くなり、会堂がないなかでも牧師先生と教会員の方々の温かい計らいの中で福島教会から父の葬儀を出すことができたことは神様の慈しみでした。早期退職はこのときのためであったと深く感謝いたしました。

 葬儀から10日ほどたち、2ヶ月近く空けていた東京の自宅にいったん戻りました。満杯になった郵便受けやすでに期限を過ぎている雑務を片づけた後、夕方早い時間に床につきこんこんと眠りました。たまった雑務を片づけ、やっとパソコンも修理に出せましたが、直るまでにだいぶ時間がかかるようなので間に合わせのパソコンを購入し今使っています。少しだけ父のことを書いておこうと思っています。