2023年2月27日月曜日

「祟る神とは何か 3」

 つらつら思うに、日本における「八百万の神」というアニミズムは、本人は全くその意識はないものの、実は自分の感覚で把握し得るものを絶対視する、そういう意味では自分を神とする一神教の外化した姿なのではないでしょうか。より正確には、古代人にとって「自分」という観念は端から無く、知覚した外界全てが拡大した意識そのものなのではないかということです。例えば、深山幽谷に分け入って畏怖する感覚はよく分かりますが、その名状しがたい感覚で捉えたものを「山の神」に還元して名付けるという行動様式をとるのです。

 『万葉集』が詠まれた頃は、「我が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢に見えつつ寐ねらえずけれ」や「朝髪の思ひ乱れてかくばかり汝姉(なね)が恋ふれぞ夢に見えける」などに示されるように、「相手が自分を思っているから夢に出てきたのだ」という思考回路になっていることが分かります。それはひょっとすると歌を詠むときの約束事なのかもしれませんが、現代人には不思議な感覚です。恐らく、夢に誰かが現れると「自分が相手を思っているからだ」と考えるのは、自我という西洋の思想を当然視しているからに過ぎず、古代人にとって「自分」などという観念はないのでしょう。それは明治維新後に流入してきた高々150年の借り物の観念的思考であり、現在でも日本では自分と隔絶した他者なるものは存在しないのかも知れません。

 同性婚をめぐる不適切発言で総理秘書官が更迭されました。「見るのも嫌だ。隣に住んでいたら嫌だ」と述べたと伝えられていますが、この「自分の周りから消えてくれ」という内なる声は最終的には相手の滅亡を願っています。私にとって不可解なのは、具体的に知らない人についてどうしてここまで憎めるのかということです。この方がどのような宗教を信奉されているかは分かりませんが、およそ日本に住む人で神道の影響を受けずにいられる人はいないはずで、上記の発言からはこの方は鎮守の森に守られた閉じたムラに住んでいるような印象を受けます。婚姻という最も原初的な人間関係について、明治以後に法整備された形態以外の婚姻形態を心底憎んでいるとすれば、この方もやはり己を唯一絶対とする世界観を持ち、それにそぐわない外界にどう対処してよいか分からなかったのではないでしょうか。もっと昔の院政時代まで遡ってくれるとよかったのですが・・・。

 祟る神などいない。祟りとは、己の悪行を知るやましさがしっぺ返しとなって立ち現れる現象であり、自らが引き起こした罪業の幻影に怯える独り相撲です。当人に祟りと思われる事象が生起した場合、自分は変わらずにいて、あれこれ表面的に呪鎮を試みてそおっと鎮まってもらうしかないのは、そこに人間しかいないことの論理的帰結です。「触らぬ神に祟りなし」と言われる通り、神に触れるかどうかは自分で決められると思っているのです。

 人間は大地や海の恵みをいただかずには生きられない存在です。ですから世界のどこでも、その土地、その土地の自然からの贈与と言える豊饒を願う様々な宗教的仕掛けがあります。それらに歯向かうことは無駄であり、また無意味なことだというのは、1951年にフランスのディジョンの広場でのサンタクロース人形火刑事件で明らかです。それは他者からの贈与の永遠性をなおいっそう人の記憶に刻んだだけの結果に終わったのです。豊穣というのは原理的に自然からの贈与なのですから、現実に家に神棚があろうとなかろうと、人間が豊かさを第一の価値とするカナン的世界に生きていることは間違いなく、問題はそれら全てを越えて万物を司る神がいることを知らされるかどうかなのです。私自身、自然の美しさや奥深さを畏怖することはよくありますが、それは「神様が造られたものはすばらしい」という思いに圧倒されるからで、自然そのものを神だと感じることはありません。ですから、「サッカーの神様」、「神対応」、「村神様」に至っては、耳にするなり「人間じゃん」と力が抜けて、ずっこけるしかないのです。