このところ日本を知る手掛かりとして『古事記』や『日本書紀』を読みながらそれが書かれた時代背景について調べていますが、一番引っかかりを覚えるのは「祟る神」という存在です。ヤハウェを神とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教では「怒る神」はあっても「祟る」という概念はないように思います。また、神道と融合してからの仏教には怨霊や祟りがあるのかも知れませんが、本来の仏教にそのようなものは無いのではないでしょうか。元来宗教は「赦し」や「救い」を願い求める人間にそれを示すものでしょう。神道に極めて特徴的な「祟り」について考えてみます。
奈良時代の史書『古事記』や『日本書紀』を読むと、古神道の由来はやはり6世紀後半から目指される律令国家の創立と切り離して考えられないという思いを強くします。最初は祭礼として古くから「天皇家の祭儀」として存在してきた様式が、やがて史書による国の統治や支配者の権力の裏付けを得て、「天皇は神の子孫(天孫降臨)」という権威付けがなされていくのです。この2つの性格が2本のあざなえる縄のごとく撚り合わされることにより、複雑で厄介な事態が生じてきます。
すでに6世紀後半には、仏教を重んじる蘇我馬子と神道を守り支える物部守屋が対立したことはよく知られており、この時は廃仏派の物部守屋が破れ、物部氏は没落します。仏教導入の最初期は或る意味神道と同レベルで天皇が仏教を信奉する選択肢があり、その後両者は長い時をかけて融合していく歴史を辿ります。京都東山の月輪山麓にある泉涌寺は天皇家の菩提寺であり、皇室と仏教との縁も長く深いのです。現在の天皇が仏教徒になれるものかどうかは私には分かりませんが、当時の神道の立ち位置が現在とは違うことは確かでしょう。だからこそ飛鳥から奈良にかけての時代、仏教を信じる天皇の御代に天変地異や疫病の流行に見舞われると、祟りと見なし廃仏して神道を重んじるようになったり、逆に仏像を焼いた後に災厄に襲われると、やはり祟りと考えて仏教信仰に回帰し、寺を建立して丁重に慰霊したりといったことが繰り返されました。これは天皇の意向というより天皇家の背後にいる有力氏族間の確執の反映であり、宗教がその抗争の道具にされた側面は否めません。
ここで史書について付け加えたいのは、『古事記』と『日本書紀』が編纂の目的を異にする書物であり、記述内容の相違から様々な背景を知る絶好の手掛かりを与えてくれるということです。どちらも天武天皇の命によって編纂されたとされるほぼ同時代のものですが、『古事記』が712年に献上されたのに対し、『日本書紀』の完成は720年です。わずか8年の差ですが、周囲の状況は慌ただしく動いており、天皇も元明天皇から元正天皇へと、史上初の母から娘への皇位継承が行われています。これまで読んだ時点の私見では、『古事記』は持統天皇を天照大神として天皇家の皇祖神とすることに主眼があるのに対し、対外的な国史としての『日本書紀』は、まさに天皇を担いで国を統制しようとする藤原氏による藤原氏のための権力基盤固めの意図が隠れているように思えます。渡来人であることがほぼ確実な中臣鎌足とその息子の不比等が藤原氏としてのし上がるため、出自を消して様々な画策をしてきた一つに『日本書紀』の編纂があったのです。史書の中にさりげなく事実に反することを入れるだけでなく、黙して語らぬところに真実があるという類の手法を用いているのですから、『古事記』との間に矛盾点があったり、どうにも分からぬ謎があるのも当然です。歴史を握るということは最大最強の権力であり、実際、その後の藤原家は実権の無いお飾りの天皇に娘を輿入れさせ、権力を手中にする摂関政治へ移っていくのです。その意味で『日本書紀』も「全ての史書は勝った側が権力を盤石なものとするために正史とされる」という言説の一例です。