さて神道についてですが、これは第一に豊穣を祈願する天皇家の祭祀から派生した祭儀が一般の民の間に浸透し、民俗宗教としての意味合いを帯びてきたものと言えるでしょう。神道に教義はないと言われることがありますが、神道について特筆すべき最大の点は、「生産性の崇拝」と「生産性崇拝の封鎖性」です。これは同じ一つのことで、即ち「豊かさと安全を希求し、それを自分の所属する一定の領域内に限る」のです。村には鎮守の神がおり、その力が及ぶ境界を示すのは道祖神です。「五穀豊穣」、「家内安全」、「商売繁盛」、「子孫繁栄」は誰も反対する人のいない願望であり、「豊穣祈願」は民の願いと完全に一致するので、無理なく喜んでその土地の民は神社に詣でることができます。外から他の宗教や文化が流入していっときはそれに染まったように見えても、それらは豊かさを求めて取り入れたものである以上、最終的には豊穣の神へと帰っていきます。神道が極めて復元力が強いのはそのためです。
最強に見える神道ですが、神の意図が人の願いと一致するというのは二つの点でまずいのではないかと思うのです。一つは神の威を借る国が国家神道を押し付ける形で民を縛り、自由を奪うことになってしまうという点、もう一つは神と人との境界が判然としなくなり、人が神に成り代われると錯覚しがちな点です。前者は実際に太平洋戦争時に究極の仕方で表出し、天皇は戦後「人間宣言」をしなければなりませんでした。また、宮中祭祀を天皇家の祭儀として執り行っているだけならよいのですが、令和の大嘗祭で図らずも秋篠宮が言及されたにもかかわらず、天皇家の祭祀の費用が国の費用、即ち民の税金で賄われるということが起きてしまいます。こういうことは天皇の意図と関わりなく実務を動かす人次第でとめどなく膨張していく危険があり、習俗だ、伝統だとやんわり民にすり寄る側面と、一方で国の宗教であるとする、ぬえ的装いの狡猾さによって、国に利用される可能性が常に常にあります。行き詰った社会でなし崩し的に行われるこういった動きを止めるのは困難であり、国家神道によって統制された八十年前の戦争が再来しないとは誰にも言えません。
次に、もう一つの特徴点「人が己を神のように思いなして何でもできるかのように振る舞うこと」は或る意味もっと危険を孕んでいます。国家安寧につながるという理由で豊穣祈願が身体化してしまうと、国家の繁栄とは即ち自分の繁栄に他ならず、それを最大の目標にするうち、そのためには自分以外のものに対して犠牲を強いることを全く厭わなくなります。飛鳥、奈良時代の歴史を辿ると、古代において謀反の疑いというものはほとんど全部が濡れ衣と言ってもよく、強大な力を手に入れるため邪魔者を排除するための口実にすぎませんでした。そして、もちろん仕掛けた方は自分のしたことを十分理解していますから、その後に自分の周りで不吉なことが次々と起こると、自分が抹殺した者の祟りだと考えるようになるのです。長屋王を死に追いやった後に、藤原不比等の四人の息子が天然痘で亡くなった時の騒動はその一例です。こういったことは心にやましさを持つ張本人だけでなく、周囲のものや世間一般の見立てとも一致しているので、放置できなくなるのです。
人と神の境界がないのですから、祟られるようなことをした心当たりのある者にとって自分が抹殺した者は、今度は強大な力を持つ祟る神になります。私にとって不思議なのは、その時の祟られ人の対処法が、自分を責めて退いたり、悔い改めて権力を手放すということはなく、必ず相手の怒りや怨念を鎮めるという形で、相手を何とかしようとすることです。反省したり悔恨したり自分を変えるのではなく、どこまで行ってもそこには自分しかいないので、障害物をなだめたりすかしたりして取り除こうとする姿勢は変わりません。