2022年12月29日木曜日

「独身男短命説を考える 2」

  前回は、「未婚男性の3割近くが65歳までに、半数が70歳までに亡くなる」という事実を確認したが、今回はその続きである。

⑥ここで一つの疑問が浮かぶ。出生数は必ず男が女より多いが、高齢者数は必ず女が男より多い。この人数はどこで逆転するのであろうか。単純にどこで人口の男女逆転がおこるのかと調べると、2020年5月の人口推計では、50~54歳男性は433万3千人、女性は428万6千人で男が女より4万7千人多いが、55~59歳の層では男性は388万7千人、女性は389万6千人となり、女が男より9千人多く、ここで逆転が起きている。ざっくり55歳を分水嶺と考えてよいだろう。つまり55歳になるまでに(それ以後もであるが)男性は女性より常時多数の死者を出していることになる。

⑦2020年5月の人口推計では、49歳までの人口の総計は、男3367万7千人、女3229万3千人であるから男が138万4千人多い。20~49歳に絞っても、男2299万1千人、女2211万8千人で男が女より87万3千人多い。離婚、再婚ということがあるにしても、これだけ人数差があるのでは、生物学的摂理として出生数の多い男が未婚化するのは理の当然である。

⑧年齢別に死因を多い順に見てみる。(腫瘍は悪性腫瘍のこと)

  死因1  死因2  死因3  死因4  死因5

50-54男 腫瘍  心疾患  自殺 脳疾患  肝疾患

女 腫瘍  脳血管  自殺 心疾患  肝疾患

55-59男 腫瘍  心疾患  脳血管  肝疾患  自殺

女 腫瘍  脳血管 心疾患 自殺    肝疾患

60-64男 腫瘍  心疾患 脳血管 肝疾患  自殺

女 腫瘍  心疾患  脳血管  自殺   肝疾患

65-69男 腫瘍  心疾患 脳血管 不慮の事故 肝疾患

女 腫瘍  心疾患 脳血管  不慮の事故 肝疾患・自殺

70-74男 腫瘍  心疾患  脳血管   肺炎  不慮の事故

腫瘍  心疾患 脳血管  不慮の事故  肺炎

75-79男 腫瘍  心疾患 脳血管  肺炎  不慮の事故

腫瘍  心疾患 脳血管  肺炎  不慮の事故

80-84男 腫瘍  心疾患 脳血管  肺炎  誤嚥性肺炎

腫瘍  心疾患 脳血管  老衰   肺炎

85-89男 腫瘍  心疾患 肺炎   脳血管  老衰

  女 腫瘍  心疾患 老衰   脳血管  肺炎

90-94男 腫瘍  心疾患 老衰   肺炎   脳血管

老衰  心疾患 腫瘍   脳血管  肺炎

95-99男 老衰  心疾患 腫瘍   肺炎   誤嚥性肺炎

老衰  心疾患 腫瘍   脳血管  肺炎

100超男 老衰  心疾患 肺炎   腫瘍  誤嚥性肺炎

老衰  心疾患 肺炎   脳血管  腫瘍


 見たところ死因は男女で大きな違いが無いように思えるが、例えば50-54歳の死因第1位「腫瘍」こそ女の方が人数でやや上回っている(男3,421人、女3,841人)ものの、人口の男女差逆転後の65-69歳では、腫瘍による死亡者は男22,588人に対し女11,728人と、女性の人口の方が多いにもかかわらず男性の死亡者数がほぼ2倍である。これは他の死因(心疾患や脳疾患)においてはさらに顕著で男性の死亡者数が女性の3~5倍という年齢層さえある。

 以前2020年の10歳から39歳までの5歳刻みの死亡原因総数の第1位が、すべて自殺であるという衝撃の現実について触れたことがあるが、これも男女別に見れば、よく知られているように男の方が圧倒的に自殺数が多く、男は少なくとも女の2倍以上亡くなっている場合が多い。上記の表をパッと見ただけでも、男女とも50歳~64歳の年齢層においても相当な数の自殺者がいることが分かる。また65歳以上に見られる「不慮の事故」というのは何を指すのか(転倒・落下・接触等による死亡事故や交通事故、何かの巻き込まれ事故、火事や水に関係する死亡事故くらいしか思い当たらないのだが)、これがかなり多い数字になっているため、どうしても陰鬱な想像を禁じ得ない。自殺者3万人超えが問題になって久しく、「そう言えば最近聞かないな」と思っていたのだが、どうも「年間3万人どころか、10万人をゆうに超えると言われている」との話しを聞いたからである。財務省の公文書改竄さえあったのだから、厚労省が「自殺」の問題化を避けて死因の分類を変更し、データを操作するくらいはありそうである。基礎資料の信頼性を疑わなければならないとしたら、国民は情けなく、ただ憂えるしかない。

⑨最後に、一般的に女性は男性より長生きであるが、荒川氏のデータから「未婚」「離別」「死別」の場合と異なり、「有配偶」の場合のみ男性の死亡中央値が女性より上回っている(男およそ81歳、女およそ78歳)件について考えたい。一口に有配偶と言ってもいろいろなケースがある。夫婦とも健康で老年まで添い遂げられる場合もあるが、どちらかが病気になって入院したり、やむを得ず老人施設に入所して同居できない場合もあるだろう。健康寿命は平均寿命より十歳ほど下という話もよく聞く。そのうえで妻の死亡中央値が夫より3歳早い原因を求めるなら、現在後期高齢者となっている女性の未婚率が極めて低いことを考慮して、「家族のケアなど様々な心労で心身をすり減らすから」と考えても無理筋ではないように思う。この世代の女性は職業を持つケースは多くなく、専業主婦が当たり前の世代である。定年退職後の夫を持て余す年配女性数人が、定年後6か月で夫を亡くした知り合いの未亡人の話題で、口々に「まあ、なんて羨ましい」と会話する背筋も凍るような話を聞くにつけ、こういう家庭が相当数あるのだろうと思う。私自身、病院の待合で、定年後の夫の食事やお茶の世話で「私の時間なんてあって無きが如きものなの」と嘆くご婦人の話を聞いたことがある。


 以上、人口動態統計ほか冷厳なデータから考え得ることを勝手にまとめてみました。私の目には、収めた年金をほとんど受け取れずに亡くなる未婚男性が相当数いる一方、家族のケアで寿命を削っているかのような既婚女性もいるように見えます。統計の見方に誤りがあるかも知れませんが、なんともやるせない結論になりました。それ以前に若年・壮年層の自殺という非常に重い問題もあります。高度成長期におそらく明るい未来を感じられたせいで増加した人口も1966年の丙午による出生数の激減や1970年からの団塊ジュニアの就職氷河期、その後に続くバブル崩壊、成果主義の導入、経済のグローバル化に対応した非正規雇用のとめどない増加により、日本経済は全く暗澹たるものになっています。今後も少子化と人口減少が進むと考えられ、今のところそれが止まる要因は見出されません。年の瀬にこんな暗い話題になってしまい、誠に残念です。


 ・・・と書いてから、ハッと我に返りました。データを追うのに夢中になって基本中の基本を忘れていました。

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」

 これはマタイ6章27節にもルカ12章25節にもある文言で、主イエスがそのように語られたことがほぼ確実な言葉です。どんなデータがあろうと統計がどうなっていようと、またどんなに健康に気を付けて過ごそうと、まさしくその通り、笑ってしまうほど寿命など思い通りにはなりません。我々の命はただ神の御手の中にあるのです。


2022年12月26日月曜日

「独身男短命説を考える 1」

 「独身者男性の平均寿命は65歳らしい」という話を聞き、調べてみることにしました。往々にして平均寿命というものは統計のマジックで「あれれ」な結果になりがちです。さっそく荒川和久という独身研究家(あらゆることに対して研究している人がいるものですね)という方の書いたウェブ情報に行き当たりました。男女別かつ未婚・離別・有配偶・死別の死亡中央値という興味深い資料が見つかりましたが、無断転載禁止となっているのでここに詳細な数値を書けないのが残念です。概要としては未婚の男性は70歳に届かず、離別の男性は70代前半、また有配偶の女性は80歳に届いていませんが、それ以外は80歳を越え、特に死別の場合は男女とも90歳に近いか90歳を越えています。ちなみに中央値というのは、資料を大きさの順に並べたとき全体の中央にくる数値で、平均値とは違います。死亡中央値とはその年までに半数が死亡するということを表し、「そういえば中学でメジアンというのを習ったな」と思い出しました。

 いずれにせよ未婚男性が著しく短命なのは明らかで、離別男性もそれに次いでかなりの短命だと分かりました。荒川氏は「有配偶女性の死亡中央値が低くなるのは、有配偶のまま死亡する女性の総数が少ないためである」と説明していますが、データから言えば「男は一人だと短命、女は一人だと長寿」ということは明言してよいのではないかと思います。

 さらに、荒川氏は「そもそも若年層はほぼ未婚者なのだから、未婚者の死亡平均値が低くなるのは当然である」ことを踏まえ、50歳以上の配偶関係別死亡年齢データ(2015~2019の5年間のもの)のグラフを掲げています。(50歳で区切っているのは、50歳までに一度も結婚しない人の割合「生涯未婚率」のデータを利用するためと思われます。)配偶関係別というのは、ざっくり「未婚」か「既婚」かに分けたという意味で、既婚には「婚姻関係継続中の場合」と「配偶者に先立たれた場合」を含むようです。これによると、未婚女性、既婚男性、既婚女性の死亡年齢の山が後ろ(即ちより高齢)の方にあるのに対して、この山が未婚男性のみかなり前(即ちより若い)方にずれているのが一目瞭然です。その点では「死亡中央値」ではなく「死亡平均値」であれば、未婚男性はほぼほぼ70歳と言ってよさそうです。これでも低いことに変わりありませんが・・・。グラフから見る限り、一番憂慮すべき特徴は、全く驚くべきことですが、未婚男性は50~64歳(65歳を迎える前)の間に3割近くが亡くなるようなのです。

 ここできちんとしたデータを元に基本的問題を整理するため、2020年の人口推計および人口動態調査に当たってみました。思いつくままに考え得ることを記します。

①2020年5月の人口は、総人口 約1億2589万5千人 (男:約6125万8千人、女:約6463万7千人) で、女が337万9千人多い。

②このうち50歳以上の人口は、約5992万9千人(男:約2758万3千人、女:約3234万6千人)で、女が476万3千人多い。これは総人口の47.6%(男45.0%、女50.0%)を占める。

③一方、2020年の死亡者数は、総死亡者137万2648人(男70万6750人、女66万5898人)で、男が4万852人多い。

④このうち50歳以上の死亡者は、約133万4695人(男:68万2702人、女:65万1993人)で、男が3万709人多い。これは総死亡者の97.2%(男96.6%、女97.9%)を占める。

※死亡者総数に占める50歳以上の割合があまりに多いので計算違いかと思ったが、理由は出生数の変遷にあると判明。出生数が260万人を超えている1947~1949年の団塊世代は言うに及ばず、戦前・戦中の1920年、1930年、1940年も出生数は200万人を超えている。(1920年~1940年のデータはこの10年刻みのものしか見当たらなかったが、この間は毎年200万人前後の出生数と推定してよいだろう。)また、1950~1952年も200万人を超える出生数であり、単純に言って、50歳以上は分厚い層をなしているのである。ちなみに2020年の出生数は84 万832人であるから、200万人というのがいかに途轍もない数字か分かる。勢い死亡者数も多く、総死亡者数の大半を占めることになる。

⑤50歳以上の死亡者数だけで見ると、その割合は50歳から5歳刻みで次のようになる。

男:1.9%→ 2.7%→ 4.1%→ 7.5 %→ 12.4%→ 15.3%→18.4%→ 19.9%と、85歳~89歳で最大になり、以降13.2%→ 4.0 %→ 0.6%と下がっていく。

女:1.1%→ 1.4%→ 1.9%→ 3.4%→ 6.0%→ 8.9%→13.9%→ 21.6%→ 23.8%と、90歳~94歳で最大になり、以降14.1%→4.0%と急激に下がっていく。

50歳以上の死亡者の中で、65歳を迎える前に亡くなるのは、男8.7%、女4.4%で、男は女のほぼ2倍になっている。これが、70歳を迎える前に亡くなる50歳以上の割合となると、男16.2%、女7.8%とさらに差が開く。これは未婚・既婚を合わせた男女それぞれの総数から算出した数値(人口10万対)である。2020年の未婚・既婚それぞれの正確な人数を得ることがまだできていないため、現時点で荒川氏のグラフの詳細な検証はできない。ただ、手元にある総務省統計局の2015年国勢調査における「年齢階級別未婚率の推移」(この場合の「階級」とは5歳刻みの年齢区分を指す)によると、2015年時点で85~90歳男性の未婚率が約2%なのに対し、50~54歳男性の未婚率は21%である。ちなみに女性はそれぞれ約4%、12%である。同様に55~59歳男性および60~64歳男性の未婚率はそれぞれ約18%および14%である。早死にする未婚男性の人数に引きずられて、65歳を迎える前に亡くなる男性が8.7%という数値になるとすれば、やはり未婚男性の四分の一くらいは65歳までに亡くなると考えるのが妥当と思われる。いや、未婚率21%というのは2015年のデータだったのを忘れていた。国立社会保障・人口問題研究所によると、2020年の「生涯未婚率」は男25・7%、女16・4%まで上昇しているというから、やはり荒川氏のグラフが示す通り、「未婚男性の3割近くが65歳までに亡くなる」というのは確かなようである。データから同様に考えると、「未婚男性の半数は70歳までに亡くなる」と言って過たないであろう。

 まだまだ考えられることが整理できないので、この件についてのさらなる考察は次回に譲る。


2022年12月23日金曜日

「雪のある暮らし」

 冬は予定通りに帰省できるかどうか、いつもハラハラします。新幹線のためではなく(福島までは相当雪が降ってもほぼ大丈夫)、食糧確保のためです。家が郊外にあり、最寄りのコンビニまで1キロ、スーパーマーケットまでは1.5キロはあるので、大雪が降ったらお手上げです。そのため2~3日前からネットスーパーの配達受付画面とにらめっこし、「ああ、まだ受付停止だ」と落ち込んだり、受付開始と同時にできるだけ急いで注文を確定してほっと安堵したりします。これが決定してから帰省の日時を決めるしかないのです。

 先日、日本海側の地方で大雪となり、何キロにもわたって車の立ち往生し、また停電が起きて庭に止めた車内で暖を取ろうとして一酸化炭素中毒で亡くなる等の事故がありました。寒さに震える生活はまさに東日本大震災で被災地が経験したことであり、どれほどお辛いだろうと他人事ではありません。雪の降る地域ではオール電化などとんでもない話で、電気がないと使えないファンヒーターでさえ補助的な暖房器具です。主役は何と言っても昔ながらのストーブ、赤々とした火を見ながら湯を沸かし、煮炊きをしているうち、部屋も暖かくなるのです。帰省して乗ったローカル線の待合室には達磨ストーブが燃えていて、また使用していないホームの反対側に置かれた車両は暖房されて、電車を待つ間に体がほぐれました。本当にありがたいサービスです。

 寒気の到来で数日間大荒れの天気が予想された前日、風は強いながら珍しく晴れた幸運を逃さず、3カ所ほど回って必要な買い物をすべて済ませました。「しばらくは一歩も家から出られなくても大丈夫」と安心しました。命綱の灯油は兄に5缶ほど備蓄してもらいました。とにかく天候の良いうちに一生懸命にならないと生きることができないのです。子供のころ住んでいた猪苗代では冬は雪の中で暮らしていましたが、懐かしい情景として兄が床屋さんのことを話してくれました。カット台の向かいに畳敷きの部屋があり、皆でこたつに入って湯気の上がるやかんから湯呑で白湯を飲みながら順番を待っていたというのです。雪国においてこれほどパラダイス的情景はないでしょう。豊かさという尺度を問い直さないといけないと思わされたことでした。


2022年12月18日日曜日

「インターネット・ガバナンス」

 インターネットが今後どのようになっていくのか、私には皆目見当が尽きません。一応その方面の本も読んでみましたが、ほとんど理解できませんでした。各国が熾烈な覇権闘争をしているのは間違いなく、どう転がってどんな影響を被るのか、よくない予感しかしません。先頃ランサムウェアの被害に遭った大阪の大病院が事前にかなり危機感を持って備えていたらしいと聞くと、「いざという時のために或る程度、紙ベースの保存も必要なのではないか」と、時代に逆行する考えを持つほどです。どこぞの国で海底ケーブル切断によるインターネット封鎖などもありましたが、そのような物理的原因以外でも何らかの理由でインターネットが突然死するなんてこと、ないのでしょうか。

 そもそも私は今でさえ、インターネットの進化にまるでついていけていないのです。近年はどの銀行もマネー・ロンダリングの温床となるような口座の洗い出しをしているようで、封書やハガキで確認が来ます。これは郵送なので信じられます。無料で大量に送れる詐欺メールに比べたら、郵便料金は馬鹿高いので詐欺に使われることが無いからです。ところがハガキを読んだところ、QRコードからスマホで何やら回答し、運転免許証などの証明書もフォト機能で撮影して送ることになっています。普段、非常用にしかスマホを使っていない人にこれはハードルが高すぎます。万一証明書の写真がどこか別のところへ行ってしまったら取り返しがつきません。データ化されたものが誤ってどう扱われるかと考えると、背筋が寒くなり、すぐ電話して、「郵送にしてください」と頼みました。「数カ月かかりますがお待ちください」とのこと、私に何の不都合もありません。

 詐欺メールは相変わらず来ています。「緊急」、「最終」、「警告」、「確認」、「照会」、「アカウント」、「お支払い方法」、「お支払金額確定」、「自動退会処理」、「更新できません」、「ログインはこちら」等の文字があったら詐欺メールです。タイトルや送り主の名前が「国税庁」、「e-tax」、「〇〇銀行」、「△△カード」、「えきねっと」、「eki-net」、・・・等は問答無用で迷惑メール設定をします。万々一ここに誤謬があっても、本当に重要な連絡は書類で郵送されてくるので何の支障もありません。友人も「えきねっと」であやうく被害に遭うところだったと言っていました。本当に卑劣な人たちです。私はパソコン画面を開いて見つけるたびに「迷惑メール」の受信拒否リストに入れていますが、いつも暗い情念が湧いてきて本当に嫌でした。

 と、過去形で書いたのは、最近はもう詐欺メールがすぐ分かるので、フィッシング詐欺メール送るような輩をを「フィッシングしてやる」という気持ちに変わったからです。どんどんメールアドレスを変えて送って来るので意味が無いのですが、目障りなので見つけ次第とにかく迷惑メールに指定。ひと月経つ頃には「今月もたくさん採れたわ」と嘲りつつフォルダを空にします。しかし最近は、詐欺メールを送り続けて終わる人生って虚しくないのだろうかと気の毒になり、またクリスマスのこの時は特に、「このような方々も救い主に出会って救われますように」と祈ってしまいます。それにしても私ほど暇人でない人のメールボックスはきっと未開封の詐欺メールで死に絶え、別な連絡手段を使っているに違いないので、詐欺師たちの労力はまもなく無意味なものになって止むでしょう。

 このようにガバナンス能力ゼロを自認している私のようなものは、インターネットにはできるだけ近寄らない、他にできる方法があればそっちを使って行うというアナログに戻ればいいのですが、多忙な中にあってそうもいかない方々、また企業や役所の仕事でインターネットの危険から逃れられない方々のご心労はいかばかりかと思います。絶対に安全ということがない以上、大きな被害に遭わぬよう他人事ながら願うばかりです。


2022年12月13日火曜日

「ラジオの時代」

  ラジオ放送を聞くようになってよかったのは、時間を有効に使えることです。ラジオのニュースは実に簡潔で必要十分のことを伝えてくれ、ラジオでの5分間はおそらくテレビの30分に匹敵する情報量です。さらにCMがないのでストレスフリー。TV音声も入るラジオもあるのでテレビを「聞く」ことはありますが、次のニュースの予告を流したかと思うとそれが出てくるのはCM開けてすぐではなくずっと後だったり、CMが終わったかと思うと前の番組の終わりの部分を再生してから始まったり、番組の後半になるに従ってCMが増え優にシャワーを浴びてくるくらいの時間はあったり・・・引き伸ばしと言うには度を越していてもう破綻しているとしか思えません。特にCM時だけ音量を上げるのはやめてほしい第一のことです。

 古いものも含め東京だけで家にはラジオが6台になりました。ほとんど収集癖と言ってよく、ずっと以前にあまりに安価なので駄目元で買ったラジオも実に良い品で長持ちしています。なぜラジオが増えるかと言うと、チャンネルを操作せずに電源ONだけで聞ける局(AM、FMの特定の局など)を増やすためです。

①日立のポケットラジオ

性能はよいがいつのものか分からないほど古く、ダイアルを手で動かしながら自分でチューナーを合わせるタイプのラジオです。毎回チューニングするわけにもいかず、これはさすがに一つの局に固定して使うしかありません。一番よく聞くNHKラジオ第一放送に合わせてあります。昔のものなので複雑な機能を持つボタンがなく、電源ボタンは上方に飛び出た突起を押し込むだけでONになるため、周囲が暗くても確実に作動できる点が特に気に入っています。

②外国製小型ラジオ-1

十年くらい前に購入したTVも入るラジオで重宝しましたが、つい最近TVは主張できなくなりました。FMは大丈夫なのでこれも局を固定してあります。立てて置けるのが意外と大きなメリットです。

③外国製小型ラジオ-2

手のひらサイズなのに何故かコードで電源につなぐタイプのAM、FM、TVラジオです。テレビは+ボタンを押して一局ずつ変える仕様です。とりあえずチャンネル1に固定しています。

④パナソニックのポケットラジオ

TVチャンネルを一発で出せるボタンを備えたラジオです。もちろんAM・FMも聞けます。たぶん通勤中の方々に愛用されていることと思いますが、イヤホンジャックが側面についていることがデメリットかも知れません。誤作動しないようにとの配慮からか電源ボタンが押しにくいのが不器用な私には少し残念。立てて置けないので小さな菓子箱をくり抜いてスタンドにしています。

※小型ラジオというものは電池使用が基本で、これは節電の大きなメリットです。電池は太陽光パネルにつないで昼間充電しておけばよいからです。私の感触ですが、日本のメーカーのすごいところは乾電池の数が少ないところです。外国製のものは単四電池4本なのに、日本製は2本で済みます。

⑤ソニーの卓上サイズ録音機能付きラジオ

古いものですが、その場で、あるいは予約して録音できるラジオです。これは番組の中で短く流れるコラム的放送やテーマのある音楽放送を録音するのに役立ちます。毎日の放送時間が決まっている番組で、聞き逃しそうなものは予め録音予約しておきます。普段、単三電池4本で使っていますが、電池は相当長く保ちます。

⑥ソニーのポケットラジオ

日立とパナソニックのポケットラジオに対し、老舗のソニーはどんなものかと興味が湧きました。ソニーのラジオは私などにはラジオの値段とは思えぬほど図抜けて高価なので、中古を探して注文。やはり通勤のサラリーマンに特化したものだと分かりました。とにかく小さくどんな胸ポケットにも入るサイズ、かなり古いはずなのにノイズ・キャンセレーション機能でクリアな音声、チャンネル登録でボタン一発選局でき、上部に巻取り式イヤホンがある、何といっても単四電池1本でOKという驚きのエコ仕様・・・「さすがの技術力」と感心しました。最近のはワンセグTV音声も入るようですが、サラリーマンならどれほど高価でも欲しい一品かも知れません。

 「ながら仕事」に圧倒的に有利なのは、「見る」より「聞く」方です。ラジオは家事仕事のお供に最適、AMにするかFMにするか、傍らの台に置いて聞くかポケットに入れて移動しながら聞くか、イヤホンして集中して聞きたいか等、選り取り見取りでサッと取り出し、電源を入れるだけ。さて、朝はFMでクラシックでも聞きましょうか。


2022年12月7日水曜日

「私の主治医」

  自らのたるんだ生活を戒めるために、時折健康本を読むことにしています。「塩分はもう少し控えようかな」とか「やっぱり運動をサボっちゃいけないな」とか「就寝時刻をずらした方がいいのか」等、活を入れられ、「おいしいものは脂肪と糖でできている」に甘えきった脳が目覚めます。本を変えても読む前から書かれていることは大体わかります。「適切な食事、運動、睡眠」、この遂行あるのみなのです。ただ、雑多な本の中にはごくわずかに新たな情報が記されており、参考になる場合があります。

 今年は薬害でひどい目に合ったので、自らの健康維持の特殊項目として、化学物質の排除も加わりました。住居に関しては何しろ古いのでシックハウスの心配はないものの、衣類あるいは端的に皮膚から入る可能性のあるものとして、洗濯、食器洗いの洗剤を全部無添加せっけんに変え、またお風呂場で体を洗うだけでなく、思い切ってシャンプーも無添加せっけんで代用してみましたが、今のところ髪がごわごわになるなどの不都合は起きていません。もちろん、髪がつるつる、サラサラというわけにはいきませんが、化学物質を体内に取り込んでいないと思うだけで、気持ちが上向くようです。このまま少し様子を見てみます。

 食事に関しては、コロナ関係の自粛要請がなくなって外食の機会が増えていましたが、やはり外食や調理された惣菜などは味が濃いと感じ、控えた方がよいと自分で分かりました。毎日自分で調理すれば少なくとも無用な食品添加物は避けられますし、調味料を少量にして極力薄味で食べられます。毎回一から鰹節や昆布でだしを取る気力は無いのですが、これまで使っていた白だしを控えて、ミルで挽いた煮干しを使ってみることにしました。これなら時間のある時に自分で作っておくことができます。

 寒くなってうれしいのは野菜・きのこ類を鍋で多めに食べられることで、これも体にいいこと間違いなしです。また魚、肉、卵など満遍なく食べることでしょうか。スパイス類も侮れず、認知症予防に良いというカレー(玉ねぎと人参のみじん切りを煮込んだだけ)は常備菜、また、暑さが去ってからはブリオッシュをよく焼きますが、半分くらいは血管に良いというシナモンパンにします。生地は強力粉、牛乳、バター、卵、イーストだけですから体に悪いわけがありません。生地に塩や砂糖は入れず、食べる時にクリームチーズやジャム、メープルシロップを添えれば立派なティータイム、豊かな気持ちになれます。

 他には発酵食品として、納豆、味噌、ぬか漬け(かぶが美味しい季節になりました)、ヨーグルトといったごく普通の食品を食べており、今のところ腸活についてはまだまだ未開拓です。ちょっと驚いたのは、ヨーグルトの健康への効用は、日本ではまだ医学的に証明されていないとか。そもそも乳製品は日本人の体質に合わないといった議論もあるようですが、私の健康維持にはすこぶる良いと感じています。

 それから私にとって忘れてならないのは鉄卵の白湯です。毎朝、卵型の南部鉄を入れたやかんで湯を沸かし、7分ほどおいて500mlの保温ポットに移しておきます。これを飲むようになって採決時の貧血気味の値が改善したのと同時に、体のだるさがだいぶ緩和された気がします。相変わらず当日の朝にならないと体調が分からないのですが、気分よく起きられた日にだいたい一日元気に活動できるのは、この鉄卵のおかげという気がします。

 運動に関しては「無理はしないが怠けもしない」というラインを守っており、夏の暑さに比べたら東京の冬はほとんど理想的な運動環境です。ただし気温の低い早朝のウォーキングはやめ、陽が出て少し緩んでから買い物がてら出かけることが多いです。厚着で出かけると汗だくだくになるので、ほんのり汗ばむ程度の服装を予想するのが難しいです。数年前の膝関節変形症もほぼ克服した(痛みを感じない)ことといい、今年の骨粗鬆症薬害といい、これがあと十年遅く起きていたら体力的に乗り越えられたかどうか自信がありません。早い時期に自分の弱点を知ることができ、今後強化していけるのはありがたいことと言うべきかも知りません。

 睡眠に関する医学的な見解は分かれており、高齢者は夜10時に就寝―朝6時に起床が理想的であるとか、老齢になると睡眠時間が短くなるので6時間の睡眠時間でもよいとか、眠れなくても睡眠薬に頼らず、悩まずに過ごした方がいいとか、様々です。起床時刻の早い私はとても夜10時まで起きていられず8時前(7時ということもあります)には就寝しますが、夜中に必ず目覚めます。その後どうしても眠れない時は眠くなるまで音声による読書をしています。そのうちいつの間にか眠っており、朝になる・・・という日が一般的ですが、たまに朝まで熟睡という恵みの夜もあります。とにかく悩まなくていいらしいと知って、「もう睡眠のことで気を揉まなくていいや」と思うと気が楽です。

 誰にでも他の人には分からない自分なりの最適な健康法があるでしょう。異変を感じた時の対処法は最も重要で、「医者に行くかどうか」も含めての判断になります。今年、薬害から私が学んだことは、治療が自分の体質に合ったものかどうか細心の注意を払って受ける(あるいは拒否する)必要があるということでした。「私以上に私の体について知っている人はいない。「最終的な私の主治医は私なのだ」という強い自覚を持たなければと思っています。


2022年12月1日木曜日

「赦されないこと」

 赦す対象として、「負い目=負債」のある人、と、「罪」のある人の違いがありますが、今はこれに触れずに話を進めると、マタイにおいてもルカにおいても、「赦してください」がまずあって、その後に理由として、マタイは「私たちも赦しました」、ルカは「私たちも赦します」が続いています。英語の接続詞asは後文を受けて「~するように、~したように」と訳されるので、プロテスタント教会の「主の祈り」の式文はこれに近い気がします。

 一方、英語の接続詞forはこの例のように前にカンマをつけて用い、「というのは~だから」と、まさしくこのルカのように訳されます。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を赦します」と唱和する聖公会やカトリック教会の祈りはこれに近いでしょう。

 いずれにしても、「人を赦すこと」と「自分が神に赦されること」は一対のこととして考えられていることが分かります。しかし、生身の人間にとって「人を赦すこと」ほど難しいことはありません。特に命が奪い去られるなどもう取り返しのつかない罪についてはそうです。過失ではなく意図的に子供や障害者の命を一方的に奪った殺人の罪を、誰が赦せるでしょうか。そんなことは元来人間にはできないことなのです。一方で、神に赦してほしいと願う罪を誰もが心に持っているものです。そして頭の中でその軽重を計ったりするかもしれませんが、「赦すことを通して赦されること」の困難を痛切に感じるでしょう。人はいつも自分を「赦された者として、そしてまだ赦していない者として」、ということは随分と自分を虫のいい位置に置いたまま長い年月を過ごすのではないかと思います。私の場合今となっては、自分に対して為された赦せない罪は、有難いことに、ありませんが、他者に対して為した赦してほしい罪はどっさりあります。

 ここで検討してみたい他宗教として思い浮かぶのは浄土系仏教における赦しです。私の理解の範囲では、浄土系仏教とは「赦されないこと」を「阿弥陀仏の慈悲によって赦されること」に変え、その条件を極力ゼロに近づける(無条件化する)という革命的なものだったということに尽きます。法然は、仏教で赦されない重罪とされる五逆の罪「父を殺す、母を殺す、阿羅漢(聖者)を殺す、仏の身体を傷つけて血を流す、教団の和合を壊し分裂させる」も赦されることとし、その方法は仏を心中に念じてその名を「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えることでした。さらにその称名において信心が必須化と言えば、当初は付すべき条件として至誠心・深心・回向発願心の三心を考えていた法然は、最終的に三心は念仏によって具足すると言い、また親鸞は三心は如来が衆生に与えるものと解しているので、二人とも事実上唱名念仏による救済を無条件化しています。

 これをさらに進め、「信不信を選ばず」と言い切ったのが一遍です。一遍は「三心というは名号なり。称名するほかに三心は無きものなり」として、信心はもはや救いの必須条件ではなく、信心があろうとなかろうと、念仏により一切衆生が阿弥陀仏によって往生すると説きました。ここで目指されているのは念仏と一つになりきることであって、ここにこの行為をする主体はありません。これは確かに他力信仰としか呼び得ないものですが、行為の主体を軸にした自力・他力の別も、また三心という信心も捨てるとなると、唱名している自分の意識を消さざるを得ないことになるでしょう。自分の行為によって救われるということは自力本願に他ならずあってはならないからです。もはや自分は阿弥陀仏に呼び掛ける主体ではなく、ただ「南無阿弥陀仏」との唱名の中に渾然一体となり、無限者への帰依を実現するのです。一遍の活動が、「捨ててこそ」の空也上人、また踊り念仏に連なるものになったのはこのあたりの事情によるのだと思います。仏教では「人を赦すこと」と「自分が赦されること」はどのような関連が想定されているのかわかりませんが、これまでの論からするとこれを区別しているとは考え難く、恐らく全てが「南無阿弥陀仏」の名号に解消されるのでしょう。

 しかし、キリスト教において主体は欠くべからざるものですから、神との関わりは「呼びかけと応答」という形になります。旧約の時代から、信仰心の無い祭儀や犠牲の献げ物を神は喜ばないことが何度も示されていますから、「信じる」心が如何にして与えられるかが大きな問題です。そして、神から人に降されて間を取り持つのが聖霊なのです。とりわけ、主イエスがこの世の活動を終えられ、十字架の死によって人の罪を贖い、復活して召天された後は、聖霊以外この働きをするものはないのですから、なお一層重要性が増したと言ってよいでしょう。

 前半で考えた罪の赦しについて、ヨハネ二は別の、独特な記述があります。

ヨハネによる福音書20章22~23節

「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

 これは主イエスが復活して召天するまでのごく短い間に、弟子たちに現れた時に述べた言葉です。キリストの体なる教会を成していく弟子たちに語ったのは何よりも「聖霊を受けなさい」だったのであり、その時にこそ赦す力が与えられることが示されています。バプテスマのヨハネは、イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネによる福音書1章29節)と言いましたが、使命を終えて神の御許に帰られ、それ以後罪の赦しは弟子たちに委ねられました。その力は聖霊によってのみ与えられ、望むらくは弟子たちが世界中に遣わされ主イエスの十字架の死による救いを信じることによって、この世の罪が赦されることを神様は願っておられるのでしょう。今は「赦すこと」がいかに不可能と見えても、聖霊を完全に否定しない限り未来永劫「赦せない」とは言い切れないことになります。だからこそ、未来に対して開かれている「聖霊」の働きへの冒瀆は赦されないのだろうと、今現在はそのように考えています。