一般に議論される少子化の原因や対策とは全くベクトルが違う面白い説を知りました。赤川学の『これが答えだ!少子化問題』(ちくま新書、2017年)で詳しく紹介されている高田保馬という学者の説です。高田保馬は明治生まれ(1883-1972)の経済学者にして社会学者、歌人でもある独創的な学者ですが、京都大学で高田保馬から経済原論と経済哲学の講義を聴いた中に、森嶋通夫がいたというだけでも、そのすごさの度合いが分かります。
マルサス(1766-1834)は、幾何級数的に増える人口と算術級数的にしか増えない生活資源との均衡によって、人口増加のメカニズムを説明しましたが、産業革命後の社会では人口問題に影響するファクターが格段に増え、議論は一筋縄ではいかなくなりました。高田保馬は一般的に見られる「豊かな国は出生率は低い」、「貧困層の出生率および富裕層の出生率は高いが、中間層の出生率は低い」という現象に目をとめました。そしてこれらを説明する理論として、準拠集団における生活水準と生活期待水準の水位差という概念に思い至り、中流層における出生率の低下を個人の力の欲望によって説明したのです。すなわち、少子化は、個人が自分と子供の社会階層の上昇を成し遂げる手段として、子供の数を制限して持てる資力の分散を回避することで起こる現象と考えたのです。この説は、『ディスタンクシオン』を著したピエール・ブルデューより六十年も早く理論化されており、少子化問題など全く浮上していなかった1910年代に、やがて日本にも起こるはずの少子化に目を向けていたこの学者の視界は、実に広く遠かったというべきでしょう。
その理論において、社会が利益社会的、個人主義的になっていくことが出生率の低下をもたらすというところまでは「なるほど」と理解できましたが、そこからの展開は驚くべきもので、少子化対策として「国民皆貧論」を唱えているのにはぶっ飛びました。利益社会化と生活水準の上昇を押し止め、全国民が貧乏に自足すれば少子化が止められるというこの説は一読すると無謀に聞こえますが、どっこい、貧困をあくまで相対的生活水準の問題であると喝破し、絶対的生活水準の上昇を否定していないところがさすがです。問題は、社会の中で上位に立ち、その位置を維持しようとする力の欲望なのです。これが少子化問題の真相だろうと私も思います。
世界の他の地域、とりわけ水や食料、電気等のエネルギーが手に入らない、交通・通信手段といったインフラが整わない国に比べたら、日本には一見そういう意味での絶対的貧乏と呼べるものはないように見えます。基本的に貧困感は大方「他人は所有しているものを自分は持っていない」という焦燥感と同義なのです。これまで経済発展の強力な推進力になっていたこの新自由主義的思想を骨の髄まで身体化してしまった人々が、子供さえ「選択と集中」という戦略の対象にした結果が少子化の進行でした。
あらゆることを自分にとって「得か、損か」という観点からのみ考えるというあり方は社会の隅々まで浸透しています。待機児童が解消されない理由として、保育園や認定こども園等を造ろうとしても周辺住民の反対にあうという話はよく聞きますが、もっと強く反対するのは誰あろう、すでに既得権を持っている幼稚園や保育園だと聞いたことがあります。寡占状態であれば、子供不足に悩むことなく経営が成り立つからです。親は少しでも評判がよく費用がかからない園に預けたいと考え、施設側も少しでも良い家庭の子供を入園させたいと考えるのですから、いつまでたっても待機児童問題は解決しないのも当然です。また、もう一つ記憶にあるのは、都立高校の授業料が無料になった時、すでに授業料が無償であった世帯からさらなる支援を求める声があったという話です。他の人の生活水準が少しでも上がれば、自分の生活期待水準も上がるという典型的な例ではないでしょうか。
一億総中流と思い込んでいた時代、「みんながしていることをし、みんなが持っているものを持つ」のが国是の国では、結婚して子供をもつのが当たり前でした。その時代を思うと隔世の感がありますが、中流からの転落不安が喫緊の脅威になっている現在、もう少しばかりのインセンティヴ(子供手当等)では子供を産む思い切りがつかなくなっています。それは何より、社会の下層に組み込まれるのでは「子供が可哀想」と思うからでしょう。こう考えると、高田保馬の「少子化対策としての国民皆貧論」は俄然現実味を帯びてきます。人が自分の準拠集団より下層の集団との間に生活水準の開きを感じる限りにおいて貧困感を払拭できるとするなら、下層集団に支援を与えて生活水準を上げても、それより上層にいる人々の生活期待水準が上がるだけなので、どこまで行ってもこれは追いかけっこです。なにしろ日本は国民がみな中流意識を持っていた国だけに、この競技に巻き込まれる人数は諸外国に比べて桁違いに多く、したがって少子化の速度も加速しています。このまま日本の経済的地盤沈下が進み、富裕層が国外に脱出していなくなった後しばらくして、出生率は上昇に転じるのかもしれません。
そして恐ろしいのは、各種の社会学的データによって明確になっているように、ここ三十年以上、非正規雇用の拡大によって、単に下層なのではない底辺層が形成され、正規雇用との間の格差増大により、その層がますます分厚くなりつつあるという事実です。この過程はまるで国民皆貧への道筋を見せられているようだと感じます。力の欲望のメカニズムによって、国民皆貧が達成されるまで少子化が止まらないとしたら、それも仕方ないのかもしれません。ただ、高田保馬が思考した百年前と今とで違う点は、地縁・血縁のつながりによるセーフティネットがほぼ完全に崩壊してしまっていること、それどころか、世界経済がグローバル化しマネーが国境を越えて移動するようになったことで、国民国家という概念さえ揺らいでいることです。社会にポツンと放り出され、子供どころか自分の明日の生活さえ見通しがない国民がこれほど出ようとは、そして事実上国家に帰属しない富裕層が国民国家の解体を推し進めることになろうとは、高田保馬にも想像できなかったのではないでしょうか。自由に居所を変える富裕層とは無関係に、残された国民の間で皆貧化はスピードアップするでしょうが、これが生活水準の相対的貧困ではなく、絶対的貧困である可能性はかなりあります。