2021年12月30日木曜日

「紅春 195」


   秋口から本格的にりくの「脚力強靭化計画」に乗り出し、せっせと散歩に励んでいたところでした。歩く時少し弧を描いていた右後ろ脚も改善してきて、半分までしか上れなかった階段も七分目まで上れるようになってきたところだったのに、自分の方がアクシデントに遭ってしまいました。この騒動で早めに上京することになり、りくに申し訳ない気持ちです。帰る時、いつもは寝ているりくがわざわざ起きてきて、「姉ちゃん、もう帰るの?」という顔で見つめているので、「散歩してあげられなくてごめんな」と言いました。「姉ちゃん、また治して来てね」と、りくの声を代弁する兄に駅まで送ってもらいながら、「くれぐれもりくの散歩よろしく」と頼んできました。

 思えば暮れも押し迫った15年前の12月30日、「新しいうちで新年を迎えられてよかったね」と柴犬舎の人に見送られながら、りくを連れて帰りました。大きなケージの隅っこでちょこんと座っていた生後11週の本当にちっちゃな子犬でした。用心深いりくは本当に少しずつ家に慣れていき、父の薫陶を受けながら近所デビューをしてあっという間に人気者になりました。やがて恐ろしく賢い成犬になり、いつしか老犬になりました。年末か年始のどちらかをりくと過ごすのが恒例でしたが、今回はずっと東京で残念です。りくに会いたいなあ。



2021年12月25日土曜日

「リアルな老後体験」

 帰省先で不注意からアクシデントに遭遇、時節柄地方の病院にかかるのは気が引けたので、クリスマス礼拝にだけ出席して急遽自宅に戻ることにしました。翌日受診すると、「骨折してます。一カ月は安静に」と言い渡されました。あまりにお間抜けなことなので詳細は控えますが、たぶん人生初の骨折です。痛いは痛いのですが、骨折箇所が脚ではなかったため、「骨折してても帰省先から新幹線で戻れる程度なのか」と妙に感心しました。入院せずに済み、湿布を貼り換えながら自然に治るのを待つだけでよいと知り、ひとまずホッとしました。

 最初の一、二日はかなり痛かったのでほとんど動けず、何年後かの身体動作の予行演習のようでした。以前罹った変形性膝関節炎が完治し、違和感なく過ごせるようになるまで三年かかり、また、その後に生じた五十肩は受診して注射で即日治ったっけ。膝の時は経路にあるエレベーター、エスカレータの設置場所を頭に叩き込んで行動しなければなりませんでしたし、五十肩の時は受診するまで日ごとに痛くなって寝返りも打てない状態だったことをつらつら思い出しました。いろいろ体験していてお恥ずかしい限りですが、あまり高齢にならないうちに今回のことが起こってよかったと思うのは、こういう場合の対処法が体感できたのと、まだ持ちこたえる気力が十分ある歳だったというのが大きいです。少しずつでも確実に良くなっていくのを実感しながら、このリアルな老後体験も神様の御差配だなと思い至りました。横臥して考えるのは今後の将来設計に役立つことばかりです。

 身体に異常が起きたとき一番気になるのは、「今どういう状態にあるのか」ということだと今回実感しました。そしてそれが判っただけで、ほとんど治ったと言えるほど気分が楽になったのです。さらにまたしても知らされたのは、自然治癒力のすごさです。これほど医療の進んだ現代でも、自然に治るのを待つしかないとはなんと小気味よいことでしょう。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない(マルコ4:27)」といった自然現象と同様、このような治癒力はまさしく自然のものでえありながら、その自然を司る超自然的な方がおられるのを感じます。幸い日常生活は支障なくできる状態なので、神様から少しお休みをいただいたと受け止めています。朝夕祈りつつおとなしく過ごす静かな年末年始です。


2021年12月22日水曜日

「今年の私的ヒット調理器具」

1.鉄製蓋つきグリルパン

 「今年の」と言っても、私が知らなかっただけで既に多くの方に使われている製品なのでしょう。電子レンジは別として、ガスを使う調理には、大きく「焼く・炒める・煮る・蒸す」等の方法があり、これまで調理器具として、焼き網・フライパン・鍋・蒸し器等くらいしか使ってきませんでした。焼き魚は普通コンロ下に付属しているグリルを使いますが、臭いが出るのでこれまで東京ではやったことがなく、帰省した時しか食べられませんでした。焼き魚用の電気ロースターもあるようですが、私の台所には置き場がないほどの大きさです。そこから検索するとコンロ付属のグリルで使うグリルパンがヒットし、購入することにしました。いつも調理器具を買う時は半分以上期待外れを覚悟していますが、このグリルパンは大正解でした。以下はそのメリットです。

(1) ガスコンロ付属グリルのスペースを利用しない手はありません

 ここに入るサイズの鉄製蓋つきグリルパンを選んだので、使用後の収納場所に困りません。陶器製のもありましたが、①鉄製である、②蓋が付いている、③ハンドルが付いている、の三点から商品を決定しました。そのメリットは、①熱伝導がよく壊れない、多少焦げても気にならない、②料理によって蓋が付け外しでき、蓋つきで蒸すと食材がふっくらし、臭いを抑えられる、その後に蓋を外して焦げ目がつけられる、③他の多くはミトンで取り出す仕様でしたが、やけどが恐くてハンドル付きはありがたい、といったところでしょうか。

(2) 魚はもちろんですが、肉や野菜を入れて蓋をして焼くだけで、素材の美味しさを味わえることが分かりました。特に肉がふんわり焼けるところはフライパンとは明らかに違います。

(3) この商品の気を付ける点はただ一つ、「中火」以上にしないこと」です。このことは取扱説明書にくどいくらい書いてあるのですが、なぜか添付されているレシピの冊子には「強火で焼く」と書かれているため、レヴューに記載された不具合はこの間の齟齬に起因するようです。この点は製品に合わせてレシピの方を書き改めるべきでしょう。強火で焼いてはいけません。鉄製なので使用後、洗った後は水気を拭きとり油を塗っておく等の手入れは必要ですが、とにかく手軽なので困った時のグリルパン頼みになりそうです。


2.耐熱ガラスの保存容器

 これまで下ごしらえした食材や調理した料理はタッパーで冷蔵庫や冷凍庫に保管してきましたが、重いというハンディはあるもののガラスの容器がよいかと思い、サイズ違い8点セットの蓋つき耐熱ガラス保存容器に買い換えました。以下、利点です。

(1) 400℃の耐熱ガラス

 料理を小分けにして保存し、必要な時にそのままオーブンに入れることができます。

(2) 汁物OKの保存容器

 容器が密閉できる蓋付なので、横にしても中身が漏れないとのこと。故意にやったことはありませんが、今まで鍋ごと冷蔵していた汁物も気軽に保存でき、場所をとらず、冷蔵庫内が整理できます。

(3) 中身が一目瞭然、重ねて使える利便性

 タッパーでも半透明で或る程度中身の区別はできましたが、ガラスだとさらに明瞭で、欲しいものがすぐ取り出せます。うまく冷蔵庫の棚の高さに合わせているようで、二段重ねもちょうどよくでき、冷蔵庫が広くなった感じです。

(4) 蓋の開閉が容易な空気孔の存在

 保存時の温度によっては蓋が外れないほど密閉しますが、空気孔が付いているので問題なく開けられます。


 よく考えられた保存容器で、1セットあるとなにかと重宝します。気を付ける点があるとしたら、当たり前ですが直火で使わないこと、蓋をしたまま電子レンジやオーブンにいれないことでしょう。コロナ禍で自粛生活が長くなり、調理についてまだ改善点があるとわかった年でした。ちょっとしたことですが、利便性が上がると気分も軽くなります。


2021年12月17日金曜日

「紅春 194」


 本格的な冬支度をしながら、最近のりくはすっかり寒がりになったなと思います。以前は秋口から下毛がびっしりと生え、見た目ぷっくりとした感じになったのですが、今は痩せ犬のまま・・・。天然のコートがなくては寒がりになるのもやむなしと、りくの寝床をパワーアップしました。厚手の毛布の一部を縫って袋状にし、なるべく体が飛び出ないようにしてこたつにセットしました。今までの寝床も少し嵩上げし、その上に毛布を置くようにしたのでふかふかのはずです。りくも気に入ったみたい。

 また、全身を濡らして風邪でもひかれては大変と、この冬はお風呂に入れるのは断念しました。そのかわり、シャンプーを薄く溶いたお湯にタオルを浸して絞り、りくの体を拭くことにしました。これを三回繰り返し、最後はお湯で拭くと相当きれいになります。りくも毛づくろいをしてもらっているとわかるらしく、嫌がるどころか喜んでいます。またいい季節になったらジャブジャブ洗ってあげましょう。

 一年で最も日の出が遅い季節、りくが早朝起こしに来ることはなくなりました。私が5時頃起き、台所でストーブに火を入れてごそごそしていると、しばらくしてりくが顔を出します。それから阿吽の呼吸で散歩に出かけるのがこのところの日常です。


2021年12月13日月曜日

「思わず納得、少子化の真の理由」

  一般に議論される少子化の原因や対策とは全くベクトルが違う面白い説を知りました。赤川学の『これが答えだ!少子化問題』(ちくま新書、2017年)で詳しく紹介されている高田保馬という学者の説です。高田保馬は明治生まれ(1883-1972)の経済学者にして社会学者、歌人でもある独創的な学者ですが、京都大学で高田保馬から経済原論と経済哲学の講義を聴いた中に、森嶋通夫がいたというだけでも、そのすごさの度合いが分かります。

 マルサス(1766-1834)は、幾何級数的に増える人口と算術級数的にしか増えない生活資源との均衡によって、人口増加のメカニズムを説明しましたが、産業革命後の社会では人口問題に影響するファクターが格段に増え、議論は一筋縄ではいかなくなりました。高田保馬は一般的に見られる「豊かな国は出生率は低い」、「貧困層の出生率および富裕層の出生率は高いが、中間層の出生率は低い」という現象に目をとめました。そしてこれらを説明する理論として、準拠集団における生活水準と生活期待水準の水位差という概念に思い至り、中流層における出生率の低下を個人の力の欲望によって説明したのです。すなわち、少子化は、個人が自分と子供の社会階層の上昇を成し遂げる手段として、子供の数を制限して持てる資力の分散を回避することで起こる現象と考えたのです。この説は、『ディスタンクシオン』を著したピエール・ブルデューより六十年も早く理論化されており、少子化問題など全く浮上していなかった1910年代に、やがて日本にも起こるはずの少子化に目を向けていたこの学者の視界は、実に広く遠かったというべきでしょう。

 その理論において、社会が利益社会的、個人主義的になっていくことが出生率の低下をもたらすというところまでは「なるほど」と理解できましたが、そこからの展開は驚くべきもので、少子化対策として「国民皆貧論」を唱えているのにはぶっ飛びました。利益社会化と生活水準の上昇を押し止め、全国民が貧乏に自足すれば少子化が止められるというこの説は一読すると無謀に聞こえますが、どっこい、貧困をあくまで相対的生活水準の問題であると喝破し、絶対的生活水準の上昇を否定していないところがさすがです。問題は、社会の中で上位に立ち、その位置を維持しようとする力の欲望なのです。これが少子化問題の真相だろうと私も思います。

 世界の他の地域、とりわけ水や食料、電気等のエネルギーが手に入らない、交通・通信手段といったインフラが整わない国に比べたら、日本には一見そういう意味での絶対的貧乏と呼べるものはないように見えます。基本的に貧困感は大方「他人は所有しているものを自分は持っていない」という焦燥感と同義なのです。これまで経済発展の強力な推進力になっていたこの新自由主義的思想を骨の髄まで身体化してしまった人々が、子供さえ「選択と集中」という戦略の対象にした結果が少子化の進行でした。

 あらゆることを自分にとって「得か、損か」という観点からのみ考えるというあり方は社会の隅々まで浸透しています。待機児童が解消されない理由として、保育園や認定こども園等を造ろうとしても周辺住民の反対にあうという話はよく聞きますが、もっと強く反対するのは誰あろう、すでに既得権を持っている幼稚園や保育園だと聞いたことがあります。寡占状態であれば、子供不足に悩むことなく経営が成り立つからです。親は少しでも評判がよく費用がかからない園に預けたいと考え、施設側も少しでも良い家庭の子供を入園させたいと考えるのですから、いつまでたっても待機児童問題は解決しないのも当然です。また、もう一つ記憶にあるのは、都立高校の授業料が無料になった時、すでに授業料が無償であった世帯からさらなる支援を求める声があったという話です。他の人の生活水準が少しでも上がれば、自分の生活期待水準も上がるという典型的な例ではないでしょうか。

 一億総中流と思い込んでいた時代、「みんながしていることをし、みんなが持っているものを持つ」のが国是の国では、結婚して子供をもつのが当たり前でした。その時代を思うと隔世の感がありますが、中流からの転落不安が喫緊の脅威になっている現在、もう少しばかりのインセンティヴ(子供手当等)では子供を産む思い切りがつかなくなっています。それは何より、社会の下層に組み込まれるのでは「子供が可哀想」と思うからでしょう。こう考えると、高田保馬の「少子化対策としての国民皆貧論」は俄然現実味を帯びてきます。人が自分の準拠集団より下層の集団との間に生活水準の開きを感じる限りにおいて貧困感を払拭できるとするなら、下層集団に支援を与えて生活水準を上げても、それより上層にいる人々の生活期待水準が上がるだけなので、どこまで行ってもこれは追いかけっこです。なにしろ日本は国民がみな中流意識を持っていた国だけに、この競技に巻き込まれる人数は諸外国に比べて桁違いに多く、したがって少子化の速度も加速しています。このまま日本の経済的地盤沈下が進み、富裕層が国外に脱出していなくなった後しばらくして、出生率は上昇に転じるのかもしれません。

 そして恐ろしいのは、各種の社会学的データによって明確になっているように、ここ三十年以上、非正規雇用の拡大によって、単に下層なのではない底辺層が形成され、正規雇用との間の格差増大により、その層がますます分厚くなりつつあるという事実です。この過程はまるで国民皆貧への道筋を見せられているようだと感じます。力の欲望のメカニズムによって、国民皆貧が達成されるまで少子化が止まらないとしたら、それも仕方ないのかもしれません。ただ、高田保馬が思考した百年前と今とで違う点は、地縁・血縁のつながりによるセーフティネットがほぼ完全に崩壊してしまっていること、それどころか、世界経済がグローバル化しマネーが国境を越えて移動するようになったことで、国民国家という概念さえ揺らいでいることです。社会にポツンと放り出され、子供どころか自分の明日の生活さえ見通しがない国民がこれほど出ようとは、そして事実上国家に帰属しない富裕層が国民国家の解体を推し進めることになろうとは、高田保馬にも想像できなかったのではないでしょうか。自由に居所を変える富裕層とは無関係に、残された国民の間で皆貧化はスピードアップするでしょうが、これが生活水準の相対的貧困ではなく、絶対的貧困である可能性はかなりあります。


2021年12月9日木曜日

「家事をめぐる家族の形」

 最近聞いて面白かった2つの話として、一つは海外赴任したご夫婦の体験談、もう一つは家事の減量方法についてのアイディアがあります。

1.海外赴任の主夫と主婦

 二つの体験談は、日本で双方とも仕事をもっていた夫婦の片方が海外赴任となり、夫婦で話し合いの末、単身赴任ではなく、もう一方が仕事をやめて配偶者についていくという選択をしたケースでした。

 夫が仕事をやめて家事を担当したケースでは、日本の主婦と同様、よい食材を求めて奔走したり、子供のお迎え時になんとなく会話に加われず手持無沙汰を感じたり、学校の休みが多くて子供を持て余し、自分の時間を切望するといった姿に、「主婦と変わらないな」と思いました。それだけでなく、妻に申し訳なくて自由にお金が使えない、なんとなく妻の機嫌を伺ってしまう、趣味的に週末料理をする妻をありがた迷惑に思うなど、役割分担が逆転すると夫婦の立場も逆転すること、また、男女の家事能力に性差はないことがわかりました。このケースでは夫が普通の感覚の人だったためそうなりましたが、日本ではこのような場合でも酒浸り、ギャンブル浸りで恬として恥じないタイプの夫が存在します。個人の意識の問題と言えばそれまでですが、日本に厳然としてある家父長的風土がそれを許す土壌となっているのではないでしょうか。

 二つ目は割とよくあるケースで、商社勤務の夫の海外赴任に妻が同行した体験談です。この体験談では、妻は仕事をしたいのに商社の内規で労働ビザが取れないようになっていたという実情がありました。ビジネスマンの配偶者ビザで渡航するのだから、家事の切り盛りを期待されているのでしょう。ただ、東南アジアへの赴任ではメイドを雇うことが一般化しており、時間が余るのでこの女性はネットで現地の記事を書くなどの仕事を見つけ、細々となさっていたようです。「今日はメイドさんが来る日だから、家をきれいにしておかなきゃ」というのは笑えますが、これが日本の主婦の普通の感覚でしょう。そして、笑えなかったのは、この方が「今、自分がこの国にいられる根拠は夫のビジネス渡航の配偶者であることに存し、夫の愛情を失って離婚すれば何も持たずに退去するしかないと気づいたことです。すでに日本での仕事を辞めてきているのです。日本ではぼんやりとしか意識されていなかったことが外国で暮らすことによって先鋭化したのでしょう。

2.家事はどこまで減らせるか

 上記の課題に真摯に取り組んでいる主婦たちがいて、様々な情報を共有し合っています。これはどうも小さな減量を細かく積み重ねていくことでしかまとまった時間は作れないようで、特にお子さんのいる働く女性には必須のスキルです。

  一息入れようと座った途端子供に「麦茶ちょうだい」と言われた体験から、考えに考えて麦茶のミネラルは別の方法で摂取することにし、水道直結のウォーターサーバーを設置、子供が自分で飲める体制を作りました。掃除はお掃除ロボットにお任せで、「ルンバのために道をつけてあげて」と言うと、子供は喜んで片づけをしてくれるとのこと、あっぱれです。洗濯は干す手間を省くため、泣く泣く全自動乾燥機付きドラム式洗濯機に買い替え、乾いたら山にして各自自分でそこから取る、もしくは、下着だけは数を厳選しておき、すぐその場で各自の下着ケースに収納。一番手間のかかる料理については、作り置き家事代行を依頼したり、週に1日は夫に外食してきてもらう、スーパー等でお弁当を買ってくる、子供がテーブルで一緒に作れるような料理(お好み焼き、おにぎり等)にするといった工夫をされていました。時には料理を休んで子供の話をよく聴くようになり、カリカリしながら夕飯作りをしていた時より家庭の雰囲気がずっとよくなったとのことで、これは本当にすばらしいことだと思います。

 一分、一秒がとれないお母さんにはどんな方法を使っても家事を減量し、もっと大切な子供との時間に使ってほしい、また、政府は家事負担の軽減を支援していただきたいです。需要はあるのに高額なのではなかなか手が出ず、成長分野であるはずの家事軽減サービスも発展しないでしょう。残念ながら私には取り入れられそうな減量方法はありませんでした。家事をするのは健康維持と認知症予防が主目的ですし、掃除ロボットを必要とするほどの空間もありません。それに聴く読書になってから、家事の間はむしろご機嫌です。


2021年12月6日月曜日

「紅春 193」

 

 りくの脚が弱ってきています。進行方向に対して体が斜めになって歩いたり、トイレのため踏ん張ろうとして後ろに一歩、二歩と後退して尻もちをついてしまったり・・・。左の後ろ脚をかばっているようです。朝の一周2キロ散歩は何とか行けていますが、このままではいけません。変形性膝関節症から回復した自分の体験から、大事なのは大腿四頭筋を鍛えることだとわかっています。脚を傷めない範囲で負荷をかけて歩くしかないのです。

 幸いりくは散歩が大好きです。家に帰って4時間ほど寝ると回復するらしく、行きたいだけ行かせようと出かけます。途中で動けなくなったら肩に担いで帰る覚悟です。先日、いつものコースを逆回りした時、途中にある上り階段を勢いをつけて上って行ったのですが、中程で止まってしまいました。いつもはこれが下り階段だったので気づかなかったのですが、もう全部は上れなくなっていたのです。でも、あとの数段を抱っこして上げてやると、また歩き出し、結局一周できました。

 こんなふうに歩いては寝て回復し、また歩くということを繰り返しています。三回目にまた一周できたこともあります。一日に三周は新記録。脚力はすぐにつくものではないので忍耐が要ります。問題はこれから冬本番になること、寒いのはしかたないけど、雪は降らないでほしい。積もれば滑ってひねって脚を痛める危険があるし、積もらないまでも小雪の混じった吾妻おろしはつらい。りくも最近は歳とって寒がりになったしな。


2021年12月1日水曜日

「たのしみは ~橘曙覧の世界~」

 東京で通っている教会では年4回の会報のほか、毎年教会員の自由投稿で冊子を編んでいます。今年はコロナによる自粛生活を綴ったものも多く、庭の木々に宿る蝶や鳥の見守り、頼まれて飼育し始めた金魚や猫のお世話に関する話など、制約のある日常の中でも愛しきものに目をとめて過ごされた様子に胸がほっこりしました。まさしく「たのしみは 朝おきいでて 昨日(きのふ)まで 無(な)かりし花の 咲ける見る時」と詠んだ橘曙覧の世界です。

 この江戸時代後期の国学者、歌人は困窮の中でもささやかな楽しみを見つける天才で、誰もが「それわかる!」と共感を覚える歌をたくさん読んでいます。なかでも「たのしみは」に始まる52首の独楽銀(どくらくぎん)は正岡子規が絶賛した傑作で、ドナルド・キーンが英訳してアメリカで有名になったようです。前述の歌は天皇皇后両陛下を招いた晩餐会でクリントン前大統領が引用したことで、逆輸入のような形で彼の人気に火が付き、国内での掘り起こし、再研究につながったとのことです。いくつかあげてみると、

「たのしみは 艸(くさ)のいほりの 莚(むしろ)敷(し)き ひとりこころを  静めをるとき」

「たのしみは 空暖(あたた)かに うち晴(は)れし 春秋(はるあき)の日に 出(い)でありく時」

「たのしみは 常(つね)に見なれぬ 鳥の来て 軒(のき)遠からぬ 樹(き)に鳴きしとき」

「たのしみは そぞろ読みゆく 書(ふみ)の中(うち)に 我とひとしき 人をみし時」

「たのしみは 世に解(と)きがたく する書(ふみ)の 心(こころ)をひとり さとり得(え)し時」

「たのしみは 家内(やうち(やぬち))五人(いつたり) 五(いつ)たりが 風だにひかで  ありあへる時」

「たのしみは 心(こころ)をおかぬ 友(とも)どちと 笑ひかたりて 腹(はら)をよるとき」

「たのしみは たのむをよびて 門(かど)あけて 物もて来(き)つる 使(つか)ひえし時」

「たのしみは 木(こ(き))の芽(め)瀹(に)やして 大きなる 饅頭(まんぢゅう)を一つ  ほほばりしとき」

「たのしみは ほしかりし物 銭(ぜに)ぶくろ うちかたぶけて かひえたるとき」

「たのしみは 昼(ひる)寝(ね)せしまに 庭(には)ぬらし ふりたる雨を さめてしる時」

「たのしみは 妻子(めこ)むつまじく うちつどひ 頭(かしら)ならべて 物(もの)をくふ時」


 要するに全てが超絶「あるある」で、全部を紹介せずには済まないほどです。その中に、「たのしみは 神の御(み)国(くに)の 民(たみ)として 神の教(をし)へを ふかくおもふとき」というのがあってハッとしましたが、橘曙覧は国学者ですからここで言う御国というのは皇国のことです。でもこれはクリスチャンが日々感じながら過ごしている思いでもあります。「ここも神の御国なれば」という讃美歌がありますが、クリスチャンはどこの国にあっても創造主なる神が治めるところという意識があり、置かれた場所で神を賛美しながら生きていこうとする民です。私は歳をとってメンタルが弱まっているようで、近年は不正や暴力が渦巻く混沌とした世界やあまり過酷な社会の現状に向き合うのが耐えがたくなっています。小さな喜びを見出す、ごく普通の感覚を失くしたら発狂してしまうかもしれないところまで厳しい時代になったのです。


たのしみは 雑事の合間キッチンに ふっとコーヒーの 薫り立つとき

たのしみは 書籍情報友に聞き 芋づる式に 読書する時

たのしみは 窓に雨音聞く夕べ なみなみの湯に つかりおる時

たのしみは 散歩をせがむ犬の手の 肩とんとんを 三度待つ時

たのしみは 今日は礼拝あるのみと 日曜の朝 予定知るとき