東京で通っている教会では年4回の会報のほか、毎年教会員の自由投稿で冊子を編んでいます。今年はコロナによる自粛生活を綴ったものも多く、庭の木々に宿る蝶や鳥の見守り、頼まれて飼育し始めた金魚や猫のお世話に関する話など、制約のある日常の中でも愛しきものに目をとめて過ごされた様子に胸がほっこりしました。まさしく「たのしみは 朝おきいでて 昨日(きのふ)まで 無(な)かりし花の 咲ける見る時」と詠んだ橘曙覧の世界です。
この江戸時代後期の国学者、歌人は困窮の中でもささやかな楽しみを見つける天才で、誰もが「それわかる!」と共感を覚える歌をたくさん読んでいます。なかでも「たのしみは」に始まる52首の独楽銀(どくらくぎん)は正岡子規が絶賛した傑作で、ドナルド・キーンが英訳してアメリカで有名になったようです。前述の歌は天皇皇后両陛下を招いた晩餐会でクリントン前大統領が引用したことで、逆輸入のような形で彼の人気に火が付き、国内での掘り起こし、再研究につながったとのことです。いくつかあげてみると、
「たのしみは 艸(くさ)のいほりの 莚(むしろ)敷(し)き ひとりこころを 静めをるとき」
「たのしみは 空暖(あたた)かに うち晴(は)れし 春秋(はるあき)の日に 出(い)でありく時」
「たのしみは 常(つね)に見なれぬ 鳥の来て 軒(のき)遠からぬ 樹(き)に鳴きしとき」
「たのしみは そぞろ読みゆく 書(ふみ)の中(うち)に 我とひとしき 人をみし時」
「たのしみは 世に解(と)きがたく する書(ふみ)の 心(こころ)をひとり さとり得(え)し時」
「たのしみは 家内(やうち(やぬち))五人(いつたり) 五(いつ)たりが 風だにひかで ありあへる時」
「たのしみは 心(こころ)をおかぬ 友(とも)どちと 笑ひかたりて 腹(はら)をよるとき」
「たのしみは たのむをよびて 門(かど)あけて 物もて来(き)つる 使(つか)ひえし時」
「たのしみは 木(こ(き))の芽(め)瀹(に)やして 大きなる 饅頭(まんぢゅう)を一つ ほほばりしとき」
「たのしみは ほしかりし物 銭(ぜに)ぶくろ うちかたぶけて かひえたるとき」
「たのしみは 昼(ひる)寝(ね)せしまに 庭(には)ぬらし ふりたる雨を さめてしる時」
「たのしみは 妻子(めこ)むつまじく うちつどひ 頭(かしら)ならべて 物(もの)をくふ時」
要するに全てが超絶「あるある」で、全部を紹介せずには済まないほどです。その中に、「たのしみは 神の御(み)国(くに)の 民(たみ)として 神の教(をし)へを ふかくおもふとき」というのがあってハッとしましたが、橘曙覧は国学者ですからここで言う御国というのは皇国のことです。でもこれはクリスチャンが日々感じながら過ごしている思いでもあります。「ここも神の御国なれば」という讃美歌がありますが、クリスチャンはどこの国にあっても創造主なる神が治めるところという意識があり、置かれた場所で神を賛美しながら生きていこうとする民です。私は歳をとってメンタルが弱まっているようで、近年は不正や暴力が渦巻く混沌とした世界やあまり過酷な社会の現状に向き合うのが耐えがたくなっています。小さな喜びを見出す、ごく普通の感覚を失くしたら発狂してしまうかもしれないところまで厳しい時代になったのです。
たのしみは 雑事の合間キッチンに ふっとコーヒーの 薫り立つとき
たのしみは 書籍情報友に聞き 芋づる式に 読書する時
たのしみは 窓に雨音聞く夕べ なみなみの湯に つかりおる時
たのしみは 散歩をせがむ犬の手の 肩とんとんを 三度待つ時
たのしみは 今日は礼拝あるのみと 日曜の朝 予定知るとき