このところ男女の働き方やワークライフバランスについての本を集中的に読んでいます。細部に記憶違いがあるかもしれませんが、私が把握できた大まかな概要を感想と共にまとめておきます。まず、学者が一様に言っているのは、結婚した女性は概ね二人程度の子供を産んでおり、少子化の主な原因は非婚化にあるということです。何を当たり前のことをと思われるかもしれませんが、問題はその度合いが急速に進んでおり、その原因の一端に誤った政策があるということです。立法においても行政においても見当違いの方向に進んでいるのは、政策の立案や施行に当たる立場の者が一般人の生活とかけ離れたところにいて、時代の動きを肌で感じられないためです。例証にはコロナ自粛の際、総理大臣が優雅に家で紅茶を飲む動画を挙げるだけで十分でしょう。そのため、少子化を何とか食い止めようとしてあがけばあがくほど、実態として少子化が進行するという負の連鎖になっているのです。俎上に上がる政策案の多くは、為政者が日本古来の慣習と信じる物の考え方によって駆動されているのですが、実はその慣習の始まりは明治以来でさえない、高々戦後の一時期に形成されたものだったりします。それでもその慣習を支える物の考え方を支持する人は一定数いて、中には年配者を中心に相当数の人に共有されて固定観念化しているものもあります。また、こういう有識者会議に招かれる女性は、人並外れた努力と恵まれた状況の重なりにより結果を出したスーパーウーマンが多く、為政者の願望を体現した実例として、その固定観念を補強するように働いてしまうのは何とも残念です。
以下は、彼らに身体化されたマイナス要因マインドです。
1.「望めば誰でも結婚できるはず」という幻想
大半の男が大黒柱として働き、専業主婦たる妻を養えたのは、偶然的幸運によって可能となった経済発展に支えられた高度成長の一時期に過ぎません。戦前まで家を絶やさぬため普通にあった養子縁組においては、子供を養子に出せる家はむしろ或る程度資産がある家系で、部屋住みとして一生を送る次男、三男以下の男達も大勢いました。これらの人々が生計の道を得て結婚できるようになったのは、ひとえにそれを可能にする速度で経済が発展したからです。明治以前にすでに世界的大都市だった江戸でさえ、極端な男余り社会だったことはよく知られており、自分一人食っていくのが精一杯で所帯までは持てない人が多数でした。「宵越しの金を持たない」は、「持てない」を表す江戸っ子なりの気っ風のいい表現です。
2.「高すぎる日本の女性の家事水準」の当然視
日本の女性の家事能力は世界最高水準にありますが、この能力が戦後の高度成長期に専業主婦によって達成されたものであることは間違いありません。戦前は農業に従事する世帯が多く、農家は一家総出の農業労働団で家事どころではなく、家事の水準の低さは問題になりませんでした。私の母が学徒動員で農家の手伝いに行った時の体験では、朝食はご飯と味噌汁と漬物で、食べ終わった後はめいめいがご飯茶碗に白湯を入れてきれいに飲み干し、ひっくり返して農作業に出る生活でびっくりしたと聞いたことがあります。食器を洗うという手間さえかけられない家事水準にあったのです。現在でも、世界各国の家庭で料理にかける手間を比較検討すれなら日本の主婦がやったら手抜きと言われかねないレベルです。家事の大半を女性が担っている現状では、それに見合うメリット(主に生活保障)がなければ、結婚によって奪われる無償労働時間を思い浮かべて、二の足を踏む女性が多くなるのもむべなるかなです。そしてまさにそのメリットを提供できる経済力のある男性は一握りになりつつあります。
3.「子育ては女性が担うべき」という固い信念
いわゆる狭義の家事(掃除・洗濯・料理)だけなら或る程度手抜きも外注もでき、夫婦さえそれでよければ何とでもなりますが、そうはいかないのが育児です。子供という新しい生命を守り育てる大仕事は夫婦が力を合わせなければ本来無理なはずなのに、なぜか暗黙のうちにそれを女性が担うものとされているのです。「男は仕事中心、女は家事・育児も」というのは働く女性にとってはあり得ない前提で、運よくそのような先入観がない男性に巡り合ったり、育児を託せる近くにいる助け手(多くは実家の母親)の協力を得られなければ、到底容易には結婚できません。現在働く場に身を置く女性なら、職場を離れて赤ちゃんの「三年間抱っこし放題」という発想そのものが働き続けるためにいかに絵空事かを感じないわけにはいかないでしょう。仕事を持つ女性は日々の格闘の中で共に育児を担ってくれる配偶者を切実に求めているのです。
4.事実婚への忌避感
日本ではおそらくこれが少子化の最も乗り越え難い障壁になっていると思われます。フランスやスウェーデンでは結婚していないカップル間での出産・育児がもう半数かそれ以上になっており、関連して合計特殊出生率もほぼ2.0に回復しているのですが、出産を結婚と切り離せない日本では、或る意味最も即効性のあるこの解決法がとられることはないでしょう。選択的夫婦別姓でさえ認められていないのが現状ですから。
また、この感覚は家父長的家族観に基づいていることが多く、家制度の歴史の中で育まれた規範は今なお強固です。トーク番組で芸人さんなどが妻のことを「嫁」というのを初めて聞いた時、私は「若そうなのに結婚している息子がいるのか」と、訳が分かりませんでした。照れくささを隠す「妻」の婉曲表現だとやっと気づいた時は、地球外生命体を見るような気持ちで、「これ、放送倫理的に大丈夫なの?」と思ってしまいました。この言い方が不思議なこととされずに容認されている社会ですから、将来当たり前のように配偶者家族の介護まで負わされる女性の中に、結婚に踏み切れないリスクを感じる人がいてもおかしくありません。近年は婚姻関係中に夫の親族との間にあった様々な確執に耐えてきた場合などに、夫との死別後に姻族関係終了届を出して法律上の関係を解消したり、さらに復氏届を出して旧姓に戻る人もいます。
以上、現在国の支配的立場にある方々の基本的マインドを挙げてみました。戦後の成功体験を抜け切れないこのようなマインドの為政者が良かれと思って遂行する政策により、現実との乖離が臨界点を越え、結婚を端から諦めて別の人生に幸せを求める人が激増しているのです。特に以前なら確実に主婦になっていたタイプの女性たちの中に、収入は低くても納得できる仕事を見つけそれなりの幸福を感じて非婚化するという層が確実に出てきています。
私が一番まずいと思うのは、税金や社会保障費に関わる法改定が現状の問題解決に逆行していることです。例えば、法人税の引き下げや逆進性の高い税制改訂によって減少した国家収入の穴埋めを、第二の税金と言ってよい社会保障費として取りやすいところから取っていることが挙げられます。税金と社会保障費を合わせた日本の徴収額はもはやスウェーデンを超えているのです。よく言われる専業主婦家庭の税制優遇措置も、共働き家庭が増えた現状では理屈に合わない税制の一つです。これは夫婦双方の年収が高くない場合、夫婦が共に働き、何とか二人で家事を分け合って力を合わせて子育てしたくとも、国に取られる徴収額が多すぎて相対的に貧困化していくという恐ろしい現実が進行していることを示しています。経済政策が格差を助長しているのです。この状況で結婚しない人が増えるのは当然であり、この方向で進む限り、非婚化と少子化はとどまるところを知らないでしょう。
ただ、絶対悪のように規定されている少子化がなぜ問題なのかを考えると、これはなかなか難しい問題です。少子化で誰が困るかと言えば、まず財界の人、そして国力は国の人口数によると考える人、国民の幸せを国家の経済的繁栄という観点からしか考えられない人などが頭に浮かぶからです。今のところ国家の繁栄を願って少子化を諸悪の元凶と見なす考え方が優勢ですが、日本では残念なことに、建設的な議論を積み上げて世論を動かすことより、個人が現状を踏まえて静かに行動することによって世論が示されるのが一般的ですから、非婚化、少子化の加速という現実こそが今の若い方々の答えであり、国民の考え方の変化を否応なく伝えていると言えるでしょう。