2021年11月27日土曜日

「非婚化、少子化が止まらないこれだけの理由」

 このところ男女の働き方やワークライフバランスについての本を集中的に読んでいます。細部に記憶違いがあるかもしれませんが、私が把握できた大まかな概要を感想と共にまとめておきます。まず、学者が一様に言っているのは、結婚した女性は概ね二人程度の子供を産んでおり、少子化の主な原因は非婚化にあるということです。何を当たり前のことをと思われるかもしれませんが、問題はその度合いが急速に進んでおり、その原因の一端に誤った政策があるということです。立法においても行政においても見当違いの方向に進んでいるのは、政策の立案や施行に当たる立場の者が一般人の生活とかけ離れたところにいて、時代の動きを肌で感じられないためです。例証にはコロナ自粛の際、総理大臣が優雅に家で紅茶を飲む動画を挙げるだけで十分でしょう。そのため、少子化を何とか食い止めようとしてあがけばあがくほど、実態として少子化が進行するという負の連鎖になっているのです。俎上に上がる政策案の多くは、為政者が日本古来の慣習と信じる物の考え方によって駆動されているのですが、実はその慣習の始まりは明治以来でさえない、高々戦後の一時期に形成されたものだったりします。それでもその慣習を支える物の考え方を支持する人は一定数いて、中には年配者を中心に相当数の人に共有されて固定観念化しているものもあります。また、こういう有識者会議に招かれる女性は、人並外れた努力と恵まれた状況の重なりにより結果を出したスーパーウーマンが多く、為政者の願望を体現した実例として、その固定観念を補強するように働いてしまうのは何とも残念です。

 以下は、彼らに身体化されたマイナス要因マインドです。

1.「望めば誰でも結婚できるはず」という幻想

 大半の男が大黒柱として働き、専業主婦たる妻を養えたのは、偶然的幸運によって可能となった経済発展に支えられた高度成長の一時期に過ぎません。戦前まで家を絶やさぬため普通にあった養子縁組においては、子供を養子に出せる家はむしろ或る程度資産がある家系で、部屋住みとして一生を送る次男、三男以下の男達も大勢いました。これらの人々が生計の道を得て結婚できるようになったのは、ひとえにそれを可能にする速度で経済が発展したからです。明治以前にすでに世界的大都市だった江戸でさえ、極端な男余り社会だったことはよく知られており、自分一人食っていくのが精一杯で所帯までは持てない人が多数でした。「宵越しの金を持たない」は、「持てない」を表す江戸っ子なりの気っ風のいい表現です。

2.「高すぎる日本の女性の家事水準」の当然視

 日本の女性の家事能力は世界最高水準にありますが、この能力が戦後の高度成長期に専業主婦によって達成されたものであることは間違いありません。戦前は農業に従事する世帯が多く、農家は一家総出の農業労働団で家事どころではなく、家事の水準の低さは問題になりませんでした。私の母が学徒動員で農家の手伝いに行った時の体験では、朝食はご飯と味噌汁と漬物で、食べ終わった後はめいめいがご飯茶碗に白湯を入れてきれいに飲み干し、ひっくり返して農作業に出る生活でびっくりしたと聞いたことがあります。食器を洗うという手間さえかけられない家事水準にあったのです。現在でも、世界各国の家庭で料理にかける手間を比較検討すれなら日本の主婦がやったら手抜きと言われかねないレベルです。家事の大半を女性が担っている現状では、それに見合うメリット(主に生活保障)がなければ、結婚によって奪われる無償労働時間を思い浮かべて、二の足を踏む女性が多くなるのもむべなるかなです。そしてまさにそのメリットを提供できる経済力のある男性は一握りになりつつあります。

3.「子育ては女性が担うべき」という固い信念

 いわゆる狭義の家事(掃除・洗濯・料理)だけなら或る程度手抜きも外注もでき、夫婦さえそれでよければ何とでもなりますが、そうはいかないのが育児です。子供という新しい生命を守り育てる大仕事は夫婦が力を合わせなければ本来無理なはずなのに、なぜか暗黙のうちにそれを女性が担うものとされているのです。「男は仕事中心、女は家事・育児も」というのは働く女性にとってはあり得ない前提で、運よくそのような先入観がない男性に巡り合ったり、育児を託せる近くにいる助け手(多くは実家の母親)の協力を得られなければ、到底容易には結婚できません。現在働く場に身を置く女性なら、職場を離れて赤ちゃんの「三年間抱っこし放題」という発想そのものが働き続けるためにいかに絵空事かを感じないわけにはいかないでしょう。仕事を持つ女性は日々の格闘の中で共に育児を担ってくれる配偶者を切実に求めているのです。

4.事実婚への忌避感

 日本ではおそらくこれが少子化の最も乗り越え難い障壁になっていると思われます。フランスやスウェーデンでは結婚していないカップル間での出産・育児がもう半数かそれ以上になっており、関連して合計特殊出生率もほぼ2.0に回復しているのですが、出産を結婚と切り離せない日本では、或る意味最も即効性のあるこの解決法がとられることはないでしょう。選択的夫婦別姓でさえ認められていないのが現状ですから。

  また、この感覚は家父長的家族観に基づいていることが多く、家制度の歴史の中で育まれた規範は今なお強固です。トーク番組で芸人さんなどが妻のことを「嫁」というのを初めて聞いた時、私は「若そうなのに結婚している息子がいるのか」と、訳が分かりませんでした。照れくささを隠す「妻」の婉曲表現だとやっと気づいた時は、地球外生命体を見るような気持ちで、「これ、放送倫理的に大丈夫なの?」と思ってしまいました。この言い方が不思議なこととされずに容認されている社会ですから、将来当たり前のように配偶者家族の介護まで負わされる女性の中に、結婚に踏み切れないリスクを感じる人がいてもおかしくありません。近年は婚姻関係中に夫の親族との間にあった様々な確執に耐えてきた場合などに、夫との死別後に姻族関係終了届を出して法律上の関係を解消したり、さらに復氏届を出して旧姓に戻る人もいます。

 以上、現在国の支配的立場にある方々の基本的マインドを挙げてみました。戦後の成功体験を抜け切れないこのようなマインドの為政者が良かれと思って遂行する政策により、現実との乖離が臨界点を越え、結婚を端から諦めて別の人生に幸せを求める人が激増しているのです。特に以前なら確実に主婦になっていたタイプの女性たちの中に、収入は低くても納得できる仕事を見つけそれなりの幸福を感じて非婚化するという層が確実に出てきています。

 私が一番まずいと思うのは、税金や社会保障費に関わる法改定が現状の問題解決に逆行していることです。例えば、法人税の引き下げや逆進性の高い税制改訂によって減少した国家収入の穴埋めを、第二の税金と言ってよい社会保障費として取りやすいところから取っていることが挙げられます。税金と社会保障費を合わせた日本の徴収額はもはやスウェーデンを超えているのです。よく言われる専業主婦家庭の税制優遇措置も、共働き家庭が増えた現状では理屈に合わない税制の一つです。これは夫婦双方の年収が高くない場合、夫婦が共に働き、何とか二人で家事を分け合って力を合わせて子育てしたくとも、国に取られる徴収額が多すぎて相対的に貧困化していくという恐ろしい現実が進行していることを示しています。経済政策が格差を助長しているのです。この状況で結婚しない人が増えるのは当然であり、この方向で進む限り、非婚化と少子化はとどまるところを知らないでしょう。

 ただ、絶対悪のように規定されている少子化がなぜ問題なのかを考えると、これはなかなか難しい問題です。少子化で誰が困るかと言えば、まず財界の人、そして国力は国の人口数によると考える人、国民の幸せを国家の経済的繁栄という観点からしか考えられない人などが頭に浮かぶからです。今のところ国家の繁栄を願って少子化を諸悪の元凶と見なす考え方が優勢ですが、日本では残念なことに、建設的な議論を積み上げて世論を動かすことより、個人が現状を踏まえて静かに行動することによって世論が示されるのが一般的ですから、非婚化、少子化の加速という現実こそが今の若い方々の答えであり、国民の考え方の変化を否応なく伝えていると言えるでしょう。


2021年11月24日水曜日

「紅春 192」

 


 りくの脚を鍛えなければとできるだけ外に連れ出すようにしています。といっても、りくは散歩大好き犬なので、行きたいと言ってきた時に「はい、はい」と出かければよいだけです。

 先日はいつもはあまり行かない逆ルートで、対岸から上の橋まで一緒に歩きました。柴の子犬を連れたおばあさんに出会い、なんとなく話をしました。その子はまだ1歳3か月とのことで、とても活発な感じです。一方りくは堂々老犬の落ち着き。私が「おじいちゃん犬なんです」と言うと、おばあさんは「まあ、おじいちゃんなんですって」と子犬に向かって話し、「おとなしいんですね」と、りくの頭を撫でました。りくもおとなしく撫でられていましたが、その時急に子犬がガウり出しました。おばあさんが「あらっ、どうしたのかしら」と驚いているので、「やきもち焼いたんですよ」と教えてあげました。りくが大事なおばあちゃんの気を引いたのでムッとしたのです。りくは全く動じず(認知的問題のせい?)、おばあちゃんはまんざらでもない様子でした。

 さよならをして散歩を続けながら、「りくはこれまでいろんな経験を積んできたなあ」と思い返しました。他の犬と出会って私が気をとられていても、りくがガウったり騒いだりすることは一度もなかったな。でもそう言えば、そばでちょっと悲しそうにしてたかも。人間でもそうですが、感情がすぐ外に出てしまう性向と、感情を内に秘めてしまう性向があるのは犬も同じです。内向的な犬でも、家族には何でも言って甘えてくるので、このくらいがちょうどいいのでしょう。


2021年11月22日月曜日

「働く女性の現在地」

 相変わらず、男女をめぐる家庭や仕事についての本を読んでいます。いま生起している様々な現象は明らかな社会変化を示しています。社会学者によって、親世代、祖父母世代の生活形態(男は仕事・女は家事)の方が日本史的には稀有な時代だったことが解明されています。今は次のパラダイムへの移行期であることは確かなのに、むしろ前世代の家族の在り方を取り戻そうとする真逆の主張が勢いを増しているように見えるのは残念です。それは、曲がりなりにも次へのシフトが成功しなければ、若い人に未来はないと思えるからです。

 実際、世相小説や実話には知らなかったことが満載で、「世の中こんな恐ろしいことになっていたのか」と思わされます。まっとうな生活をされている方も多いのでしょうが、それは意外と本人の楽観性と幸運によるのかもしれません。これまで読んだ話は多くが女性の生き方に焦点を当てて女の視点で書かれており、庶民には計り知れない世界もありますが、ほとんどが女性なら誰もが深く考えさせられる話です。すなわち私は、

①超が付くほどのお金持ちの間でも歴然とした階層差があり、階層降下を回避するために全精力を傾ける底なしの自意識に驚愕し、

②階層格差をあからさまに可視化したタワーマンションに住む主婦たちの、際限のない無意味な探り合い、気の回し合いにげっそりし、

③キャリアを保持しながら30代前半までに結婚と二人の子の出産を済ませるため、会社探し・配偶者探しを念入りに行う女子大生の計算高さにうんざりし、

④実際に秒単位と言えるほどのスケジュールで仕事と子育てをこなし、ちょっとでも不測の事態が起きたら生活は破綻するという崖っぷちのママたちに同情を禁じ得ず、

⑤男女同等の家事分担を前提に働いていたキャリア女性が、突然無職となった夫を前に自らの欺瞞性に気づき、無職の夫との新たな人生構築をしていく姿に納得し、

⑥安定第一の上昇婚を望み、家庭持ちが暗黙の前提である企業人と結婚して望みは適えたものの、体裁を整えるだけの心通わぬ家庭生活で変貌していく女性の姿をやるせなく思い、

⑦夫が仕事を失うとあっという間に家庭崩壊する現状に、これからは男女とも仕事をせずに済む時代ではないと強く思い、

⑧退職後すぐに夫の死亡した妻を「なんてうらやましい」と話す主婦たちに背筋を寒くし、「この人たちにとって結婚ってなんだったの?」と不思議でしかたない、等々の感想とともに、申し訳ないけれどこういうことを今まで知らずにいられて、幸せだったとつくづく思ったのです。

 別世界のセレブは文字通り別として、庶民が家庭を持って生きるには夫婦双方が働きながら力を合わせ、家事や雑事の分担も折り合っていくしかありません。事実、男だけが家族を養う時代は終わっているのに時代の流れに逆行して男性だけが変わらぬ働き方と責任を負わされているから、非婚・少子化が止まらないだけでなく(何しろ家事を減らすには世帯の成員を減らすしかないと学者が言っているのです)、女性に比べて圧倒的に男性の引きこもり、自殺が増えていると考えるのは故無きことでしょうか。思い浮かぶ解決法は2つあり、1つはこういったことの先進国(主にオランダ、フランス、北欧)を参考にすること、もう1つは家事ロボットの開発です。優れた家事ロボットがあればかなりの負担軽減になり得、実際IOT(物をインターネットでつなぐシステム)が実用化されつつあります。しかし、これが掃除・洗濯・料理といった狭義の家事を担うだけではさほど効果はありません。子育てをどうするかという大きな問題があるからです。常に問題になる保育園のお迎え、家で過ごす子供の見守り、学習や習い事の世話(私の知り合いは、「小学校に入ったら少しは楽になるかと思ったら、学童期の方がかえって大変になった」と言っていました)、またPTAやご近所、町内会等の必要な付き合いまで含めたら、これはもうアンドロイドが必要です。しかし、今でさえ子供がお掃除ロボットに愛着を持ってしまって、買い替えができないという話を聞くと、子供と親の関係がどうなるのか考えてしまいます。その先の想像をたくましくすると非常に恐ろしいことがなりかねないので、このへんで止めておきましょう。鍵は多分バランスですね。

 


2021年11月18日木曜日

「1時間天気を司る方」

  私がほぼ毎日見るサイトに「1時間天気」があります。特に地域を指定しなければ住居のある地区の天気を1時間単位で示してくれ、とても重宝しています。午後3時までは曇りマークだが、4時から畳んだ傘や開いた傘のマークなら「用事はその前に済まさなければ」と計画できて、大変助かります。上記のケースで本当に4時から雨がポツポツと振り出した時など、その的中率の高さに驚いたものです。科学技術が進んで天候を決定するあらゆる情報が手に入るようになり、これまでの何十年ものデータや経験知を駆使して予想できるようになったのなら、このようなことは当たり前なのかもしれません。

 「中途視覚障碍者の復職を考える会」から始まったタートルというNPO法人が今年40周年を迎えました。その名の通り、人生の途中で思いもかけない視覚障害に見舞われた人々が苦悩の末に辿り着く場所で、ゆっくりでも着実に進む姿を団体名に託したのでしょう。一介の相談者のために、全盲の会長ほか眼科医、リハビリの訓練士、元厚労省官僚というプロ集団が終業後の疲れた体で相談会を開いてくれるような、文字通り通常あり得ない有難い存在です。この方々は自分には何の得もないにもかかわらず、相談者の話を聞き、状況を見極め、助言し、サポートするというしんどい務めを淡々とこなし、そのおかげで職場復帰や社会復帰、またその後の道を見出すことができた人がどれほどいたことか。全てが「今、ここ、自分」の欲望へと収斂するばかりの世の風潮の中で、このような働きを担う方々はまさしく得難い希望です。

 人間一人一人の人生の道のりは、神様から見れば最初から最後まで全てが明らかで、1時間天気のようなものなのだと思います。思い返してみて、家族や友人・知人だけでなく、社会の中の第三者という形でも、必要な時にはいつでも必要な出会いが与えられてきたのを実感しています。これらの方々の多くは、苦境に直面せずには存在さえ知り得ないものであり、まさしく吹き抜ける涼やかな風のような出会いです。そしてまた、歳を重ねるにつれ増えてくる、様々なお別れについても、適切な時が与えられてきたのだと思わざるを得ないのです。人間的な感情としては悲しみや苦しみに満たされることがあっても、神様のなすことには全く遺漏がなく、これからも私の道行きが守られていくのだと平安の中にいます。


2021年11月11日木曜日

「世相小説が示すもの」

  学識を駆使して社会のパラダイム変化を縦横無尽に解説するのは学者の仕事ですが、優れた作家がその成果を踏まえて書いた小説が最近多く出ているようです。こういった小説は素人が面白く読めるだけでなく、学術書ではピンとこない事柄をぐいぐい読ませる力があり、教えられることが多くあります。世相を表す現実を鋭くえぐる筆致には「よく勉強してるな」と感心させられるとともに、深刻になりがちなテーマをコミカルに描くところに、落ち込むことなく飽きずに読める手腕を感じます。

 社会における家族形態の変容は最も中心的なテーマで、たとえ一世代あるいは二世代前と同じに見える家族構成でも中身は全く変貌していることをこれでもかと知らされます。私が読んだ限りでは、かろうじて家族の形を保っている家庭において、家族が崩壊しないための法則が一つあることが多くの書き手によって示されています。それは家庭における役割分担をできるだけ公平にするということです。平たく言うと唖然とするほど簡単なことで、「家事は女が担うもの」という先入観を捨てることです。これは夫婦がフルタイムで働いている場合だけでなく、驚くなかれ、夫が定年退職した年配の夫婦、夫が家計の全収入を担い妻が専業主婦の夫婦に至るまで、通底するルールのようです。たとえ家庭科共修の世代でも「一般に女は雑事に配慮してくれるもの」との思い込みが無意識レベルで浸透しているのは恐ろしいほどで、どうもここを崩さないとなんとか家庭を維持することが困難だと考えられているようです。

 「男は仕事、女は家事・育児」といった親の世代の常識的観念の中で育てられ、すっかりそれに染まってしまった人にとっては困難な未来が待っています。多くの話の中でそれとなく描かれるのは、男も女も結婚によってそれまでより生活が楽になることを期待しているということです。女は生活費を、男は家事労働を、相手に依存しようとしているのですが、並行して女は家事労働を、男は生活費を全面的に提供することはあまり念頭にないようです。これからは両者がどちらも担うことになる、即ち結婚前より大変な生活になることを前提にしなければ、家庭を存続することはできないという実例を、成功例・失敗例とともに教えられます。生活が今より大変になる、さらに、やがては子育てという責任ある大役を引き受けることになるという状況に踏み出すには、相当の覚悟が必要です。逆にお互いが協力的かつ楽観的で、適宜話し合いながら生活できるなら、家庭はなんとかなっていくものです。それは心情的には相手を思いやるという一語に尽きますが、実際的、具体的には仕事力、家事力を合わせての生活力を上げるしかないということなのです。

 もう一つ見過ごせないのは親子関係です。親の子を思う気持ちは自然なものですが、親には親なりの希望があるため、それが強すぎると大きな障害になります。親による代理婚活というものがあると知って驚きましたが、こういうものはご縁ですし、そこに至るまでに様々な過程があるでしょうから、いいとも悪いとも言えません。曇りのない目で子供の幸せを考えてほしいと思うだけです。ただ、話の中で年老いていく親が自分の老後を計算に入れて動く姿を見せられると、何とも言えない悲しさがあります。無念なことかもしれませんが、時代の転換はあまりに早く、今の年配者は前時代の幻を追うより、自分の老後は自分で面倒を見るという決心が必要だろうと思います。

 小説はいつでも現実より先駆的ですから、もはや一世代前に中心的だった家庭とは相容れない疑似家族形態もたくさん登場します。こちらは血縁や婚姻関係に関わりなくその時々の事情により緩い共同生活をするつながりですから、当事者同士の気持ちの赴くままに離れたり別れたりすることが容易に起こります。そしてその舞台は百人百様であり、家族であろうと疑似家族であろうと住み処を必要とする以上、これは地域を含めた住まいの問題と切っても切り離せない様相を呈しています。地域としては、都心、郊外、ニュータウン、地方の小都市、過疎地、海外・・・、住居としては、一戸建て、分譲マンション、二世帯住宅、シェアハウス、親の実家、高齢者用住居、独身寮、賃貸住宅、ホテル住まい・・・と十人十色です。住むところとはその人の生活そのものであり、生活を変えると多くは住まいを変えることになります。人間の悩みは全て人間関係の悩みだと言われますが、もちろん経済的要素も悩みの大きな要因になります。住まいの選択にはバブル経済とその破綻、その後の就職氷河期、サブプライムローン問題に端を発するリーマンショック、東日本大震災、長引く超低金利、もう成長しない経済、増える非正規雇用、上がらない賃金、進む高齢化、下がる年金、拡大する格差・・・という、一般国民には制御しようのない要因が、その時々の年齢に応じて決定的な影響を与えます。これらは個々人の生活に複雑に絡んで、一様ならぬ展開を見せますが、ほぼ運任せと言えます。自分の力で何とかなる部分は、上述したように、力を合わせてより良い共同生活ができる生活力を身につけることしかないようです。こう書いてしまうと何だかつまらない結論ですが、今のところ私が読んだ小説においては、社会を分析する目を持った優れた作家たちが口をそろえてそういうのですから、間違いないのだろうと思います。もし自分らしさや譲れないこだわりのためわずかな歩み寄りもできないのなら、人間社会は際限なく砂粒大の個に分裂していくほかはないのでしょう。



2021年11月6日土曜日

「紅春 191」


 秋晴れのよい気候の日が続いています。日が短くなってきているので、早朝の散歩も5時以降になり、普段よりずいぶん寝坊できて助かっています。この頃りくはできるだけ近くにいたいと思うらしく、寝ている間に定位置のこたつの場所から移動して、私がベッドから足を下ろすと生暖かいしっぽを踏んで、「ひゃっ」と飛びのくこともあります。もし気づかずに踏んだらと思うとぞっとします。

 兄に聞いた話で、朝方不穏な鳴き声がするので飛んでいくと、廊下にお尻をペタンとつけてちょっと変なお座りのポーズをしながら、兄の顔を見つめて鳴いている・・・。そのまま抱き上げて外へ連れて行くとおとなしくなったとのことでした。「家に入れる時、拭いてやったお尻が痛かったのかな」と兄は言っていましたが、恐らくそうではないでしょう。一人目覚めてなんだか急に寂しくなったのではないかという気がします。

 この頃、福島とは思えぬほど穏やかないい天気なので、りくを遊ばせながら庭木の剪定や庭掃除をしています。一段落して家に入る時、大抵りくは「まだ外にいる」と言うので、お水だけそのまま残してりくをおいておきます。静かにしているなと時々のぞきながらしばらく過ごし、「もういいだろう」と外に出るとりくは私の顔を見たとたんに「ハアハア」と声を上げ、「暑いよ、家に入りたい」と猛アピール。確かに外は暑いくらいなのですが、何といっても11月です。「自分で外にいるって言ったんでしょ」と声を掛けつつりくを取り込みながら、「これは甘えが度を越しているな」と認めざるを得ません。子供返りしているのかもしれません。


2021年11月2日火曜日

「分岐点を振り返って」

 先日恒例の症状が治まりかけたところ、父方の伯母の訃報が入りました。少し日数の猶予があったため、参列できるくらいには体調が回復するだろうと帰省しました。ここ二十年近くお会いしたことはありませんでしたが、子供の頃からのことが頭をめぐり、ずいぶんお世話になったことを思い返しました。殊に私の結婚披露宴ではスピーチを賜り、『いい日旅立ち』に倣って、「日本どころか世界のどこかにあなたを待っている人がいる」と明言してくださったことを、ふいに思い出しました。

 兄と車で行く道筋では山の紅葉が図らずも最盛期で、その美しさを堪能することができました。告別式会場の親族の控室では名前も知らない方々が大勢いらっしゃいましたが、何十年ぶりかでお会いする比較的近い親族の方々と言葉を交わせたことは感謝でした。そのうちのお一人が、「以前ヘルベルトさんと会津を訪ねてくれて子供たちと遊んでいただき、楽しかったです」とおっしゃり、自分自身も忘れていたことを思い出しました。その方の娘さんは元来英語が好きでしたが、さらに好きになって勉強に拍車がかかり、今は英語関係のお仕事をされているとのこと。記憶を掘り返せば、確かに結婚のご報告と披露宴出席の御礼を兼ねて、夏休みにヘルベルトと猪苗代や会津、蔵王、仙台、山形などを巡る東北旅行をしたのです。親族の方々はそれぞれの地で歓迎してくださり、地元の観光地に連れ出してくださったり、会食をしたり、ああ、そんなこともあったなあと懐かしい思いがこみ上げてきました。ヘルベルトはとても楽しい人でしたので、子供たちにも大人気で、そんな小さなことでもお子さんの人生に関わったと思うと、感無量でした。

 亡くなった伯母は小学校教諭の職を退いた後、地域の婦人会で更生保護事業のために尽力し、大車輪の活躍をされていたようで弔電がたくさん届いていました。子供の頃、お盆に父に連れられて遊びに行くと、いつも優しい笑顔で「上がっせ」と迎えてくれたものでしたが、やるべきことを淡々となさるすごい方でした。このご葬儀は思いがけず自分の来し方を振り返る時となりました。私は「人生が二度あれば」と考えたことはないのですが、いま改めて人生の節目節目の分岐点を思う時、同じ状況で同じ選択を迫られるなら、やはり同じ答えを選択しただろうと思うのです。その意味ではいいことも悪いこともひっくるめて後悔はありません。自分を愚かだなと思うことはあっても、他にどうしてみようもなかったのです。その意味では本当に幸せな人生だとしみじみ思った次第です。