帰省中、りくの世話、草むしり、家事一般に加えて、実家の片づけに精を出したせいか、帰ってからドッと疲れが出て寝込んでしまいました。今までの感触では「明日は大丈夫だろう」と思える体調でも、起きると「動くのはちょっと無理」だとわかるという状態が五日ほど続き、やはり一年と言えない老化が進んでいるなと実感しました。とはいえ、いつものように自宅に帰ってすぐ、必要な食料品は買い込んでいたので、全く何の心配もなく自宅療養をしています。
昏々と寝る時期が過ぎるとやはり何か読みたくなってきます。もう読書といっても全て耳から聞くものですが、東日本大震災から十年たって、あの惨状のなか格闘した医師たちの記録を読んでみました。災害直後の設備も医療品もほぼない状況で、助けを待ちつつ懸命にできることをし続け、患者と向き合った姿に素直に感動を覚えました。患者も病状に応じ、自分ができることを探して、医療従事者を手助けしようとしており、大災害下の野戦病院的な特殊事情において医療の原点を見る思いでした。
状況を比べることはできないものの、現在の感染症における対応について、素人なりに考えるところが二つあります。一つは死がすぐそこにあった大災害時と違って、全体的に微妙な緩み、公への依存的な心情・態度の存在を否めないこと、もう一つは大都市と地方の医療格差の問題についてです。
①感染症を避けようとしたら、とにかく衛生に気を付け、人との接触を極力減らすしかないので、動けるうちにしばらく籠城するくらいの準備が必要です。顧みると、日本では食料はじめ生活必需品の買い出しを禁止されたことはなかったのですから、感染症対策が長引く中でも災害対策に準じて籠城準備を各人、各世帯ごとにできたはずです。感染症問題が政治マターなのは間違いありませんが、それが強調され過ぎると「自分の身は自分で守る」という基本が忘れられがちです。政府の対応に問題があったにせよ、皆が少しずつクレーマーになれば解決するというものではありません。様々な事例から、自分の体を知ることがどれだけ重要かを知らされ、自分の命を守るまでの道のりを政府任せにするのは、とてもリスクがあると学びました。
②大病院、大学病院は大都市に集中しています。それでも感染症下では医療崩壊したのですから、致死性の低いパンデミックでは自宅療養をデフォルトとした対策を戦略的に練らなければならなかったのだと思います。それよりも問題は平常時です。普通に考えて、都市部の病院がすべて経営的に安定するためには多くの患者を必要とするはずです。よく過疎地域・人口減少地域では自治体ぐるみで予防的医療を推進し、病院の医療費削減を図っているという話を聞きます。おそらく個々の住民が治療に通う症状は自治体ごとに差があり、近くに病院があれば生きるか死ぬかにかかわらない、できれば改善すべきという程度の症状でも治療することが推奨されるでしょう。(いま念頭にあるのは、程度にも寄りますが、メタボとか高血圧とかです。)ひょっとすると、薬を用いて治すことによって体に別の症状が出たり、症状は無くなっても逆に当人の人生に何らかの弊害があり得る案件もあり得るのではないでしょうか。人の体は百人百様ですから、検査によって一律「正常値」を適用されてもあまり意味がありません。何も治療しない方が実は長生きだったという場合も無いとは言えません。
つまり大震災の記録を読んで現在の事情に目を向けると、日本ではちょっとしたことで人々が病院に行き過ぎるのではないかという印象を抱いたのです。病院が身近にあるのは幸いなことであり、体調に不安があれば病院に行くのは当然です。しかし今になってわかるのは、歳をとるということは昔の体とは違う自分になるのだということで、体のどこかしら悪いのが自然な状態なのです。私のように医者の手を煩わすことなく、おとなしく寝ていればそのうち良くなるというのは、最高のやり過ごし方じゃなかろうか・・・。寝転がりながら読書をし、つらつらとそういう結論に至りました。これはしかたないんだな、と納得できれば次の段階に行けるというものです。