2021年9月16日木曜日

「『子供』と『子ども』」

 十数年ほども前でしょうか、「子ども」という表記を見て「変なの」と思いました。その後、この書き方はじわじわと広がり、今では市民権を得た感があります。私にとっては依然として非常に違和感のある書き方で、それ以上にこういう書き方をすることにより或る種の表明がされているらしいことに何か落ち着かない感じがするのです。それを分析すれば、「私は子どもに対して配慮を怠らない人間です」という「配慮の装い」とでも言ったらいいのでしょうか。一説には「子供」の「供」は「お供」から来ており、「大人に付き従う者」という意味であるとか、「供え物」から来ているとか、といった理由が挙げられるようです。私には複数を表す接尾語の古い形にしか思えず、従って「子供」を「子ども」に変えるのはこじつけの感が拭えません。また、昔から単語に漢字とひらがなが混じるというのはそうそうあるものではなく、こんな間の抜けた書き方があっていいものでしょうか。

 何の変哲もない誰もが使う単語だった「子供」を「子ども」に変えることで、この言葉には何とも言えないおかしなニュアンスが加わります。敢えて口にするなら、配慮すべきもの、保護されるべきもの、弱いもの、虐げられているもの、特別扱いすべきもの・・・という意味合いでしょうか。社会の中の当たり前のメンバーとしての子供が、それ以外の視点で眺められているのです。私のこども時代はあくまで「子供時代」であって、間違っても「子ども時代」ではありません。ちゃんとした大人がいて、普通に子供がいたのです。

  もっと気になるのはこの語がメディアに浸潤してきていることです。それも自らの見解を問うことなく、圧力に負ける形で自己規制していくとなると、ろくなことにはならないと分かるので肌に粟を生じるのです。つまり一般的に言って、何かを区別し目印をつけると、それを或る種の目的でいいように利用することができるようになります。そこに生まれた間隙に小さな差別が忍び込んできて、そこから利権が生まれるという経過を辿ります。そういうことを私は忌み嫌っています。

 たとえば、現代は何だかよく分からない病が増えています。社会が複雑化し、人々が人体に有害な物質に囲まれて生活している中で、得体の知れない病が起こるのは理解できますし、実際それを示す脳に残された痕跡が脳科学によって解明される場合もあります。しかし、精神医療の領域で特に子供をめぐって病が作られるということもあるのではないでしょうか。昔はADHD(注意欠如・多動性障害)の子どもなんていませんでした。単に「子供」と言ったのです。かくして病は見いだされ、「子ども」は手当されねばならない存在になるのです。どれほど子供と家族の気を萎えさせることでしょう。病に限らず「子ども」とタグ付けすることで広がる暗くて深い深淵に怒りと悲しみを感じます。

 古い言葉が消えていくのは致し方のないことです。昔の文学や芸術作品はいわゆる「政治的に不適切な」言葉で満ちており、今では「本文中の引用には現在の基準に照らして不適切な部分もあるが作品のままとする」といった断りなしには掲載できません。しかし、程度の問題は重要で、不適切な言葉の妥当性と、それが際限もなく増えていくことの不便さを慎重に見極める必要があります。言葉あっての世界なのですから、「目の見えないお方」などと言われたのでは座頭市も浮かばれないでしょう。全盲の方が「何故『めくら判』といってはいかんのだ」と怒っているのを聞いたことがありますが、差別的として葬られた言葉が返り咲くことはありません。「子供」という表記もすでに分水嶺にあるのかもしれませんが、私は誰かに遠慮や差し障りがあるわけでもないのでこれからも使います。私にとって「子供」というのはほっこりとした温かさを持ち、歳とともに郷愁さえ覚える言葉なのです。