2019年3月28日木曜日

「言文一致に至るまで」 その2

 明治の文学というと、二葉亭四迷の言文一致体の創出が必ず取り上げられますが、私はずっとその必然性がよくわかりませんでした。書き言葉と話し言葉が乖離していたというのはその通りでしょうが、書き言葉として完成した文語文があれば、とりあえず不自由はなかったはずです。二葉亭四迷が勢い込んで新しい文体を作ろうとするのは、明らかに彼がロシア文学の翻訳者であったことと深く関係しており、漢学以外の外国文学を移す文体として文語体を選択できなかったということだろうと思います。というのは、「その1」で検証したように、文語文が完成体として存在するならば、訳者が用いる日本語にはあまり自由に訳せる余地がないからで、それは外国語の音調を含めての翻訳には不向きです。従って、これまで知られていなかった外国文学を日本に紹介するなら、いまだ存在しない新しい文体を必要としたのです。その後に試される言文一致体の翻訳小説は、最初はまだ未熟ながら、訳者の力量によって表現できる広がりと深みにおいてかつてない可能性を示しました。

 その観点から見ると、言語は異なるものの、二葉亭四迷と同様に翻訳者であった森鴎外には、二葉亭四迷の意図がよくわかっていたように思います。言文一致体を用いれば翻訳書でさえ自分の思い通りに訳せるとするなら、日本語による文芸作品の創造となれば、どれほど従来と違う新しい文学が可能になることかと、二葉亭四迷は考えたのでしょう。二葉亭四迷の初めての小説『浮雲』第一篇が刊行されたのは明治20年(1887)の六月、翻訳小説として後の文学者たちに大きな影響を与えた『あひゞき』が雑誌『国民之友』に発表されたのは明治21年(1888)の七月と八月ですから、小説『浮雲』のほうが早くだされました。森鴎外は二葉亭四迷の死に際して、『長谷川辰之助』(注:二葉亭四迷の本名)の中で彼への敬慕を書いています。

 浮雲には私も驚かされた。小説の筆が心理的方面に動き出したのは、日本ではあれが始であらう。あの時代にあんなものを書いたのには驚かざることを得ない。あの時代だから驚く。坪内雄藏君が春の屋おぼろで、矢崎鎭四郎君が嵯峨の屋おむろで、長谷川辰之助君も二葉亭四迷である。あんな月竝の名を署して著述する時であるのに、あんなものを書かれたのだ。 の名を著述に署することはどこの國にもある。昔もある。今もある。後世もあるだらう。併し「浮雲、二葉亭四迷作」といふ八字は珍らしい矛盾、稀なるアナクロニスムとして、永遠に文藝史上に殘して置くべきものであらう。

 これを読むと、二葉亭四迷と森鴎外は親しく交際していたのかと誤解しがちですが、『長谷川辰之助』は、「逢ひたくて逢はずにしまふ人は澤山ある。」に始まり、前述の文章の直前は、「 長谷川辰之助君も、私の逢ひたくて逢へないでゐた人の一人であつた。私のとう/\尋ねて行かずにしまつた人の一人であつた。」という文なのですから、決して付き合いが深かったわけではないのです。しかし、その死に際してこのような分を残しているのですから、鴎外が二葉亭四迷に特別な思いを持っていたことは確かです。二葉亭四迷同様、森鴎外も旺盛な翻訳者であったということが、お互いの親近感の源だろうと私は思います。
 『長谷川辰之助』の中で森鴎外は、唯一度、洋行前に二葉亭四迷が訪ねてきた時の話を次のように書いています。

 長谷川辰之助君は、舞姫を譯させて貰つて有難いといふやうな事を、最初に云はれた。それはあべこべで、お禮は私が言ふべきだ、あんな詰まらないものを、好く面倒を見て譯して下さつたと答へた。
 血笑記の事を問うた。あれはもう譯してしまつて、本屋の手に つてゐると話された。
 洋行すると云はれた。私は、かういふ人が洋行するのは此上もない事だと思つて、うれしく感じて、それは結構な事だ、二十年このかた西洋の樣子を見ずにゐる私なんぞは、羨ましくてもしかたがないと云つた。

二葉亭四迷が『舞姫』のロシア語訳をしていたとは初耳でしたが、二葉亭四迷は『あひゞき』と『舞姫』という二つの悲恋ものをそれぞれ日本語とロシア語に訳していたのです。また、ロシアの作家アンドレーエフの『血笑記』という全く肌色の違う小説を訳していたということを知るにつけ、エドガー・アラン・ポーの『うづしほ』や『病院横丁の殺人犯』(いわゆる『モルグ街の怪事件』を訳している森鴎外とはやはり趣味が合ったのでしょう。
二葉亭四迷と森鴎外の共通点は、それぞれロシア語、ドイツ語のバイリンガルだったという事実に存しますが、相違点もあります。それは森鴎外が卓越した文語体の使い手だったのに対して、二葉亭四迷はそうではなかったという点です。これは彼自身が、『余が翻訳の標準』の中でカムアウトしています。

第一自分には日本の文章がよく書けない、日本の文章よりはロシアの文章の方がよく分るような気がする位で、即ち原文を味い得る力はあるが、これをリプロヂュースする力が伴うておらないのだ。

 二葉亭四迷が自らの翻訳の技術について語ってくれている『余が翻訳の標準』に書かれている要旨は、「欧文は自ら一種の音調があって音楽的であり、声を出して読むとよく抑揚が整っている点が日本語と違う。翻訳はその分の調子をもうつさなければならない」ということでこれは理解できますが、そのため、「コンマ、ピリオドの一つをも濫(みだ)りに棄てず、原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つ、コンマが三つという風にして、原文の調子を移そうとした。殊に翻訳を為始めた頃は、語数も原文と同じくし、形をも崩すことなく、偏(ひと)えに原文の音調を移すのを目的として、形の上に大変苦労した」となると、それはご苦労様でしたと言うほかはありません。そればかりでなく、明治の人は本当に真面目だなと感心するのは、「ツルゲーネフはツルゲーネフ、ゴルキーはゴルキーと、各別にその詩想を会得して、厳しく云えば、行住座臥、心身を原作者の儘にして、忠実に其の詩想を移す位でなければならぬ。是れ実に翻訳における根本的必要条件である」と書いていることです。ちなみに私が翻訳に関して教えられたのは、「原文と違うことを言っていたら翻訳ではない」と「翻訳だけ読んで意味が通らなければ翻訳ではない」の二つだけで、それは受験の英語には必要十分であっても、本職とするには「翻訳とは何でないか」ではなく「翻訳とは何であるか」を知らなければならないということです。それから二葉亭四迷はバイロンのロシア語翻訳者ジュコーフスキーの名を挙げて、
原文よりよくわかる思い切った訳だとしながら、「自分には、この筆力が覚束ない」という先ほどと同じ告白をしています。正直な人です。
つまり、二葉亭四迷がまだ少年だった田山花袋を感動させたツルゲーネフの『あひゞき』を訳して乗せる文体として言文一致体を試してみたのは、この悲恋ものを表現するのに音韻の点で文語体が不適切だっただけでなく、文語訳は彼の手に余るものだったからだと言ってよいでしょう。鴎外は文語体、後には口語体においても見事な両刀遣いですが、さほど文語に達者でなかったがために、二葉亭四迷は新しい文体の創出という方向に向かったのです。すなわち、用いる適切な文体がないという点で、二葉亭四迷には切実な欲求があったということです。

翻訳ではなく小説となると、二葉亭四迷が『浮雲』を書いた次第は『余が言文一致の由來』にこう記されています。

 もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
 で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑(はた)と膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有(おつしや)る。
自分は少し氣味が惡かつたが、いゝと云ふのを怒る譯にも行かず、と云ふものゝ、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、圓朝ばりであるから無論言文一致體にはなつてゐるが、茲にまだ問題がある。それは「私が……で厶います」調にしたものか、それとも、「俺はいやだ」調で行つたものかと云ふことだ。坪内先生は敬語のない方がいゝと云ふお説である。自分は不服の點もないではなかつたが、直して貰はうとまで思つてゐる先生の仰有る事ではあり、先づ兎も角もと、敬語なしでやつて見た。これが自分の言文一致を書き初めた抑もである。

 この文は、明治三十九年(1906)五月の「文章世界」に載ったもので、、『浮雲』を書いた明治二十年(1887)年から十九年もあとに当時を振り返って書いた回想です。坪内逍遥は日本にシェークスピアを紹介した人として有名ですが、そのアドバイスが的確だったかどうかは大いに疑問です。ちなみに、英国留学中の夏目漱石はシェークスピアを相当読んだはずですが、翻訳は一作もしていません。想像ですが、漢語が達者で立派な漢詩も残している漱石は、シェークスピアのiambic pentameter(弱強五歩格)を十分調べた後、翻訳には手を付けなかったのではないかと思います。もしくはシェークスピアに限らず漱石がこれといった翻訳作品を残していないことには何らかの理由があるでしょう。長編の『ファウスト』(第一部を翻訳した鴎外とは対照的です。

 しかし言うまでもなく、シェークスピアの作品は戯曲ですし、逍遥が例として挙げている円朝の落語も基本はト書きなしの会話形式による一人芸です。話し言葉の抜き書きだけならともかく、それだけでは小説にならない、一番問題なのは地の文なのです。この点が坪内逍遥のもとに赴いた二葉亭四迷の誤算だったのではないかと私は思います。「何か一つ書いて見たいとは思つた」と書いているのはそのまま受け取ると書きたい主題が特になかったということであり、落語の円朝と言えば「芝浜」というわけであったかどうか、舞台はなんとなくそれを思わせます。この作品は作者自身『予が半生の懺悔』の中で、「第一『浮雲』から御話するが、あの作は公平に見て多少好評であったに係らず、私は非常に卑下していた。今でも無い如く、其当時も自信というものが少しも無かった」と評する出来栄えで、この初の小説は、残念ながら話の展開が面白みに欠け、特に第三編では話の筋に動きがなくなって、結局、未完のままになりました。しかしここで終らないのが二葉亭四迷で、小説は三作しかないものの、彼が非凡なのは『浮雲』から二十年たって会心の作と言える『平凡』を書いたことです。



2019年3月23日土曜日

「言文一致に至るまで」 その1

 思考や感情を乗せるための「適切なvehicleがない」という事態を私はうまく想像できないのですが、明治期の文学者が突き当たった問題はこれでした。私の場合は「です・ます」調の敬体の文にするか、「だ・である」調の常体の文にするかで迷う程度で、これも大体は「不特定多数であっても話しかける相手がいる場合は敬体」、「自分の考えを自分で確認する時は常体の文」と決めています。常体の文とは或る種自分にとってモノローグを記す文体なのです。ただ、想定する相手がいる場合でも、その場の感覚で常体が入り混じってごちゃごちゃになることもしばしばで、いずれにしても自分の書く文体が適切かどうかを深く考えずに済んでいるのです。

 江戸末期から明治初期にかけて、日本にはどんな文体があったのでしょうか。
こう聞かれると、一挙に頭が朦朧としてきますが、日本における文体について、私が受けた学校教育の範囲で箇条書きに整理してみると、私世代の常識としては以下のようになります。
中国から渡来した漢字を用いて書かれた『古事記』は当時の日本で使用されていた日本語を漢字の音韻を用いて表記した物語であったこと
②『日本書紀』に始まる歴史書は漢語で表記されたこと
③一方で、朝廷の女官たちの用いた「かな文字」というものもあり、『枕草子』や『源氏物語』という「かな文学」が存在したこと
④男もかな文字を用いて物語や和歌、随筆等を書くようになっていったこと
⑤漢字とかなの入り混じった和漢混交文としての完成形はとりあえず鎌倉末期から南北朝時代を生きた卜部兼好の『徒然草』であること

その後の文体に関して教わった記憶がないのはなぜかと考えると、正式文書は別として、一般のレベルでは一応この和漢混交文が日本の書き言葉の原型となったからなのだろうと思うのです。この理解で正しいのかどうか十全の確信はありませんが、なにしろ『徒然草』は中学生でもさほど違和感なく面白く読めたのですから、相当現代語に近づいていることは確かなはずです。

 日本における正式文書は古来からずっと漢語であり、漢語は江戸時代後期から明治になってもある時期まで知識人にとって必須の教養でした。幼い時から行われた漢語の素読とは、意味が解らずとも音韻によって漢語をその身に叩き込むものであり、であればこそ、漢字を用いる東アジア文化圏では筆談によって意思の疎通が可能になっていたのです。漢字は西欧中世のラテン語にあたる働きを担っていたといっても過言ではないでしょう。日本においてこの状況が揺らいだのは、やはり黒船来航に象徴される西洋文明の圧倒的な力の到来によるのであり、決定的だったのは日清戦争による「眠れる獅子」の敗北とその後の植民地化だったでしょう。

 学校教育の場で明治期の文学で必ず読むのは、森鴎外の『舞姫』と夏目漱石の『こころ』です。前者は文語体、後者は口語体(と呼んでよいかどうかわかりませんが)なので、圧倒的に後者の方が読みやすく、前者は音読だけで国語の時間を何時間も費やした記憶が強く残っています。しかし、文語文が読みにくいかというと、そうとも言えず、『舞姫』の冒頭、「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。」はスラスラ出てくるのに、『こころ』の方はそうはいかない。「たぶん常体の文だったよ」なと迷い、「私はその人を常に先生と呼んでいた。」という短い文さえ、「私はわたくしと読むんだっけ」、「常にその人を」だったっけ」と実に曖昧な記憶であることが暴露されます。私の祖父はもちろん文語の世代ですが、よく「文語の聖書は覚えられたけど、口語の聖書は全く覚えられない」と言っておりましたので、これは私だけの話ではないのです。

詩編23編1~2節
文語訳
ヱホバは我が牧者なり われ乏しきことあらじ
ヱホバは我をみどりの野にふさせ いこひの水濱(みぎは)にともなひたまふ

「ヱホバ」は誤解から生じた訳語なのでこれはいただけませんが、「ヱホバ」を「主」と代え、さらにいわゆる「歴史的仮名遣い」を現代仮名遣いに変更するとこうなります。

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ
主は我をみどりの野にふさせ いこいの水濱(みぎわ)にともないたまう

これなら、文語世代でない私でも一度聞いただけで覚えられます。

口語訳
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

こちらは子供の頃から読んでいる訳なので、それなりにしっくりきますし、覚えてもいるのですが、同じ現代語訳でも新共同訳はこうです。

新共同訳
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

 1節では原典にはある「わたしの」が落ちており、私などには思わずのけぞるような訳です。ここは一般的な羊飼いの話をしている場面ではないので、肝心な語がないのは重大な問題だと思っています。新共同訳はカトリックとプロテスタントが共同で訳した画期的な書ではあるのですが、声に出して読まれることを重視したからなのか、本当に原文は同じなのかと思えるほど、いわゆる口語訳とももちろん文語訳とも違っています。

 実際には後者の二つが現代語を用いた訳文なのですが、ここからわかるのは、文語文とはほとんど動かしようのない完成した文体であるということ、口語文は訳者にとって表現上かなり自由度の高い文体だということです。文語文は明治期からおそらく昭和初期までは生活上の普通の文体でああって、書き言葉として何ら問題はなく流通していたはずです。ここまで整理してだんだん言文一致体が生まれた時の日本語の状況がわかってきました。では、明治期の文学にあたりながら、できる限り言文一致が生まれた由来に近づいてみましょう。




2019年3月19日火曜日

「紅春 135」

12歳を過ぎて、りくの足腰は本当に丈夫だなと感心しています。最近の朝一番の散歩は下の橋まで一周で約30分、2キロくらい歩きます。外につないで疲れたころ中に入れますが、午前中に必ずまた散歩に行きたいとモーションをかけてきます。買い物がてら上の橋まで行き、コンビニに寄って帰ってくるのもおよそ30分、これも2キロくらいです。その後はおとなしく夕方まで寝たり起きたりしており、夕方もう1回、短く1キロくらい歩きます。湧水池の鯉が気になるので、私の希望でそこへ行くことが多いです。誰が管理しているのかわかりませんが、錦鯉も含めて数匹の鯉がいるのです。水もきれいだし住みやすいのでしょう。わたしでもたやすく見つけることができるほどの澄んだ水です。会いに行くのが楽しみですが、水辺にいると鯉が集まってくることもあるのでのんびりできません。りくは鯉には無関心です。

 こんな感じで、私が帰省している時は1日5キロは歩いているのです。他の時間はだいたい寝ていますが、起きている時は隣の部屋からパソコンに向かう私をじっと見ています。スキを見せないようにしていますが、一度、時間が空いた時、「行く?」っと聞いたら、それまで寝そべっていたのにバーンと跳ね起きて、一目散に勝手口に走って行ったので、「そんなにうれしいのか…」と唖然としました。おそらく人間以上に、犬は歩けなくなったら大変ですので、自分から散歩をせがんでくれるのを喜んでいます。負けないように、私がついて行かねばなりません。

2019年3月15日金曜日

「天保の人 福沢諭吉」 その3

 『学問のすゝめ』は全部合わせると300万部ほど売れたのではないかと言われていますが、明治初期の人口が3500万人程度であったことを考えればこれは途方もない数です。ほぼ国民の全員が読んだ、あるいは聞いたと考えてもよいだろうと思います。なぜそれほど読まれたのかを考えることは、廃藩置県後の福沢の歩みをたどることと重なります。明治4年、福沢は郷里中津の旧藩主、奥平昌邁を説いて、中津に「中津市学校」という洋学校を設立します。新しい世になって藩がなくなっても郷里を見捨てることなく学校を作ったのですから、福沢の胸中に故郷への愛着、恩義の思いがあったのでしょう。そこへは慶應義塾から初代校長として小幡篤次郎、教師として松山棟庵らが赴任するという力の入れようで、このとき学問の趣意を中津の人々に示すために小冊子を作りましたが、それが他ならぬ『学問のすゝめ』なのです。ですから、この初編には福沢諭吉と並んで校長の小幡篤次郎の名前も記されていますが、書いたのは福澤一人です。新しい時代の新しい学校設立の趣意書として書かれた『学問のすゝめ』は、人々に熱い感動を与え、中津にのみ留めおくのはもったいないとの声が上がって全国に出版されることになったのです。
 これは福沢にとって大きな転機となる出来事でした。国中に名が知れ渡ったということより、学者相手にではなく、一般の人民に対してカナ交じりの平易な文で書くという手法の影響力を知ったという意味です。それは民の潜在能力を信じるということでもあります。

 福沢の書くものは続編も含めて論理的な構成にはなっていません。前述の「その1」において、福沢が二編で人民と政府が社会契約を結んだかのように書いていることを指摘しましたが、『明六雑誌』第2号の「非学者職分論」において西周は、独立の危機とその後の論理の非整合性や無気無力の民を短期間で開明できるという主張の非現実性をついています。それももっともなことですが、西周であれば、福沢がカナ交じりの平易な文で書いたという事実から、福沢の狙いに気づいてもよかったでしょう。そもそも『学問のすゝめ』という学問をすすめるための書に、学者に宛てた編があるのはおかしいのです。本気で学者に対する主張をしたいのであれば、きちんと論旨の通った文を、必要とあらば漢語で書くことも福沢にはできたはずです。ですから、この四編、五編もやはり一般の民に読ませるためのものだと考えるべきでしょう。学者が読んで食いついてくるのは計算済みのことで、これが論題になって一般人にも「官」ではなく「民」を目指す道を考えてもらえたら勿怪の幸いと思ったのではないでしょうか。この点では福沢の方が一枚上手でした。

 これらすべてが意味するところは、福沢諭吉の書いた「学問のすゝめ」は時事談義を含む学問についての物語であり、啓蒙文学とでも言うべきものなのだということです。それが成功したのは、『西国立志編』や『民約約解』のような西洋の翻訳書ではなく、福沢が自分の言葉で語りかけたことによると思います。福沢が用いた或る種独特の文体は、バルト的に言えば「教師のエクリチュール」ということになるでしょう。日本の歴史において、一般大衆に向かって教師として語りかける本を書いたのは、福沢諭吉が初めてです。お上のことばではなく、「教師のエクリチュール」をもって語られたために、様々な状況にある広範な民の学びが起動したのです。

 実のところ、かつて知識階級に対して「学問のすすめ」を行った人物を我々は一人知っています。それは『愚管抄』を書いた慈円です。言わずと知れた比叡山延暦寺の天台座主で、当時の知的世界の頂点に君臨した人でした。慈円はその立場にあるまじき、カナを用いて『愚管抄』を書くというアッと驚く手法に出た理由を巻7において記しています。にわかには信じられないのですが、この時代、「「学問の家に生まれた者でさえ、漢文で書かれた書物を読まない。読めない」という状況が生まれていたようなのです。慈円はカナ文字を用いた和漢混交文という文体を使用することで注目を引き、知識階級たる僧侶と官吏に「歴史を学べ、原典を読め」と呼びかけたのです。これには平安朝を守るべき摂関家の父・関白藤原忠通の失策から、鎌倉武士へと権力が移るきっかけともなる保元の乱が起こったという慈円の個人的事情も絡んでいるのですが、移行期的混乱の中で「勉強しろ」と発破をかけたという点では、慈円も福沢も同じなのです。

 福沢は文体こそ変えませんでしたが、「教師のエクリチュール」を確立したという点で画期的でした。この頃の読み物と言えば、私は仮名垣魯文の滑稽本くらいしか思い浮かびませんが、文学の空白時代だったということも幸いしたかもしれません。明治期の真の新文体の創出は二葉亭四迷の努力とその達成を待たねばなりません。教師が自分の言葉を持っていて揺るがぬ信念を述べる時、そしてその人がその言葉のままに生きている時、教師の言葉はほとんど無敵です。事実でないことを言おうが、論理に飛躍があろうが、関係ありません。多少きつい言葉で罵倒されても本物の教師の言葉は、無為に過ごしていた人々に、「勉強したい」という彼ら自身思いもかけなかったような欲望を起動させてしまうのです。慈円は漢文のみならず、『新古今和歌集』の代表的歌人でもあるという、和歌においても最高水準にあった人です。『小倉百人一首』の大前僧正慈円作
「おほけなく うき世の 民に おほふかな わがたつ杣に 墨染の袖」
は誰もが知っている歌でしょう。この「身の程知らずかもしれないが、つらい浮世を生きる民を包み込んでやりたい」という気持ちは、恐らく福沢も同じだったのではないでしょうか。だからこそ、「馬鹿者、勉強して力をつけなさい、!」という厳しい言葉にもなるのです。

 『虞美人草』に登場する小野という書生は、明治の時代精神を反映した若者として描かれますが、最終的に漱石はこの青年をすんでのところで前近代に押しとどめています。福沢も漱石も明治という時代に馴染めないものを感じながら、それでも「来るなら来い」との強い気持ちをもって新しい時代を自分の言葉だけで生きていった人たちです。その志の中には、「国民を西洋人に立ち向かえるだけの自立した大人にする責務を引き受ける」との決意があったことは確実だろうと思います。日本が未知の世界に直面した明治という時代に、福沢諭吉や夏目漱石が見せた健気で可憐なたたずまいが、醜悪にならざるを得ない近代の中でとても貴重なものとして光を放っています。


2019年3月11日月曜日

「天保の人 福沢諭吉」 その2

 福沢諭吉は徹頭徹尾「私」の人で、「官」を毛嫌いしています。ここでいう学者とは、明治政府に出仕している官吏である洋学者のことで、『学問のすゝめ』の四編と五編はこれらの学者に向けて書かれたものです。啓蒙書であれば学者に向けて書く必要はなさそうですが、福沢にとってはそうではない、それらの洋学者こそ「大馬鹿者」なのです。これを書くことになった経緯は明六社の創立と関係しています。森有礼は、明治6(1873)年7月に駐米代理公使の任から帰国し、その後すぐ、西村茂樹を通じて「都下の名家」に結集を呼びかけるという形で学術結社としての「明六社」の結成に動いています。メンバーはほぼ明治政府の官吏ですから、声のかかった福沢は九月一日に「明六社」の最初の会合に出席して、おそらく困惑したのではないでしょうか。福沢は月二回の会合を重ねるうち、政府に取り込まれないためにも、また馬鹿をのさばらせないためにも、『学問のすゝめ』の続編を書かねばならないとの思いを強くしたのだろうと私は思います。実際、この年の11月から毎月のように『学問のすゝめ』の続編が刊行されますが、これに明六雑誌の創刊と停刊を重ねて記すと次のようになります。

明治6(1873)年11月、二編刊行
明治6(1873)年12月、三編刊行
明治7(1874)年1月、四編および五編刊行
明治7(1874)年2月、六編刊行
明治7(1874)年3月、七編刊行
*4月 『明六雑誌』の創刊 第1号から第6号が刊行される。
明治7(1874)年4月、八編刊行
明治7(1874)年5月、九編刊行
明治7(1874)年6月、十編刊行
明治7(1874)年7月、十一編刊行
明治7(1874)年12月、十二編および十三編刊行
明治8(1875)年3月、十四編刊行
明治8(1875)年6月、太政官布告、讒謗律・新聞紙条例が制定される。
*11月 『明六雑誌』第43号にて停刊となる。
明治9(1876)年7月、十五編 刊行
明治9(1876)年8月、十六編 刊行
明治9(1876)年11月、十七編 刊行

 これによってわかるように、福沢諭吉は明六社の創立後すぐに続編を書き始め、太政官布告、讒謗律・新聞紙条例の制定を受けて停刊へ向かうことが明らかになった後は、1年以上続編を書いていません。続編を書いた主な目的は、事実上「明六社をつぶす」ことにあったことは間違いありません。『学問のすゝめ』四編は「学者の職分を論ず」と題するいわゆる「学者職分論」ですが、これに対し、『明六雑誌』第2号の論説は、加藤弘之の「福澤先生の論に答う」、森有礼の「学者職分論の評」、津田真道の「学者職分論の評」、西周の「非学者職分論」であって、「学者職分論」への反論特集となっています。

 福沢が『学問のすゝめ』四編で述べていることとは、「日本の独立維持の条件として学術、商業、法律の発展が必要であり、政府の振興策にもかかわらず「人民の無知文盲」によりうまくいっていない。いま民を導くことができるのは洋学者であるのに、それが揃いも揃って『官途』につき、世の風潮もそれに倣っているため、私自身がまず人に先だって『私立の地位』につく責任を負うものである」という、在野での活動宣言なのです。これにより、福沢の明治政府および官途にある人々から成る明六社との決別の意志は、満天下に知られることになります。

 福沢が「こいつらとは付き合いきれない」と思った理由は他にもあったに違いなく、それは『明六雑誌』創刊号の西周の「洋字を以て国語を書するの論」と西村茂樹の「開化の度に因て改文字を発すべきの論」です。なんとこれは、森有礼に近い、国語のローマ字表記論なのです。森は十九歳でロンドン大学に学んだ経験から、西洋文明の基底にある科学技術やキリスト教の精神の導入を必須と感じましたが、おそらくそのための教育を行うには事物や概念を表す日本語の語彙が無く無理だと考えたのでしょう、「日本語を棄て去って英語を国語とする」という構想を抱きます。そして冗談ではなく、それに近い考えを持つ洋学者は結構いたのです。

 一方、外国語取り扱いについての福沢の考えは、ずっと前の明治3(1870)年三月に書かれた『学校の説』(慶応義塾学校の説)に述べられています。目ぼしいところをざっと要約すると、

「漢洋兼学は難しいのでどちらかにしなさいという人もいるが、二、三か国語を学ぶなど何でもないことである。『洋学も勉強すべし、漢学も勉強すべし、同時に学んでともに上達すべし。』」

「翻訳書を読む時は、まず仮名まじりの訳書を先にし、漢文の訳本は後にしなさい。『字を知るのみならず、事柄もわかり、原書を読むの助けとなりて、大いに便利なり。』」
 このように述べた後、福沢は洋学者に対して重要なことを言います。
「『国内一般に文化を及ぼすは、訳書にあらざればかなわぬことなり。原書のみにて人を導かんとするも、少年の者は格別なれども、晩学生には不都合なり。』」

 また、次のようにも言っています。
「二十四、五歳以上で漢書に通じた人が洋学に入る場合、横文字になじめず漢学に戻ってしまうことがあるが、こういう人は理解力はあるのだから、翻訳書を読んで洋学に慣れてから原書を学べば、速やかに上達するはずである。『ひっきょう読むべき翻訳書乏しきゆえにこの弊を生ずるなり。漢学生の罪にあらず。ゆえに方今、我が邦にて人民教育の手引たる原書を翻訳するは洋学家の任なり。』」
 つまり、福沢の見解は「原書をどんどん翻訳して日本国中に流通させるのが洋学者の責任である」ということです。

 このように、官と民、英語と日本語という国家を導く根本理念が、明六社と福沢諭吉では全く違っていたのですが、福沢は反論に反論を重ねて泥沼の論争になるという愚かな選択はしません。不毛な論争に賭ける時間はなく、言うべきことを淡々と書いて発表するのが一番の方策だと考えたのでしょう。時が過ぎ、『明六雑誌』の停刊からちょうど1年たった頃に、『学問のすゝめ』の最後の十七編の中で、福沢は当世の書生批判という形で次のように書いています。

 あるいは書生が「日本の言語は不便利にして、文章も演説もできぬゆえ、英語を使い英文を用うる」なぞと、取るにも足らぬ馬鹿を言う者あり。按(あん)ずるにこの書生は日本に生まれていまだ十分に日本語を用いたることなき男ならん。国の言葉はその国に事物の繁多なる割合に従いて、しだいに増加し、毫(ごう)も不自由なきはずのものなり。何はさておき今の日本人は今の日本語を巧みに用いて弁舌の上達せんことを勉むべきなり。

 私は森有礼の漢語力、日本語力がどれほどのものか知りませんが、この痛烈な言葉は、若くして渡英し英語は自在に操れるようになったものの、例えば十分に漢学を修めた英語翻訳者であれば持っているはずの、英語の翻訳能力を持たない若者に対する批判であるように思われます。

 『福翁自伝』には、文久の遣欧使節で共に洋行を果たした箕作秋坪や松木弘安(寺島宗則)、福地源一郎の名前は他の文脈でも登場するのに、明治期の洋学者の代表であるような西周や森有礼の名前が一切出てこないことを私はずっと不思議に思ってきました。最初はフロイト的な抑圧が強すぎるのかとも考えたのですが、どうもそうではない。思い出さなかったか、自伝に残すほどのこともない馬鹿者という扱いだったのではないかという気がします。知識があることと賢明であることは全く別のことなのです。


2019年3月7日木曜日

「天保の人 福沢諭吉」 その1

 夏目漱石の『虞美人草』の中に、井上孤堂という老人が時代遅れの人物としてその端正な姿を刻んでいますが、これが書かれた明治四十年どころか、もう明治二十年代にはご維新はすでに遠く感じられたようで、時代遅れの人として「天保の老人」という言葉が使われています。福沢諭吉というとバリバリの明治人のような印象がありますが、彼は天保5年(1935)の生まれです。天保は15年までありましたが、その後、明治までの元号は数年で変わることが多く、天保→弘化→嘉永→安政→万延→文久→元治→慶応と、8回も変わっており、明治を迎えた時には福沢諭吉は33歳です。亡くなったのは、明治34年(1901)ですので、維新を挟んでほぼ同じ年数を生きたことになります。福沢諭吉は洋学者ですが、洋装の写真を見たことがなく、『学問のすゝめ』と『福翁自伝』を読む限りでは、彼自身は天保人としてのメンタリティが強かったのではないかと私は思います。

 福沢諭吉を一言で言うと、曇りのない目で物事を見て自由自在に考えることができる人、また、筋目の通った常識人で、信頼できる良き家庭人でもあるという印象です。特に『福翁自伝』では、若い時に良き師・良き友と一心不乱に学ぶことがどれほど豊かな人生につながるかを教えてくれています。 (酒豪とは知りませんでした。)

 『学問のすゝめ』というと啓蒙の書の代名詞ですが、言いたいことはただ一つ、「学んで賢い国民になれ」に尽きると思います。福沢は江戸時代の武士の横暴も民の卑屈さも許せず、さらにもっと許せないのは薩長に牛耳られた明治政府の専制なのだと思います。福沢は『学問のすゝめ』の二編で、眼前の政府を無視してこんなことを述べています。
 
元来、人民と政府との間柄はもと同一体にてその職分を区別し、政府は人民の名代となりて法を施し、人民は必ずこの法を守るべしと、固く約束したるものなり。譬(たと)えば今、日本国中にて明治の年号を奉ずる者は、今の政府の法に従うべしと条約を結びたる人民なり。

 もちろんこれは、福沢の頭の中の理想の政府について述べているのですが、「理念としてはこうであるべきで、今の政府は全く駄目だ」ということを暗に言ってもいるのです。しかし、こう書かざるを得ないのは、福沢が国内の混乱を望んでいないからで、この書き方は苦肉の策なのです。こう続きます。

ゆえにひとたび国法と定まりたることは、たといあるいは人民一個のために不便利あるも、その改革まではこれを動かすを得ず。小心翼々謹(つつし)みて守らざるべからず。これすなわち人民の職分なり。

そしてここから怒涛のような「馬鹿嫌い」が噴出します。七編「国民の職分を論ず」にあるように、福沢にとって民と政府がそれぞれの分限を守って折り合っていくのが国の一番良い姿で、そうでない場合は「民が節を屈して政府に従う」か、「民が力をもって政府に敵対する」か、「民が正理を守りて身を棄つる」か、のどれかとなりますが、この三番目がよいと説いています。

第三 正理を守りて身を棄つるとは、天の道理を信じて疑わず、いかなる暴政の下に居ていかなる苛酷の法に窘しめらるるも、その苦痛を忍びてわが志を挫(くじ)くことなく、一寸の兵器を携えず片手の力を用いず、ただ正理を唱えて政府に迫ることなり。以上三策のうち、この第三策をもって上策の上とすべし。

 実際にはありもしない「民と政府の契約」という社会契約説を持ち出してまで福沢がこのように説くのは、彼に洋行の経験があり、欧米の民主主義国家の実情を知っていたからではないかと思います。また、アレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカの民主政治』(De la démocratie en Amérique, 第1巻1835年、第2巻1840年に刊行)の英訳を読んでいた可能性もあるでしょう。いづれにしても、民主主義国家においては、既に古代ギリシャの時代から「衆愚政治」という実態があったのです。日本が今後どんな政体を取るにしても、「国民が賢くならない限りどうにもならない」という確信があったのでしょう。だから福沢は、「啓蒙」という一見手間のかかる迂遠な道を選んだのだと思います。二編にある次の文を読めば、福沢がいかに「馬鹿者」すなわち「学ぶことをせず蒙の状態にある者」を嫌っているかわかります。

しかるに無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と寝ると起きるとのみ、その無学のくせに欲は深く、目の前に人を欺きて巧みに政府の法を遁(のが)れ、国法の何ものたるを知らず、己(おの)が職分の何ものたるを知らず、子をばよく生めどもその子を教うるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らざる馬鹿者にて、その子孫繁盛すれば一国の益はなさずして、かえって害をなす者なきにあらず。かかる馬鹿者を取り扱うにはとても道理をもってすべからず、不本意ながら力をもって威(おど)し、一時の大害を鎮(しず)むるよりほかに方便あることなし。

 あまりの語気の激しさに、「わ~ん、勉強するから許して」と言いたくなるほどで、よほどの確信が無ければここまでは言えません。これはもちろん一般人に対する言葉ですが、 福沢諭吉が最初に『学問のすゝめ』初編を書いた時には、それで終わるはずでした。ところがそうはいかない状況が生まれたのです。そのため、続編においては、一般人への啓もうに加えて、福沢はその批判の矛先を学者へも向けていくことになります。四編、五編のようにそれを明示して行うこともあれば、民への批判に巧妙に織り込んでいる場合もあります。



2019年3月1日金曜日

「祈りの基本?」

 少し前に、知り合いの方から「私の友人のために祈っていてほしい」との話があり、事情を聴くと、「親友が手術を受けることになったから」とのことでしたので快諾しました。それから1カ月ほど過ぎる頃、「友人は退院し、自宅に戻ったが、なお引き続き祈っていてほしい」との連絡がありました。手術が無事終わり、術後もよくて退院できたことを神に感謝し、ご自宅での生活に慣れていかれるようにと願いつつ祈っておりました。それから2カ月ほどして再び連絡があり、「友人は再入院となりました。今度は緩和ケア病棟です」との連絡がありました。「これから先どのようにお祈りしてよいのかとても辛い気持ちです」とあり、引き続きお祈りしてほしいと書かれていました。確かに、再入院となった当人はもちろん、知らされた方にとっても大変お辛い状況だと思いました。私は返信に様々なことを述べるなかで次のような文も書きました。

 「テレビのCMで『年寄りはみんな寂しいんだ』というようなフレーズが聞こえてきた時、『そんなことないよ』と思わず口にしていました。イエス様が共にいてくださるのを知っていることはなんとありがたいことでしょうか。」
 すると返信が来て、次のように書いてありました。
「あなたにお祈りをお願いして本当によかった。今の私は昨日のどう祈っていいのか分からないという私ではなく、主に望みをおき今の彼女のことをしっかり受け止め、愛する親友とそのご家族のことをお祈りさせていただきたいという新しい気持ちになりました。」

 そうなのです。人には災いは付き物で、いつ思いもかけない災難に見舞われるかわからず、そうなると林の木々のように動揺し、心に不安が沸き上がることは避けられません。そんな時こそ祈りの基本に返ればよいのです。イエス様は言われたではないですか。

「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる (マタイによる福音書28章 20節)」と。

 イエス様が「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と言われているのです。イエス様が世の終わりまでいつも共にいるのに、「寂しい」なんてことはあり得ないでしょう。キリスト者はそれをただ信じればよいのです。