中途失明者の支援をしている団体から年に3度会報が送られてきます。視覚障害者の生活状況はハイテク機器の発達により急速に改善されている感がありますが、2018年11月号ではまた新たな展開を知らされました。話にはよく聞くウェアラブル端末の一つで、スマートグラスについてです。
書かれた方は次第に低下していく視力の中で、電車の乗り換え案内や出口の表示が見えない、買い物に行っても商品が何かわからない、値段が見えない、洗剤や食品、調味料などのラベルや注意書きにある、使用量、用途がすぐにわからない、人の顔もあまリ見えないのでバッタリ会った時に誰かわからない、日々届くDMや手紙、カタログ、様々な書類やレシートなどが、見てすぐ処理できないため、少し油断すると、どんどんたまっていく等の困難を抱えており、誠に身につまされる話です。
その方がこのスマートグラスを体験し感想を書いているのですが、一言で言うとこの機器は、見た文字を代わりに音声で読み上げてくれ、しかも翻訳までできるとのことです。「多くの視覚障害者が困難を抱えている活字を、メガネ型のデバイスで、いとも簡単に読むことができるようになるなんて、想像できないことでありましたし、遠い未来の話だと思っていた」と述べられています。以下、具体的な説明です。
「スマートグラス」とは、ウェアラブル端末(身に着ける機械)の一つで、眼鏡をかけるように使います。センサーやカメラ、マイクなど様々な機能が搭載され、インターネットにもつながるので、メガネの形をしたスマートフォンと考えてもよいでしょう。
今年に入り、さらにバージョンアップした機械が発売になり、その機械は活字を読むだけでなく、人や物、色の認識もでき、簡単なジェスチャーによって操作が可能です。こうした機能の元になっているのは、多くの視覚障害者が困りごととして挙げていることであり、これらの手助けができると、困りごとの解消につながることでしょう。」
この方は、これらの機器が身近になることによって、「新しい楽しみや希望が発見できる」こと、「とかく受け身になりがちな視覚障碍者の生活が、誰のサポートも受けず『自立した』ものに近づくと期待できる」と述べています。
体験していないのでわかりませんが、要するに目の代わりになってくれるものであることは間違いありません。私の場合は、手元に引き寄せられるものは短時間ならまだ読めますが、バスの行き先の表示はだんだんきつくなってきているし、信号機のライトの下についている地名の表示はお手上げなので、不案内な土地に行くときは単眼協が手放せません。ただ、人間は目に入っていても意識しないものは見えていませんが、「このスマートグラスは全部読み上げるんだろうか。そうなるとかなりうるさいだろうな」と、そのあたりのことが気になります。
11月号の中でもう一つ気になった記事は、ご自身も視覚障害のある筑波技術大学教授が9月交流会で講演された内容を文字に起こしたものでした。この方は、「目の状態によって墨字も展示も使えるのはとても便利」と述べていましたが、これはよくわかります。私は書いてきた原稿をその場で読むことができませんが、点字を使える方は手で原稿を読みながら話ができるのを盲学校で見て「ああ、便利だろうな」といつも思っていたからです。それはともかく、「人生は小説よりも奇なり」と言いながら、この方は生い立ちを述べていく中で、当時は東京教育大学教育学部の附属盲に入り、筑波技術大学教授になるまでの半生を語っていきます。筑波技術大学は視覚障害と聴覚障害を持っている人だけが入れる大学で、世界的にも珍しく、少なくともアジアではここだけだそうです。筑波技大には理療科(あん摩・鍼・灸の三療)のがあり、教員養成コースもあります。「他のアジアの国々は、(視覚障碍者による)マッサージはまだまだという状況です。なぜなら、それは教員を養成する学校が無いためです。つまり、私が理療科教員になれたのは、理療科の教員を養成する制度が日本にあったからです。・…(中略)・…そして、さらに遡ると盲学校を作った、あるいは理療科という制度を作った、あるいは理療科教員の養成制度を作った、かつての先輩や先人のおかげだと思いますし、こういう制度は世界に冠たるものと言っても良いと思うのです」と述べています。ここから〈理療の歴史〉になります。
日本が世界に誇ることのできる文化はたくさんありますが、日本の理療科の教育制度や、理療科の教員養成制度、業の免許制度というのは、紛れもなく日本が世界に誇ることのできる文化だと思います。特に盲人の職業史をひもとけば、盲人の福祉と自立の手段をかすがいにかけて実現させてくれるわけです。そういう意味では世界に例のない職業文化だと思っています。
そういう文化を築き上げた最初の人は杉山和一という江戸時代中期の全盲の鍼医(鍼医者)です。1680年代~1690年代にかけて、幕府の補助を得て鍼やあん摩を教える稽古所の誠治講習所というものを作りました。世界的にみると、パリでバレンタイン・アユイという人の創った盲人職工学校が、ヨーロッパでの盲人職業教育の最初ですから、誠治講習所はまさに世界の先駆けだったのです。
そして、2番目は山尾両三という人です。日本にも盲唖教育の学校を作るべきだと、明治4年に盲唖学校建設の建白書を太政官に出し、楽善会訓盲院という、今の筑波大附属盲学校の前身が作られますが、楽善会の校舎を作る時の筆頭寄附者が山尾庸三でもありました。
それから、奥村三策です。この方は、楽善会訓盲院の鍼按科と言いましたが、そこの助教(助手・教諭)になる人です。とにかく優秀な方で、鍼灸の研究や鍼灸教育の教科書をたくさん書いていて、「近代鍼灸教育の父」と言われています。彼が教諭時代に、楽善会はちょうど財政難のために文部省に移管されるのですが、この移管を機に文部省は楽善会で行われていた鍼の教育を禁止します。もし、鍼の教育がそのまま禁止となっていれば、今の鍼灸学校は無いわけです。彼は、当時の帝国大学の先生を介して近代医学の病理学、解剖学、生理学をきちんと教え、鉄のような太い鍼を使わず細い鍼を使うのであれば盲人に鍼を教えても良いという内容の「誠治採用意見書」を出させた功績もあります。
4人目は芹渾勝助先生です。我々の恩師で、戦後の荒廃した理療教育、鍼按教育を立て直した先生です。今の理療科教育の制度や業の制度も含めて、この芹渾先生が中心になって作ったのです。
初めて知る三療(教育)の歴史に、「昔の人は偉かった」の一言です。このような営々たる努力の積み重ねが脈々と受け継がれてきた社会を知り、引き継いでいかなければならないでしょう。スマートグラスとは直接の関係はないでしょうが、見えない目で社会のフルメンバーとして生きていきたいという思いがその発明に何らかの影響を与えていないはずはないと思います。
2019年1月29日火曜日
2019年1月23日水曜日
「明治期における『社会』概念」を読んで(その3)
さて、次に「社会」という語の初出例を書いた福地桜痴(源一郎)であるが、この人の経歴はなかなか面白い。福地は儒医・福地苟庵の息子であるが、漢学、蘭学を学んだ後、江戸に出て森山栄之助の下でイギリスの学問や英語を学んでいる。その後、通訳として外国奉行支配通弁御用雇となり、翻訳の仕事に従事することとなった。万延元年(1860年)に御家人に取り立てられ、柴田日向守に付いて通訳として、文久2元年(1862年)には文久遣欧使節(幕府が初めてヨーロッパに派遣した使節団)に参加している。言うまでもなく、これには福沢諭吉も参加しており、二人はここで出会っているのである。言ってみれば福地と福澤は旧知の仲なのだ。福澤27歳、福地20歳の時である。
ここで、「明治期における『社会』概念」の執筆者の記述を通して、明治8(1875)年1月14日『東京日日新聞』の福地の社説に戻る。
弁駁の論文は新聞紙上に多しと雖ども、昨日(一月十三日)日新真事誌に登録したる、文運開明昌代の幸民、安宅矯君が我新聞に記載したる本月六日の論説を批正せし論より期望を属したるはなし。吾曹はその全局の趣旨と全文の遺辞とを以て、此安宅君は必ず完全の教育を受け、高上なる社会(ソサイチー)(ソサイチー)に在る君子たるを卜するを得るに付き、吾曹が浅見寡識を顧みず、再び鄙意を述べ、謹んで教えを請わんと欲す。
・・・・・(中略)・…
唯冒頭の一節の如きは蓋し打過他的の議(ペルソナルアタック)ペルソナルアタック)に係るより、吾曹は苟も世に公にするの新聞に於て、身上の実告(ペルソナルプロテスト)(ペルソナルプロテスト)を成す可き自由を有せず。仮令い(たとい)此自由を許さるるも、吾曹は勉強と経歴との援助を以て、漸く高上なる社会に加わらん事を祈望するに依り、昔日の粗鄙なる昞習を逐うて実告を為すを愧じ、又之を為すに忍びず。(248頁~249頁)
ここに2度出てくる「高上なる社会(ソサイチー)、および打過他的(ペルソナルアタック)、身上の実告(ペルソナルプロテスト)等のカタカナ語の乱れ打ちは、執筆者の言うように、確かに符丁であり目配せであった。しかし、それは誰に対するシグナルなのであろうか。
福沢諭吉によって『學問のすゝめ』(初編)が出版されたのは明治5(1872)年2月である。この書は元来、福澤が郷里中津に設立した「中津市学校」という洋学校のために書かれたものだったが、中津だけに留めておくのはあまりにももったいないとの声が挙がり、一般の読者に向けて全国的に出版したところ、空前絶後の大ベストセラーになったものである。従って印刷は慶應義塾の三田印刷工場において行われた。この時点では『学問のすゝめ 全』として1冊で完結したものだったが、その後に2編・3編…と続々と刊行されて、最終的には明治9(1876)年11月に17編まで出版された。明治7(1874)年1月1日に書かれた『学問のすすめ』の五編を見てみよう。福澤は次のように述べている。(ただし、傍点は筆者)
五編
『学問のすすめ』はもと民間の読本または小学の教授本に供えたるものなれば、初編より二編三編までも勉めて俗語を用い文章を読みやすくするを趣意となしたりしが、四編に至り少しく文の体を改めてあるいはむずかしき文字を用いたるところもあり。またこの五編も明治七年一月一日、社中会同の時に述べたる詞を文章に記したるものなれば、その文の体裁も四編に異ならずしてあるいは解げし難きの恐れなきにあらず。畢竟四、五の二編は学者を相手にして論を立てしものなるゆえ、この次第に及びたるなり。
世の学者はおおむねみな腰ぬけにてその気力は不慥ふたしかなれども、文字を見る眼はなかなか慥かにして、いかなる難文にても困る者なきゆえ、この二冊にも遠慮なく文章をむずかしく書きその意味もおのずから高上になりて、これがためもと民間の読本たるべき学問のすすめの趣意を失いしは、初学の輩はいに対してはなはだ気の毒なれども、六編より後はまたもとの体裁に復かえり、もっぱら解しやすきを主として初学の便利に供しさらに難文を用いることなかるべきがゆえに、看官この二冊をもって全部の難易を評するなかれ。
明治七年一月一日の詞
(「高上になりて」に傍点)
「明治七年一月一日、社中会同の時に述べたる詞」とはっきりかかれているように、すなわちこれは慶應義塾の新年会での挨拶なのである。従って、「社中会同」とは慶應義塾の教員の集まりを指すが、学者相手の話ゆえ、四編同様五編も「遠慮なく文章をむずかしく書」くと、福澤は宣言しているのである。その直後に「その意味もおのずから高上になり」と書かれている。
福地桜痴はジャーナリストであり、福澤の筆が生み出す『学問のすゝめ』は続編が刊行されるごとに当然目を通していたことだろう。「社中会同」は縮めれば「社会」、「高上なる社会」は確かに学者、知識人への符丁であろうが、誰より福澤本人への目配せであったろう。もう一つ礼を挙げよう。『学校の説』は明治3(1870)年三月に書かれているが、慶応義塾のための敷地として三田の島原藩邸を借り受けて、その建物の払い下げに成功したのは11月であるから、この文はそれ以前にもう書かれていたことになる。全編が実に興味深いが、学問における使用言語についての福澤の持論が述べられている部分を引用する。(傍点は筆者)
(一名、慶応義塾学校の説)
・…前略・・・・
一、 学問は、高上にして風韻あらんより、手近くして博きを貴しとす。かつまた天下の人、ことごとく文才を抱くべきにもあらざれば、辺境の土民、職業忙わしき人、晩学の男女等へ、にわかに横文字を読ませんとするは無理なり。これらへはまず翻訳書を教え、地理・歴史・窮理学・脩心学・経済学・法律学(これらの順序をおい原書を翻訳せざるべからず。我が輩の任なり)等を知らしむべし。
・・・・中略・・・・
洋学の順序
一、幼年の者へは漢学を先にして、後に洋学に入らしむるの説もあれども、漢字を知るはさまで難事にあらず、よく順序を定めて、四書五経などむつかしき書は、字を知りて後に学ぶべきなり。少年のとき四書五経の素読に費ついやす年月はおびただしきものなり。字を知りし上にてこれを読めば、独見どくけんにて一月の間に読み終るべし。とかく読書の要は、易きを先にし難きを後にするにあり。
一、漢洋兼学は難かたきことなれば一方にしたがうべきなど、弱き説を唱うるものなきにあらず。されども人の知識は勉むるにしたがい際限なきものなれば、わずかに二、三ヶ国の語を学ぶとて何ぞこれを恐るるに足らん。洋学も勉強すべし、漢学も勉強すべし、同時に学んでともに上達すべし。西洋の学者は、必ずラテン、ギリーキの古語を学び、そのほか五、六ヶ国の語に通ずる者少なからず。東洋諸国に来たる欧羅巴人は、支那・日本の語にも通じて、著述などするものあり。西洋人に限り天稟文才を備うるとの理もあるまじ。ただ学問の狭博はその人の勉・不勉にあるのみ。
一、翻訳書を読むものは、まず仮名附の訳書を先にし、追々漢文の訳本を読むべし。字を知るのみならず、事柄もわかり、原書を読むの助けとなりて、大いに便利なり。国内一般に文化を及ぼすは、訳書にあらざればかなわぬことなり。原書のみにて人を導かんとするも、少年の者は格別なれども、晩学生には不都合なり。
二十四、五歳以上にて漢書をよく読むという人、洋学に入る者あれども、智恵ばかり先ばしりて、乙に私の議論を貯えて心事多きゆえ、横文字の苦学に堪えず、一年を経ずして、ついに自から廃し、またもとの漢学に帰る者ままこれあり。この輩はもと文才ある人なれば、翻訳書を読み、ほぼ洋学の味を知りて後に原書を学ぶようにせば、苦学をも忍びて速やかに上達するはずなれども、ひっきょう読むべき翻訳書乏しきゆえにこの弊を生ずるなり。漢学生の罪にあらず。ゆえに方今、我が邦にて人民教育の手引たる原書を翻訳するは洋学家の任なり。
右は我が邦今日の有様にて洋学を開く次第を述べたるのみ。年月を経るにしたがい学風の進歩することあらば、その体裁もまた改まるべし。
明治三年庚午三月
慶応義塾同社 誌しるす
(「学問は高上にして」に傍点)
初っ端から「学問は、高上にして」と始まっており、福澤にとって「高上なる」は「学問」の枕詞のようなものであると知れるが、このように「高上」とは福澤が学問について用いた言葉であるとすれば、新聞紙上における福地の言葉遊びが福澤に向けたものなのは明白である。一方、カタカナ語の多用で思い浮かぶのは英語かぶれの森有礼の顔である。森は明治4(1871)年には国語外国語化論を提唱しているから、前述の如く「国内一般に文化を及ぼすは、訳書にあらざればかなわぬことなり」と明確に述べている福澤とは、外国語の取り扱いについては真っ向から対立していたのである。明治7年の4月3日に発刊された『明六雑誌』の第一号の論説名は、西周の「洋字を以て国語を書するの論」と西村茂樹の「開化の度に因て改文字を発すべきの論」であった。なんと森有礼に近いローマ字表記論が創刊号の論説なのである。福澤にとっては決して認めることのできない宣戦布告と言ってよい。
いや、明六社の設立および明六雑誌の創刊を迎え撃つかのように、『学問のすゝめ』の続編を次々に書いたのは福沢の方であった。
明治6(1873)年11月、二編刊行
明治6(1873)年12月、三編刊行
明治7(1874)年1月、四編刊行
明治7(1874)年1月、五編刊行
明治7(1874)年2月、六編刊行
明治7(1874)年3月、七編刊行
明治7(1874)年4月、八編刊行
明治7(1874)年5月、九編刊行
明治7(1874)年6月、十編刊行
明治7(1874)年7月、十一編刊行
実際、明治7(1874)年4月発行の『明六雑誌』第2号の論説は、加藤弘之の「福澤先生の論に答う」、森有礼の「学者職分論の評」、津田真道の「学者職分論の評」、西周の「非学者職分論」であって、すべてがその年の1月に発表された福沢諭吉の『学問のすゝめ』四編、「学者職分論」への反論となっている。福澤が明六雑誌に寄稿したのは、明治7(1874)年12月(征台和議の演説)、明治8(1875)年1月(内地旅行西先生の説を駁す)、明治8(1875)年3月(男女同数論)のみであり、一連の福澤の行動からその意図を読み取るのはたやすいことに思われる。
福澤の狙いは明六社を上手に解散させることにあった。いくら強調してもし過ぎることがないのは、福澤のリアリストとしての透徹した目である。たとえ日本がアメリカの植民地にならなかったとしても、国語にとっての危機の導火線は身近なところにあったのである。実際、明治18 (1885) 年に第一次伊藤内閣において森有礼が初代文部大臣に就任したことを考えれば、水村美苗の『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』に描かれる世界が150年前に生起する可能性はゼロではなかった。国語に関して森有礼を暴走させないことは、福澤にとって最重要課題であったろう。そして、福澤は明六社の解散を1年半で成し遂げたのである。
援護射撃をしたのは福地桜痴であった。これについては確かな証を後述する。だから、「明治期における『社会』概念」の執筆者が次のように書くとき、「福地が森有礼の構想した『ソサエチー』を『高上なる社会(ソサイチー)』に変形して我が物としたのである」との指摘は正しい。
安宅の投稿に見られるように、投稿家のサービス精神はときにあえて挑発的で攻撃的な言辞を弄することで、議論を討議的な見世物に仕立て上げようとする傾向があった。だが、凶暴で無作法な文章の増加と共に、新聞メディアが無法地帯化して存在価値を自ら毀損してしまうことへの懸念から、投書家に自重を求め、発話のルールの制定の必要を訴える言説も現れるようになった。自発的アソシエーションに比べると、より多くの人々に開かれた新聞メディアにおいては、人間関係実践の質を維持するのは困難だったのである。実際この時点で、新聞の言論を規制する法律は存在していなかった。福地桜痴はこのような状況のなかで、大蔵官僚から新聞界に転身してきた人物であった。福地は最初から新聞紙上の発話と言論のルールの制定者としてふるまう野心を抱いていた。この時個人攻撃批判と個人の名誉の保護がルールの重要な柱とされたのであり、それについてかたるために福地は、森有礼の構想した「ソサエチー」を「高上なる社会(ソサイチー)」に変形して我が物としたのである。 (253頁)
福地の野心と言論における個人の保護の重視については皆目知らないので、知っている事実を述べると、実は福地は江戸開城後の慶応4年閏4月(1868年5月)に江戸で『江湖新聞』を創刊し、明治新政府の怒りを買う持論を述べ、新聞は発禁処分となり逮捕されるという事件を起こしている。木戸孝允の取り成しにより、無罪放免となったが、この事件は明治時代初の言論弾圧事件であり、太政官布告による新聞取締りの契機となった。逆に言えば、福地はどの程度のことをやれば、政府が乗り出してくるかわかっていた。結局、福地の思い通りに事が運び、福澤は明六雑誌の停刊、明六社の活動停止を提案する。この部分について、「明治期における『社会』概念」の執筆者は次のように書いている。一部前記のものと重複するがもう一度引用する。
・・・・政治権力によって与えられるルールが自己のルールを超越する状況の到来は、自ら制定したルールによる自己統治の原理の崩壊にほかならないのであり、その上うな状況のなかで活動することは明六社「ソサェチー」の存在理由と完全に矛盾するということに、活動停止の提案者となった福沢諭吉はよく気づいていた。そしてそれに賛成した明六社員の過半数もまた、福沢のいわんとしたことを理解していたのである。
福沢の提案を読んだ福地は「社会の為めに喟然として浩嘆するを覚えざるなり(「覚えざるをえざるなり」の誤りか)(『東京日日新聞』一八七五年九月八日、傍点引用者)(「社会の為めに」に傍点)と慨嘆してみせたが、何をか言わんやであろう。(254頁)
執筆者は、「社会の為めに喟然として浩嘆するを覚えざるなり」を(「覚えざるをえざるなり」の誤りか)と書いているが、ここはそのまま正しく読まねばならない。福地は、「明六社の活動を停止するという福澤の提案を読んで、社会のために(仕方がないと)ため息をついて、ひどく慨嘆したりはしない」と明確に述べているのである。この言葉が新聞の読者にどのように伝わったのかわからないが、少なくとも福沢諭吉は福地が社説の中で送っていた符丁に気づいたであろうし、新聞紙上での一連の騒動がもたらす結果について、福地の応答を過たず受け取ったはずである。実際、社会のためにやむを得ない決断であったのだ。ここで福地が「社会の為めに」という社会は、「高上なる社会」という時の社会とは違う使い方であり、言わば〝consumer society″(消費社会)のような、かなり広い一般的な人間集団が作る共同体を指している。それは、明治16(1883)年に板垣退助が帰朝演説において用いた「生活社会」や「政治社会」という用法に近いだろう。
これまで述べてきた経過状況に身をおいて、改めて、「高上なる社会」についての執筆者の分析に関する次の箇所を読んでみよう。
このテクストはこれまで初出としてしばしば辞書や研究に引用されながら、分析されることのなかったものであるが、確かにこのテクストだけからでは「高上なる社会」の意味は不明瞭な印象しか与えないだろう。福地の使い方は、明らかに唐突であり不親切である。しかし、たとえ柳父が考えるようにこの言葉の意味が空疎なものであったとしても、発話者にはこの言葉を使う動機があったことは否定できない。そこで私たちは言葉の使い方そのものへと、この言葉がこの時この状況でどんな現実を語るために使われたのかという点に注意を向ける必要がある。なぜなら「社会」という言葉はこののち定着して今にいたるが、初めて使われた段階ではごく不安定な存在だった。誰にとっても見慣れないこの言葉が、それでも何かを伝えることができたのだとしたら(そしてそれができたからこそ、この言葉は生き延びることになったのだが)、そのこと自体が奇跡的なことだったといえるからだ。
重要なのは、この言葉自体が単独でなにかの意味をもつことではなく、この言葉でなにごとかを了解し合う関係や、その上うな関係を支える制度がそこにすでにできあがっていた、もしくはまさにできあがろうとしていたという点なのである。あるいはこの言葉の発話自体が、その上うな関係や制度を作り上げることをなんらかのかたちで促すものであったかもしれない。そして結局のところ、言葉がどの上うな意味をもつかを規定するのは、すでにできあがっていたり、あるいはまさにここで作られようとしている了解の関係と制度が織りなすコンテクストなのである。 (248頁~249頁)
福地桜痴、福沢諭吉、森有礼(と明六社)という三者の来し方とその関係を知った今となっては、上記の箇所はまことに五臓六腑に染み渡る思いではないだろうか。一言付け加えるなら、柳父章の考えとは違い、造語による新語であっても「それが母国語である限り」、その言葉の意味が空疎だということはあり得ず、その言語の使い手は瞬時にその意味を理解し得るということであろう。福澤は「社会」を「社中会同」として瞬時に理解したのみならず、「『社中会同』略して『社会』、うむ、簡潔でわかりやすい。なかなかよいではないか」と、その言葉を気に入ったのではないかと想像して、私は楽しくなってしまうのである。
さて、これまで「社会」という語が形成されるまでの道筋を、知識人の動きを中心に見てきたが、もはや「概念」についての考察は私の力の及ぶところではない。その後、「社会」という語が辿った変遷に関連する外国事情をざっと見てこの小論を終わることにしよう。欧米を視察した人々が口をそろえて劇場における「社交」の重要性を強調するのは無理もない。英国における演劇は、例えばシェークスピアの所属した劇団は、そもそも女王陛下の興行師たちとして始まり、エリザベス女王の晩年、グローブ座を建てて大衆相手に興行するようになってもそれは変わらなかったし、女王の死後は、〝King’s Men″としてジェームズ一世からお仕着せを頂いている間柄であった。また、ナポレオン戦争の戦後処理を話し合うウィーン会議(1814年9月1日~1815年6月9日)においては連夜の舞踏会が催され、「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られた話は有名である。政治と社交は一体であり、それが西洋の作法であった。〝high society ″(上流社会)という言葉があるが、〝society ″はそれ一語で社交界の意味があることを忘れてはならない。
ドイツにおいてフェルディナント・テンニースが〝Gemeinschaft und Gesellschaft″(ゲマインシャフトとゲゼルシャフト)を著したのは1887年であり、「社会」の概念は諸外国においても重層的なものであることが時代を追って示されてゆく。明治15(1882)年に中江兆民がジャン=ジャック・ルソーの〝Du Contrat Social ou Principes du droit politique″(社会契約について、もしくは政治的権利の原理、1762年)いわゆる『社会契約論』の二編六章までを漢訳し、解説をつけて『民約訳解』として発表した時、フランス語の〝Social″を「民」と訳しているのは誠に適切であるといわなければならない。この書は漢語で書かれなければあれほど簡潔で深く豊かな文体は生まれなかったであろうし、またそれほど著名になることはなかったであろう。この書が自由民権運動に与えた影響は大きく、ここでも言語に対する福澤の深い洞察がいかに遠くまで及んでいたかに驚嘆せざるを得ない。
明治期における「社会」の概念を扱っている間に、明治期の「国語」問題に着地してしまいました。薩摩弁がわからず大山巖と英語で話していたという山川捨松の例に見られるように、同じ日本という国にあってもそれぞれのお国訛りでは意思疎通が難しい現状であった明治期には、外国語の流入を通して自分の国の言語に初めて目を向ける機会になったに違いありません。基礎研究のしっかりした論考からは多くの示唆が得られ、次々と新たなアイディアが浮かびました。たぶん傍から見ればお笑いでしょうが、私が抱いていた疑問は氷解し、自分の中では話が完結したので、その由来をらせん状に内側へ切り込むような仕方を目指して書いてみました。明治という時代は日本が諸外国と初めて直接大規模に接触し、圧倒的な影響を受けながらも、巨視的に見れば珍しく賢明に振舞った時代だと思います。現代というこの困難な時代に、たとえ一人でも福沢諭吉のような骨のある真正のリアリストがいてくれたらと思わずにいられません。
ここで、「明治期における『社会』概念」の執筆者の記述を通して、明治8(1875)年1月14日『東京日日新聞』の福地の社説に戻る。
弁駁の論文は新聞紙上に多しと雖ども、昨日(一月十三日)日新真事誌に登録したる、文運開明昌代の幸民、安宅矯君が我新聞に記載したる本月六日の論説を批正せし論より期望を属したるはなし。吾曹はその全局の趣旨と全文の遺辞とを以て、此安宅君は必ず完全の教育を受け、高上なる社会(ソサイチー)(ソサイチー)に在る君子たるを卜するを得るに付き、吾曹が浅見寡識を顧みず、再び鄙意を述べ、謹んで教えを請わんと欲す。
・・・・・(中略)・…
唯冒頭の一節の如きは蓋し打過他的の議(ペルソナルアタック)ペルソナルアタック)に係るより、吾曹は苟も世に公にするの新聞に於て、身上の実告(ペルソナルプロテスト)(ペルソナルプロテスト)を成す可き自由を有せず。仮令い(たとい)此自由を許さるるも、吾曹は勉強と経歴との援助を以て、漸く高上なる社会に加わらん事を祈望するに依り、昔日の粗鄙なる昞習を逐うて実告を為すを愧じ、又之を為すに忍びず。(248頁~249頁)
ここに2度出てくる「高上なる社会(ソサイチー)、および打過他的(ペルソナルアタック)、身上の実告(ペルソナルプロテスト)等のカタカナ語の乱れ打ちは、執筆者の言うように、確かに符丁であり目配せであった。しかし、それは誰に対するシグナルなのであろうか。
福沢諭吉によって『學問のすゝめ』(初編)が出版されたのは明治5(1872)年2月である。この書は元来、福澤が郷里中津に設立した「中津市学校」という洋学校のために書かれたものだったが、中津だけに留めておくのはあまりにももったいないとの声が挙がり、一般の読者に向けて全国的に出版したところ、空前絶後の大ベストセラーになったものである。従って印刷は慶應義塾の三田印刷工場において行われた。この時点では『学問のすゝめ 全』として1冊で完結したものだったが、その後に2編・3編…と続々と刊行されて、最終的には明治9(1876)年11月に17編まで出版された。明治7(1874)年1月1日に書かれた『学問のすすめ』の五編を見てみよう。福澤は次のように述べている。(ただし、傍点は筆者)
五編
『学問のすすめ』はもと民間の読本または小学の教授本に供えたるものなれば、初編より二編三編までも勉めて俗語を用い文章を読みやすくするを趣意となしたりしが、四編に至り少しく文の体を改めてあるいはむずかしき文字を用いたるところもあり。またこの五編も明治七年一月一日、社中会同の時に述べたる詞を文章に記したるものなれば、その文の体裁も四編に異ならずしてあるいは解げし難きの恐れなきにあらず。畢竟四、五の二編は学者を相手にして論を立てしものなるゆえ、この次第に及びたるなり。
世の学者はおおむねみな腰ぬけにてその気力は不慥ふたしかなれども、文字を見る眼はなかなか慥かにして、いかなる難文にても困る者なきゆえ、この二冊にも遠慮なく文章をむずかしく書きその意味もおのずから高上になりて、これがためもと民間の読本たるべき学問のすすめの趣意を失いしは、初学の輩はいに対してはなはだ気の毒なれども、六編より後はまたもとの体裁に復かえり、もっぱら解しやすきを主として初学の便利に供しさらに難文を用いることなかるべきがゆえに、看官この二冊をもって全部の難易を評するなかれ。
明治七年一月一日の詞
(「高上になりて」に傍点)
「明治七年一月一日、社中会同の時に述べたる詞」とはっきりかかれているように、すなわちこれは慶應義塾の新年会での挨拶なのである。従って、「社中会同」とは慶應義塾の教員の集まりを指すが、学者相手の話ゆえ、四編同様五編も「遠慮なく文章をむずかしく書」くと、福澤は宣言しているのである。その直後に「その意味もおのずから高上になり」と書かれている。
福地桜痴はジャーナリストであり、福澤の筆が生み出す『学問のすゝめ』は続編が刊行されるごとに当然目を通していたことだろう。「社中会同」は縮めれば「社会」、「高上なる社会」は確かに学者、知識人への符丁であろうが、誰より福澤本人への目配せであったろう。もう一つ礼を挙げよう。『学校の説』は明治3(1870)年三月に書かれているが、慶応義塾のための敷地として三田の島原藩邸を借り受けて、その建物の払い下げに成功したのは11月であるから、この文はそれ以前にもう書かれていたことになる。全編が実に興味深いが、学問における使用言語についての福澤の持論が述べられている部分を引用する。(傍点は筆者)
(一名、慶応義塾学校の説)
・…前略・・・・
一、 学問は、高上にして風韻あらんより、手近くして博きを貴しとす。かつまた天下の人、ことごとく文才を抱くべきにもあらざれば、辺境の土民、職業忙わしき人、晩学の男女等へ、にわかに横文字を読ませんとするは無理なり。これらへはまず翻訳書を教え、地理・歴史・窮理学・脩心学・経済学・法律学(これらの順序をおい原書を翻訳せざるべからず。我が輩の任なり)等を知らしむべし。
・・・・中略・・・・
洋学の順序
一、幼年の者へは漢学を先にして、後に洋学に入らしむるの説もあれども、漢字を知るはさまで難事にあらず、よく順序を定めて、四書五経などむつかしき書は、字を知りて後に学ぶべきなり。少年のとき四書五経の素読に費ついやす年月はおびただしきものなり。字を知りし上にてこれを読めば、独見どくけんにて一月の間に読み終るべし。とかく読書の要は、易きを先にし難きを後にするにあり。
一、漢洋兼学は難かたきことなれば一方にしたがうべきなど、弱き説を唱うるものなきにあらず。されども人の知識は勉むるにしたがい際限なきものなれば、わずかに二、三ヶ国の語を学ぶとて何ぞこれを恐るるに足らん。洋学も勉強すべし、漢学も勉強すべし、同時に学んでともに上達すべし。西洋の学者は、必ずラテン、ギリーキの古語を学び、そのほか五、六ヶ国の語に通ずる者少なからず。東洋諸国に来たる欧羅巴人は、支那・日本の語にも通じて、著述などするものあり。西洋人に限り天稟文才を備うるとの理もあるまじ。ただ学問の狭博はその人の勉・不勉にあるのみ。
一、翻訳書を読むものは、まず仮名附の訳書を先にし、追々漢文の訳本を読むべし。字を知るのみならず、事柄もわかり、原書を読むの助けとなりて、大いに便利なり。国内一般に文化を及ぼすは、訳書にあらざればかなわぬことなり。原書のみにて人を導かんとするも、少年の者は格別なれども、晩学生には不都合なり。
二十四、五歳以上にて漢書をよく読むという人、洋学に入る者あれども、智恵ばかり先ばしりて、乙に私の議論を貯えて心事多きゆえ、横文字の苦学に堪えず、一年を経ずして、ついに自から廃し、またもとの漢学に帰る者ままこれあり。この輩はもと文才ある人なれば、翻訳書を読み、ほぼ洋学の味を知りて後に原書を学ぶようにせば、苦学をも忍びて速やかに上達するはずなれども、ひっきょう読むべき翻訳書乏しきゆえにこの弊を生ずるなり。漢学生の罪にあらず。ゆえに方今、我が邦にて人民教育の手引たる原書を翻訳するは洋学家の任なり。
右は我が邦今日の有様にて洋学を開く次第を述べたるのみ。年月を経るにしたがい学風の進歩することあらば、その体裁もまた改まるべし。
明治三年庚午三月
慶応義塾同社 誌しるす
(「学問は高上にして」に傍点)
初っ端から「学問は、高上にして」と始まっており、福澤にとって「高上なる」は「学問」の枕詞のようなものであると知れるが、このように「高上」とは福澤が学問について用いた言葉であるとすれば、新聞紙上における福地の言葉遊びが福澤に向けたものなのは明白である。一方、カタカナ語の多用で思い浮かぶのは英語かぶれの森有礼の顔である。森は明治4(1871)年には国語外国語化論を提唱しているから、前述の如く「国内一般に文化を及ぼすは、訳書にあらざればかなわぬことなり」と明確に述べている福澤とは、外国語の取り扱いについては真っ向から対立していたのである。明治7年の4月3日に発刊された『明六雑誌』の第一号の論説名は、西周の「洋字を以て国語を書するの論」と西村茂樹の「開化の度に因て改文字を発すべきの論」であった。なんと森有礼に近いローマ字表記論が創刊号の論説なのである。福澤にとっては決して認めることのできない宣戦布告と言ってよい。
いや、明六社の設立および明六雑誌の創刊を迎え撃つかのように、『学問のすゝめ』の続編を次々に書いたのは福沢の方であった。
明治6(1873)年11月、二編刊行
明治6(1873)年12月、三編刊行
明治7(1874)年1月、四編刊行
明治7(1874)年1月、五編刊行
明治7(1874)年2月、六編刊行
明治7(1874)年3月、七編刊行
明治7(1874)年4月、八編刊行
明治7(1874)年5月、九編刊行
明治7(1874)年6月、十編刊行
明治7(1874)年7月、十一編刊行
実際、明治7(1874)年4月発行の『明六雑誌』第2号の論説は、加藤弘之の「福澤先生の論に答う」、森有礼の「学者職分論の評」、津田真道の「学者職分論の評」、西周の「非学者職分論」であって、すべてがその年の1月に発表された福沢諭吉の『学問のすゝめ』四編、「学者職分論」への反論となっている。福澤が明六雑誌に寄稿したのは、明治7(1874)年12月(征台和議の演説)、明治8(1875)年1月(内地旅行西先生の説を駁す)、明治8(1875)年3月(男女同数論)のみであり、一連の福澤の行動からその意図を読み取るのはたやすいことに思われる。
福澤の狙いは明六社を上手に解散させることにあった。いくら強調してもし過ぎることがないのは、福澤のリアリストとしての透徹した目である。たとえ日本がアメリカの植民地にならなかったとしても、国語にとっての危機の導火線は身近なところにあったのである。実際、明治18 (1885) 年に第一次伊藤内閣において森有礼が初代文部大臣に就任したことを考えれば、水村美苗の『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』に描かれる世界が150年前に生起する可能性はゼロではなかった。国語に関して森有礼を暴走させないことは、福澤にとって最重要課題であったろう。そして、福澤は明六社の解散を1年半で成し遂げたのである。
援護射撃をしたのは福地桜痴であった。これについては確かな証を後述する。だから、「明治期における『社会』概念」の執筆者が次のように書くとき、「福地が森有礼の構想した『ソサエチー』を『高上なる社会(ソサイチー)』に変形して我が物としたのである」との指摘は正しい。
安宅の投稿に見られるように、投稿家のサービス精神はときにあえて挑発的で攻撃的な言辞を弄することで、議論を討議的な見世物に仕立て上げようとする傾向があった。だが、凶暴で無作法な文章の増加と共に、新聞メディアが無法地帯化して存在価値を自ら毀損してしまうことへの懸念から、投書家に自重を求め、発話のルールの制定の必要を訴える言説も現れるようになった。自発的アソシエーションに比べると、より多くの人々に開かれた新聞メディアにおいては、人間関係実践の質を維持するのは困難だったのである。実際この時点で、新聞の言論を規制する法律は存在していなかった。福地桜痴はこのような状況のなかで、大蔵官僚から新聞界に転身してきた人物であった。福地は最初から新聞紙上の発話と言論のルールの制定者としてふるまう野心を抱いていた。この時個人攻撃批判と個人の名誉の保護がルールの重要な柱とされたのであり、それについてかたるために福地は、森有礼の構想した「ソサエチー」を「高上なる社会(ソサイチー)」に変形して我が物としたのである。 (253頁)
福地の野心と言論における個人の保護の重視については皆目知らないので、知っている事実を述べると、実は福地は江戸開城後の慶応4年閏4月(1868年5月)に江戸で『江湖新聞』を創刊し、明治新政府の怒りを買う持論を述べ、新聞は発禁処分となり逮捕されるという事件を起こしている。木戸孝允の取り成しにより、無罪放免となったが、この事件は明治時代初の言論弾圧事件であり、太政官布告による新聞取締りの契機となった。逆に言えば、福地はどの程度のことをやれば、政府が乗り出してくるかわかっていた。結局、福地の思い通りに事が運び、福澤は明六雑誌の停刊、明六社の活動停止を提案する。この部分について、「明治期における『社会』概念」の執筆者は次のように書いている。一部前記のものと重複するがもう一度引用する。
・・・・政治権力によって与えられるルールが自己のルールを超越する状況の到来は、自ら制定したルールによる自己統治の原理の崩壊にほかならないのであり、その上うな状況のなかで活動することは明六社「ソサェチー」の存在理由と完全に矛盾するということに、活動停止の提案者となった福沢諭吉はよく気づいていた。そしてそれに賛成した明六社員の過半数もまた、福沢のいわんとしたことを理解していたのである。
福沢の提案を読んだ福地は「社会の為めに喟然として浩嘆するを覚えざるなり(「覚えざるをえざるなり」の誤りか)(『東京日日新聞』一八七五年九月八日、傍点引用者)(「社会の為めに」に傍点)と慨嘆してみせたが、何をか言わんやであろう。(254頁)
執筆者は、「社会の為めに喟然として浩嘆するを覚えざるなり」を(「覚えざるをえざるなり」の誤りか)と書いているが、ここはそのまま正しく読まねばならない。福地は、「明六社の活動を停止するという福澤の提案を読んで、社会のために(仕方がないと)ため息をついて、ひどく慨嘆したりはしない」と明確に述べているのである。この言葉が新聞の読者にどのように伝わったのかわからないが、少なくとも福沢諭吉は福地が社説の中で送っていた符丁に気づいたであろうし、新聞紙上での一連の騒動がもたらす結果について、福地の応答を過たず受け取ったはずである。実際、社会のためにやむを得ない決断であったのだ。ここで福地が「社会の為めに」という社会は、「高上なる社会」という時の社会とは違う使い方であり、言わば〝consumer society″(消費社会)のような、かなり広い一般的な人間集団が作る共同体を指している。それは、明治16(1883)年に板垣退助が帰朝演説において用いた「生活社会」や「政治社会」という用法に近いだろう。
これまで述べてきた経過状況に身をおいて、改めて、「高上なる社会」についての執筆者の分析に関する次の箇所を読んでみよう。
このテクストはこれまで初出としてしばしば辞書や研究に引用されながら、分析されることのなかったものであるが、確かにこのテクストだけからでは「高上なる社会」の意味は不明瞭な印象しか与えないだろう。福地の使い方は、明らかに唐突であり不親切である。しかし、たとえ柳父が考えるようにこの言葉の意味が空疎なものであったとしても、発話者にはこの言葉を使う動機があったことは否定できない。そこで私たちは言葉の使い方そのものへと、この言葉がこの時この状況でどんな現実を語るために使われたのかという点に注意を向ける必要がある。なぜなら「社会」という言葉はこののち定着して今にいたるが、初めて使われた段階ではごく不安定な存在だった。誰にとっても見慣れないこの言葉が、それでも何かを伝えることができたのだとしたら(そしてそれができたからこそ、この言葉は生き延びることになったのだが)、そのこと自体が奇跡的なことだったといえるからだ。
重要なのは、この言葉自体が単独でなにかの意味をもつことではなく、この言葉でなにごとかを了解し合う関係や、その上うな関係を支える制度がそこにすでにできあがっていた、もしくはまさにできあがろうとしていたという点なのである。あるいはこの言葉の発話自体が、その上うな関係や制度を作り上げることをなんらかのかたちで促すものであったかもしれない。そして結局のところ、言葉がどの上うな意味をもつかを規定するのは、すでにできあがっていたり、あるいはまさにここで作られようとしている了解の関係と制度が織りなすコンテクストなのである。 (248頁~249頁)
福地桜痴、福沢諭吉、森有礼(と明六社)という三者の来し方とその関係を知った今となっては、上記の箇所はまことに五臓六腑に染み渡る思いではないだろうか。一言付け加えるなら、柳父章の考えとは違い、造語による新語であっても「それが母国語である限り」、その言葉の意味が空疎だということはあり得ず、その言語の使い手は瞬時にその意味を理解し得るということであろう。福澤は「社会」を「社中会同」として瞬時に理解したのみならず、「『社中会同』略して『社会』、うむ、簡潔でわかりやすい。なかなかよいではないか」と、その言葉を気に入ったのではないかと想像して、私は楽しくなってしまうのである。
さて、これまで「社会」という語が形成されるまでの道筋を、知識人の動きを中心に見てきたが、もはや「概念」についての考察は私の力の及ぶところではない。その後、「社会」という語が辿った変遷に関連する外国事情をざっと見てこの小論を終わることにしよう。欧米を視察した人々が口をそろえて劇場における「社交」の重要性を強調するのは無理もない。英国における演劇は、例えばシェークスピアの所属した劇団は、そもそも女王陛下の興行師たちとして始まり、エリザベス女王の晩年、グローブ座を建てて大衆相手に興行するようになってもそれは変わらなかったし、女王の死後は、〝King’s Men″としてジェームズ一世からお仕着せを頂いている間柄であった。また、ナポレオン戦争の戦後処理を話し合うウィーン会議(1814年9月1日~1815年6月9日)においては連夜の舞踏会が催され、「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られた話は有名である。政治と社交は一体であり、それが西洋の作法であった。〝high society ″(上流社会)という言葉があるが、〝society ″はそれ一語で社交界の意味があることを忘れてはならない。
ドイツにおいてフェルディナント・テンニースが〝Gemeinschaft und Gesellschaft″(ゲマインシャフトとゲゼルシャフト)を著したのは1887年であり、「社会」の概念は諸外国においても重層的なものであることが時代を追って示されてゆく。明治15(1882)年に中江兆民がジャン=ジャック・ルソーの〝Du Contrat Social ou Principes du droit politique″(社会契約について、もしくは政治的権利の原理、1762年)いわゆる『社会契約論』の二編六章までを漢訳し、解説をつけて『民約訳解』として発表した時、フランス語の〝Social″を「民」と訳しているのは誠に適切であるといわなければならない。この書は漢語で書かれなければあれほど簡潔で深く豊かな文体は生まれなかったであろうし、またそれほど著名になることはなかったであろう。この書が自由民権運動に与えた影響は大きく、ここでも言語に対する福澤の深い洞察がいかに遠くまで及んでいたかに驚嘆せざるを得ない。
明治期における「社会」の概念を扱っている間に、明治期の「国語」問題に着地してしまいました。薩摩弁がわからず大山巖と英語で話していたという山川捨松の例に見られるように、同じ日本という国にあってもそれぞれのお国訛りでは意思疎通が難しい現状であった明治期には、外国語の流入を通して自分の国の言語に初めて目を向ける機会になったに違いありません。基礎研究のしっかりした論考からは多くの示唆が得られ、次々と新たなアイディアが浮かびました。たぶん傍から見ればお笑いでしょうが、私が抱いていた疑問は氷解し、自分の中では話が完結したので、その由来をらせん状に内側へ切り込むような仕方を目指して書いてみました。明治という時代は日本が諸外国と初めて直接大規模に接触し、圧倒的な影響を受けながらも、巨視的に見れば珍しく賢明に振舞った時代だと思います。現代というこの困難な時代に、たとえ一人でも福沢諭吉のような骨のある真正のリアリストがいてくれたらと思わずにいられません。
2019年1月22日火曜日
「明治期における『社会』概念」を読んで(その2)
明六社の会員は、森有礼、西村茂樹、津田真道、西周、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪、福澤諭吉、杉亨二、箕作麟祥らであり、定例演説会における個別テーマについての意見交換を基に筆記したものを発表するというスタイルが用いられた。明六雑誌は幅広く多くの官吏や学生、旧士族等の知識人に読まれただけでなく、新聞にも内容が転載されたため大きな影響力をもった。学術雑誌と言う体裁であったから政府の統制は受けなかったものの、欧米の諸制度や思想を紹介して、それを文明国基準として日本の制度や考え方に批判を加えることもあるとすれば、容易に自由民権運動の理論的正当性の根拠ともなり得た。明治8(1875)年6月の太政官布告、讒謗律・新聞紙条例の制定が直接的に関係したかどうかは定かでないが、結局明六雑誌の発行はこの年の9月をもって43号で停刊となり、明六社は事実上解散となった。解散の理由について、「明治期における『社会』概念」の執筆者はこのような提起をしている。
これについては従来、明六社員には多くの官僚が含まれていたためにこれらの条例が活動に打撃を与えたという外部要因主導説と、そもそもすでに明六社は理念を失っていた/自ずと消滅すべき運命にあったところで条例が決定打となったという内部要因主導説が唱えられてきたが、どちらもあまり正鵠を射ていない。「ソサエチー」から「社会」への移行のなかで、中心化される人間関係実践の原理が〈対等性と差異の尊重・社交・自己統治〉から〈人格権の保護〉に移動していたのである。政治権力によって与えられるルールが自己のルールを超越する状況の到来は、自ら制定したルールによる自己統治の原理の崩壊にほかならないのであり、そのような状況のなかで活動することは明六社「ソサエチー」の存在理由と完全に矛盾するということに、活動停止の提案者となった福澤諭吉はよく気づいていた。そしてそれに賛成した明六社員の過半数もまた、福澤のいわんとしたことを理解していたのである。 (254頁)
ここで「政治権力によって与えられるルールが自己のルールを超越する状況の到来」と述べられているのは讒謗律・新聞紙条例の制定を指すが、それが明六社設立の理念に関わっていたかどうかとは別の要因で、明六社は活動停止し解散となったのではないかと私には思われる。その理由を述べよう。福澤諭吉は森有礼より一回りも年長であるが、明六社の代表を受けることなく、明六雑誌にも論説を3本しか寄せていない。(津田真道は29本、西周は25本、森有礼、西村茂樹、中村正直が11本である。)しかし、その後明治12(1879)年1月に、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図る目的で設置された政府機関、東京学士会院において福澤は初代会長を務めている。福澤自身は、学士会院が文部省や明治政府に寄りかかることを嫌い、明治13(1880)年脱退することになるのだが、東京学士会院はやがて帝国学士院を経て、日本学士院へと至る。
私が福澤諭吉を希代のリアリストと認め、そのヴィジョンの射程が極めて遠いことに驚いたのは『痩我慢の記』を読んでからである。これは福澤が旧幕臣でありながら明治政府に出仕し高い地位に就いていた勝海舟と榎本武揚を非難して二人に送った書簡である。福澤がそれを送ったのはまさしく彼らを傑出した人物と認めていたからであり、国家存亡の危急の時こそ、傑物の身の振り方は試されると福澤は二人に自分の主張を突き付けている。。そしてさらに「痩我慢」を忘れた二人に向かって次のように言い放つ。
「我日本国民に固有する痩我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を免れしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。」
150年後の現在まさに、世の中は福澤が予見した通りになっている。本題に戻ろう。その福澤がわずか1年半で終りを迎える明六社の末路が予見できなかったはずがない。〝society″に対する自らの訳語「人間(じんかん)交際」をあっさり捨てて「社会」に乗り換えたわけも考え合わせると、導かれる結論は一つしかないように思われる。福澤が望んだのは、執筆者によって書かれた文中にあるように、「ソサェチー」から「社会」への移行、ただそれのみである。即ちそれは、英語(カタカナ語あるいはローマ字表記を含む)から国語への流れを確定することであった。
森有礼と言う人は、私にはうまく理解できないのであるが、優れた英語の使い手で、ほとんどそれを唯一の武器にしてキャリアを形成していった人のように見える。彼は、すでに明治4(1871)年には英語の国語化を提唱しており(国語外国語化論)、明治5(1872)年にはイェール大学の言語学教授のウィリアム・ドワイト・ホイットニー宛てに「不規則動詞を規則化して簡略にした英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送っているほどである。その急進的な考えは当時の大衆の感覚とは乖離したものがあり、「明六の幽霊(有礼)」などと皮肉られてもいた。要するに何をするかわからない人物であった。これが川柳的笑いで済んでいるうちは良いが、森有礼が教育にも大いに関心をもっていたことは初期の役職からも明らかであるから、まかり間違ってそのような学校制度を提唱し、実行しないとも限らない。さらにこの時期、日本が学んだ相手先の外国は英語圏だけではなく、フランス語圏やドイツ語圏、ロシア語圏ほか、多くの国々であり、そこから外国人を招いたり、またそこへ留学生を送ったりもしていたのである。もし、外国語が国語に採用されるようなことがあれば、国内で言語戦争が起こるのは必定である。いや、もうその兆候を福澤は見て取っていたに違いない。〝society″一つにしても、ドイツ語で「社会」は〝Gesellschaft″(ゲゼルシャフト)であるから、「ソサエチ―」で済ますわけにはいかない。
福澤自身が若いころ緒方洪庵の適塾で蘭語を、それこそ昼夜の区別なく、一心不乱に学んだことは『福翁自伝』に詳しい。その後、英語を学ぶことになるのだが、それは英語が将来のキャリア形成に役に立つからではない。そもそも蘭語がいくらできても、江戸と違って大阪では幕府や諸藩に雇われるということはなかった。それにもかかわらず激しく蘭語を学んでいた有様を次のように述べている。
「それゆえ緒方の書生が幾年勉強して何ほどエライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めるということに思いも寄らぬので、しからば何のために苦学するかといえば、一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。名を求めるどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるばかりで、既に已に焼けに成っている。ただ昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がっているようなもので、実に訳のわからぬ身の有様とは申しながら、一方を進めて当時の書生の心の底を叩いてみれば、おのずから楽しみがある。これを一言すれば-西洋日進の書を望むことは日本国中の人に出来ないことだ、自分たちの仲間に限って斯様なことが出来る。貧乏をしていても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位で、ただ六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽という境遇であったと思われる。」
これは一度でも本気で外国語に向き合ったことのある人なら、「よくぞ言った」と膝を打つ言葉であろう。どの言語であろうと、学ぶこと自体が苦しくも面白く、知れば知るほどその言語が奏でる総体の完全な美しさに魅了されてしまうのである。私もこの箇所で、ついふらふらと文学部の扉を開けて足を踏み入れてしまった十代の頃を思い出したほどだ。しかし、皆が皆そんな暢気な気持ちで語学を修めるわけではない。外国語をキャリアの階梯を上る手段と見なした者ももちろんいるであろう(今現在はその方が多数派であることを、私は深く憂慮している)。明治14(1881)年には森鷗外の義弟、小金井良精がベルリンへ留学をしているが、彼に先んじてドイツに送られていた三人の留学生は、「いずれもドイツ人の教授が感嘆するほどの成績を収めたが、一人は体調を崩して学業半ばで帰国、残る二人は卒業はしたが数年を出ずして早世した」という有様で、これは母語でない言語での学業がどれほど彼らの負担となっていたかを示す出来事と言ってよい。語学の学習は命を削るほどのものであることを、福澤は身をもって知っていたことだろう。そしてまた、まだまだ漢語の読み書きが知識人に当然のように要請される時代であってみれば、英語を公用語とするような発想は大混乱を招くものであることは火を見るより明らかである。福澤はそれだけは何としても避けようとしたに違いない。国内で意思疎通ができないような事態は悪夢であり、そのような無駄な時間もエネルギーも日本には到底ない時代であった。「日本語をこれまで通り堅持し、外国語は漢語による造語で切り抜ける」、それがリアリスト福澤の、言語をめぐる答えであった。
これについては従来、明六社員には多くの官僚が含まれていたためにこれらの条例が活動に打撃を与えたという外部要因主導説と、そもそもすでに明六社は理念を失っていた/自ずと消滅すべき運命にあったところで条例が決定打となったという内部要因主導説が唱えられてきたが、どちらもあまり正鵠を射ていない。「ソサエチー」から「社会」への移行のなかで、中心化される人間関係実践の原理が〈対等性と差異の尊重・社交・自己統治〉から〈人格権の保護〉に移動していたのである。政治権力によって与えられるルールが自己のルールを超越する状況の到来は、自ら制定したルールによる自己統治の原理の崩壊にほかならないのであり、そのような状況のなかで活動することは明六社「ソサエチー」の存在理由と完全に矛盾するということに、活動停止の提案者となった福澤諭吉はよく気づいていた。そしてそれに賛成した明六社員の過半数もまた、福澤のいわんとしたことを理解していたのである。 (254頁)
ここで「政治権力によって与えられるルールが自己のルールを超越する状況の到来」と述べられているのは讒謗律・新聞紙条例の制定を指すが、それが明六社設立の理念に関わっていたかどうかとは別の要因で、明六社は活動停止し解散となったのではないかと私には思われる。その理由を述べよう。福澤諭吉は森有礼より一回りも年長であるが、明六社の代表を受けることなく、明六雑誌にも論説を3本しか寄せていない。(津田真道は29本、西周は25本、森有礼、西村茂樹、中村正直が11本である。)しかし、その後明治12(1879)年1月に、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図る目的で設置された政府機関、東京学士会院において福澤は初代会長を務めている。福澤自身は、学士会院が文部省や明治政府に寄りかかることを嫌い、明治13(1880)年脱退することになるのだが、東京学士会院はやがて帝国学士院を経て、日本学士院へと至る。
私が福澤諭吉を希代のリアリストと認め、そのヴィジョンの射程が極めて遠いことに驚いたのは『痩我慢の記』を読んでからである。これは福澤が旧幕臣でありながら明治政府に出仕し高い地位に就いていた勝海舟と榎本武揚を非難して二人に送った書簡である。福澤がそれを送ったのはまさしく彼らを傑出した人物と認めていたからであり、国家存亡の危急の時こそ、傑物の身の振り方は試されると福澤は二人に自分の主張を突き付けている。。そしてさらに「痩我慢」を忘れた二人に向かって次のように言い放つ。
「我日本国民に固有する痩我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を免れしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。」
150年後の現在まさに、世の中は福澤が予見した通りになっている。本題に戻ろう。その福澤がわずか1年半で終りを迎える明六社の末路が予見できなかったはずがない。〝society″に対する自らの訳語「人間(じんかん)交際」をあっさり捨てて「社会」に乗り換えたわけも考え合わせると、導かれる結論は一つしかないように思われる。福澤が望んだのは、執筆者によって書かれた文中にあるように、「ソサェチー」から「社会」への移行、ただそれのみである。即ちそれは、英語(カタカナ語あるいはローマ字表記を含む)から国語への流れを確定することであった。
森有礼と言う人は、私にはうまく理解できないのであるが、優れた英語の使い手で、ほとんどそれを唯一の武器にしてキャリアを形成していった人のように見える。彼は、すでに明治4(1871)年には英語の国語化を提唱しており(国語外国語化論)、明治5(1872)年にはイェール大学の言語学教授のウィリアム・ドワイト・ホイットニー宛てに「不規則動詞を規則化して簡略にした英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送っているほどである。その急進的な考えは当時の大衆の感覚とは乖離したものがあり、「明六の幽霊(有礼)」などと皮肉られてもいた。要するに何をするかわからない人物であった。これが川柳的笑いで済んでいるうちは良いが、森有礼が教育にも大いに関心をもっていたことは初期の役職からも明らかであるから、まかり間違ってそのような学校制度を提唱し、実行しないとも限らない。さらにこの時期、日本が学んだ相手先の外国は英語圏だけではなく、フランス語圏やドイツ語圏、ロシア語圏ほか、多くの国々であり、そこから外国人を招いたり、またそこへ留学生を送ったりもしていたのである。もし、外国語が国語に採用されるようなことがあれば、国内で言語戦争が起こるのは必定である。いや、もうその兆候を福澤は見て取っていたに違いない。〝society″一つにしても、ドイツ語で「社会」は〝Gesellschaft″(ゲゼルシャフト)であるから、「ソサエチ―」で済ますわけにはいかない。
福澤自身が若いころ緒方洪庵の適塾で蘭語を、それこそ昼夜の区別なく、一心不乱に学んだことは『福翁自伝』に詳しい。その後、英語を学ぶことになるのだが、それは英語が将来のキャリア形成に役に立つからではない。そもそも蘭語がいくらできても、江戸と違って大阪では幕府や諸藩に雇われるということはなかった。それにもかかわらず激しく蘭語を学んでいた有様を次のように述べている。
「それゆえ緒方の書生が幾年勉強して何ほどエライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めるということに思いも寄らぬので、しからば何のために苦学するかといえば、一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。名を求めるどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるばかりで、既に已に焼けに成っている。ただ昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がっているようなもので、実に訳のわからぬ身の有様とは申しながら、一方を進めて当時の書生の心の底を叩いてみれば、おのずから楽しみがある。これを一言すれば-西洋日進の書を望むことは日本国中の人に出来ないことだ、自分たちの仲間に限って斯様なことが出来る。貧乏をしていても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位で、ただ六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽という境遇であったと思われる。」
これは一度でも本気で外国語に向き合ったことのある人なら、「よくぞ言った」と膝を打つ言葉であろう。どの言語であろうと、学ぶこと自体が苦しくも面白く、知れば知るほどその言語が奏でる総体の完全な美しさに魅了されてしまうのである。私もこの箇所で、ついふらふらと文学部の扉を開けて足を踏み入れてしまった十代の頃を思い出したほどだ。しかし、皆が皆そんな暢気な気持ちで語学を修めるわけではない。外国語をキャリアの階梯を上る手段と見なした者ももちろんいるであろう(今現在はその方が多数派であることを、私は深く憂慮している)。明治14(1881)年には森鷗外の義弟、小金井良精がベルリンへ留学をしているが、彼に先んじてドイツに送られていた三人の留学生は、「いずれもドイツ人の教授が感嘆するほどの成績を収めたが、一人は体調を崩して学業半ばで帰国、残る二人は卒業はしたが数年を出ずして早世した」という有様で、これは母語でない言語での学業がどれほど彼らの負担となっていたかを示す出来事と言ってよい。語学の学習は命を削るほどのものであることを、福澤は身をもって知っていたことだろう。そしてまた、まだまだ漢語の読み書きが知識人に当然のように要請される時代であってみれば、英語を公用語とするような発想は大混乱を招くものであることは火を見るより明らかである。福澤はそれだけは何としても避けようとしたに違いない。国内で意思疎通ができないような事態は悪夢であり、そのような無駄な時間もエネルギーも日本には到底ない時代であった。「日本語をこれまで通り堅持し、外国語は漢語による造語で切り抜ける」、それがリアリスト福澤の、言語をめぐる答えであった。
2019年1月20日日曜日
「明治期における『社会』概念」を読んで(その1)
『近代日本の思想をさぐる』という本の中で、「明治期における『社会』概念」の項目を読みました。この時代の新語、即ち欧米の事物を表す言葉の訳語はほとんど福澤諭吉か西周が造語したかのように思っていましたが、これはもちろん私の勉強不足で、ことはそんなに簡単ではありません。「社会」という語については、英語の〝society″を「社会」と訳した最初の例と認められているのは、東京日日新聞の主筆で社説を書いていた福地桜痴(福地源一郎)だということを初めて知りました。当時は読者を増やす狙いもあったようで読者とのやりとりが人気を呼んでおり、それが過熱してかなり過激な意見や名誉棄損に当たると思われる投書もあったようなのですが、福地桜痴が或る投稿者に対してカタカナ語満載の言葉を用いて応戦する中で、「高上なる社会(ソサイチ―)」(「社会」にソサイチーというルビが振られている)という言い方をしたのが最初とのことでした。
それまで〝society″は様々な訳語があてられており、例えば福澤諭吉は「人間(じんかん)交際」、西周・津田真道は「相生養之道」と訳していましたが、森有礼のようにカタカナで音声を写す以外には翻訳不能だという意見もありました。福澤諭吉が自分の翻訳語をあっさり捨てて「社会」という翻訳後に切り替えていったことに私は興味を引かれなお読み進めながら、三人の人物とその関係をもとに考えたことを書きます。(ここから常体)
ここで最も注視しなければならない人物は森有礼である。彼は薩摩の郷中教育が功を奏したのか、1865年に五代友厚らと英国に密航し(密航といってもこれは幕府から見てのことであって、薩摩藩の命を受けた留学生としての渡航である)、ロンドン大学で学んでいるが、ここで長州藩の井上馨、伊藤博文らと会っている。森有礼は語学の才能があったらしく、その時代切っての英語の使い手だったと思われる。それは、明治2 (1869)年の廃刀案否決で辞表提出による出入りはあったものの、ずっと明治政府の外国関係畑に身を置いており、なにより英語でいくつかの著作を残していることからもわかる。経歴をざっと見てみると
明治1 (1868) 年、徴士外国官権判事、学校取調兼勤
明治4(1871)年、1月に少弁務使として米国渡航
明治5 (1872)年、米国中弁務使、ついで米国代理公使に昇任
明治6 (1873) 年、 帰国後「明六社」結成,外務大丞に昇任
明治8 (1875) 年、 特命全公使として清国渡航。
明治10 (1877)年、 帰国後、外務卿代理に昇任。
明治11 (1878)年、 外務大輔に昇任。
明治12 (1879)年、 駐英公使として英国渡航。
明治17 (1884) 年、帰国後、参事院議官、文部省御用掛兼勤。
明治18 (1885) 年、第一次伊藤内閣初代文部大臣就任。「学政要領」立案。
明治19 (1886)年、 学位令、師範学校令、小学校令、中学校令、諸学校通則などを公布。
明治20 (1887)年、各地で学事巡視。伊勢神宮不敬事件が起こる。
こうしてみると、森有礼のキャリアは外国関係、教育関係のみであることがはっきりする。在野にいたのはほんの一時で、明治2(1869)年に辞表を出して、翌明治3(1870)年に興国寺跡で英学塾を開いていた森有礼が、その後すぐに少弁務使として米国に渡航していることには驚かされる。弁務使とはまさしくアメリカにおける岩倉使節団の世話役要員であり、わざわざそのために政府に呼び戻されたともみることができよう。それほど、森有礼の英語力は重宝され買われていたのである。(ちなみに、小説ではあるが古川薫の『桂小五郎(下)』には、森有礼についての興味深い記述がある:不平等条約改正のため、「一気に調印しようと使節団をけしかけたのは少弁務使の森有礼である。 …」、「少弁務使といえば、代理公使にあたる程度の身分だが、ひどく尊大に構えている。 …」、「少弁務使の森有礼は、使節団の世話をする立場にあり、岩倉大使のところにもよく顔を出していたが、そのうち次第に横柄な態度をとりはじめ、大使の許しも得ないでひとり旅行に出たりするようになった。 …」等の描写である。) そして、この使節団には後に大蔵官僚となる福地源一郎が一等書記官として加わっていた。福地が全面的に新聞界に転身するのはその後である。
森有礼は、明治6(1873)年9月の岩倉使節団帰国に合わせるかのように、7月に米国から帰国しているが、その後すぐ「明六社」の結成に動いている。この明六社という集まりは日本史を習った時にもどうにもよくわからなかたのであるが、「明治期における『社会』概念」の執筆者によると、次のように書かれている。少し長いが引用する。
これは十八~十九世紀の西洋のシヴィル・ソサェティーに特徴的だった自発的アソシエーション結成の再現の試みであり(シュテファン・ルートヴィヒ・ホフマン『市民結社と民主主義』)、学術的な交流を看板にしつつ、めざされたのは近代的で普遍的な人間関係実践のルールの構築とその実現であった。アソシエーションは「デモクラシーの学校(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』と呼ばれた通り、元来、政治的共同体の形成のための実験と教育の場であった。
具体的には相互の対等性と差異の尊重を原則とし、社交の絆によって結ばれながら、対話と議論をつうじた決定によって自己統治を目指す近代の普遍的人減関係実践は、明治初年の日本においてさまざまな面で焦眉の急として求められたものであった。とりわけ直近の過去である幕末に異論の封殺手段としてのテロリズムの横行を経験していたがゆえに、その必要は切実であった。「公儀輿論」に基づくことを原理原則として掲げた維新政権は、新しい統治システムのなかに最初から議事機構を組み込んでいた。明治政府首脳たちが本心ではそこまで乗り気でなかったにしても、実際に選出された議事員として議事行為に関わった人々はそこで、制定された議事運営を行うというまったく新しい自己統治の体験を積むことになった。そして彼らは苦い失敗や挫折を繰り返しつつ、新たな人間関係実践の編成の必要を痛感することになった。森有礼をはじめ明六社に参加した人々も、多くがこうした経験を背景にもっていたのである。明六社は自ら制定した「制規」にのっとって正規メンバーを少数に限定することで、人間関係実践の理念型を追及する実験の場であった。自らルールを制定してそれにのっとり自治的に運営される自発的アソシエーションとしての「ソサエチー」は議事機構経験者たちの媒介もあり、こののち各地で展開されていく。 (251頁~252頁)
ここで言われているソサェティーとは、現代の日本人が使っている〝society″(社会)とは性格を異にしている。現在我々になじみ深い「社会」の表現は、例えば、〝aging society″ 高齢化社会、〝consumer society″消費社会、〝open society″ 開かれた社会、〝plural society ″(複数民族から成る)複合社会、〝throwaway society″ 使い捨て社会などであって、国とか相当大きな共同体に使うものであるが、明六社が実験の場として想定している〝society″は、例えば、〝American cancer society″ 米国癌学会、〝benefit society″共済組合、〝choral society″ 合唱団、〝Fabian Society″ フェビアン協会、〝Humane Society″ 動物愛護協会、〝Linnean Society″ リンネ協会、 〝Royal Society″ 王立協会、〝temperance society ″禁酒の会、〝voluntary Euthanasia Society ″尊厳死協会などの、個々の主張や特質を持つ人々の集まり、あるいは学究的な集まりであって、今日では「社会」とは呼ばれず、「組合」、「協会」、「学会」等という語があてられている。確かにこういったものは明治期の日本には見当たらず、森有礼が試みに「相互の対等性と差異の尊重を原則とし、社交の絆によって結ばれながら、対話と議論をつうじた決定によって自己統治を目指す近代の普遍的人減関係実践」を行うための場として明六社を作ったのだ、というところまでは本書を読んで理解できた。
それまで〝society″は様々な訳語があてられており、例えば福澤諭吉は「人間(じんかん)交際」、西周・津田真道は「相生養之道」と訳していましたが、森有礼のようにカタカナで音声を写す以外には翻訳不能だという意見もありました。福澤諭吉が自分の翻訳語をあっさり捨てて「社会」という翻訳後に切り替えていったことに私は興味を引かれなお読み進めながら、三人の人物とその関係をもとに考えたことを書きます。(ここから常体)
ここで最も注視しなければならない人物は森有礼である。彼は薩摩の郷中教育が功を奏したのか、1865年に五代友厚らと英国に密航し(密航といってもこれは幕府から見てのことであって、薩摩藩の命を受けた留学生としての渡航である)、ロンドン大学で学んでいるが、ここで長州藩の井上馨、伊藤博文らと会っている。森有礼は語学の才能があったらしく、その時代切っての英語の使い手だったと思われる。それは、明治2 (1869)年の廃刀案否決で辞表提出による出入りはあったものの、ずっと明治政府の外国関係畑に身を置いており、なにより英語でいくつかの著作を残していることからもわかる。経歴をざっと見てみると
明治1 (1868) 年、徴士外国官権判事、学校取調兼勤
明治4(1871)年、1月に少弁務使として米国渡航
明治5 (1872)年、米国中弁務使、ついで米国代理公使に昇任
明治6 (1873) 年、 帰国後「明六社」結成,外務大丞に昇任
明治8 (1875) 年、 特命全公使として清国渡航。
明治10 (1877)年、 帰国後、外務卿代理に昇任。
明治11 (1878)年、 外務大輔に昇任。
明治12 (1879)年、 駐英公使として英国渡航。
明治17 (1884) 年、帰国後、参事院議官、文部省御用掛兼勤。
明治18 (1885) 年、第一次伊藤内閣初代文部大臣就任。「学政要領」立案。
明治19 (1886)年、 学位令、師範学校令、小学校令、中学校令、諸学校通則などを公布。
明治20 (1887)年、各地で学事巡視。伊勢神宮不敬事件が起こる。
こうしてみると、森有礼のキャリアは外国関係、教育関係のみであることがはっきりする。在野にいたのはほんの一時で、明治2(1869)年に辞表を出して、翌明治3(1870)年に興国寺跡で英学塾を開いていた森有礼が、その後すぐに少弁務使として米国に渡航していることには驚かされる。弁務使とはまさしくアメリカにおける岩倉使節団の世話役要員であり、わざわざそのために政府に呼び戻されたともみることができよう。それほど、森有礼の英語力は重宝され買われていたのである。(ちなみに、小説ではあるが古川薫の『桂小五郎(下)』には、森有礼についての興味深い記述がある:不平等条約改正のため、「一気に調印しようと使節団をけしかけたのは少弁務使の森有礼である。 …」、「少弁務使といえば、代理公使にあたる程度の身分だが、ひどく尊大に構えている。 …」、「少弁務使の森有礼は、使節団の世話をする立場にあり、岩倉大使のところにもよく顔を出していたが、そのうち次第に横柄な態度をとりはじめ、大使の許しも得ないでひとり旅行に出たりするようになった。 …」等の描写である。) そして、この使節団には後に大蔵官僚となる福地源一郎が一等書記官として加わっていた。福地が全面的に新聞界に転身するのはその後である。
森有礼は、明治6(1873)年9月の岩倉使節団帰国に合わせるかのように、7月に米国から帰国しているが、その後すぐ「明六社」の結成に動いている。この明六社という集まりは日本史を習った時にもどうにもよくわからなかたのであるが、「明治期における『社会』概念」の執筆者によると、次のように書かれている。少し長いが引用する。
これは十八~十九世紀の西洋のシヴィル・ソサェティーに特徴的だった自発的アソシエーション結成の再現の試みであり(シュテファン・ルートヴィヒ・ホフマン『市民結社と民主主義』)、学術的な交流を看板にしつつ、めざされたのは近代的で普遍的な人間関係実践のルールの構築とその実現であった。アソシエーションは「デモクラシーの学校(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』と呼ばれた通り、元来、政治的共同体の形成のための実験と教育の場であった。
具体的には相互の対等性と差異の尊重を原則とし、社交の絆によって結ばれながら、対話と議論をつうじた決定によって自己統治を目指す近代の普遍的人減関係実践は、明治初年の日本においてさまざまな面で焦眉の急として求められたものであった。とりわけ直近の過去である幕末に異論の封殺手段としてのテロリズムの横行を経験していたがゆえに、その必要は切実であった。「公儀輿論」に基づくことを原理原則として掲げた維新政権は、新しい統治システムのなかに最初から議事機構を組み込んでいた。明治政府首脳たちが本心ではそこまで乗り気でなかったにしても、実際に選出された議事員として議事行為に関わった人々はそこで、制定された議事運営を行うというまったく新しい自己統治の体験を積むことになった。そして彼らは苦い失敗や挫折を繰り返しつつ、新たな人間関係実践の編成の必要を痛感することになった。森有礼をはじめ明六社に参加した人々も、多くがこうした経験を背景にもっていたのである。明六社は自ら制定した「制規」にのっとって正規メンバーを少数に限定することで、人間関係実践の理念型を追及する実験の場であった。自らルールを制定してそれにのっとり自治的に運営される自発的アソシエーションとしての「ソサエチー」は議事機構経験者たちの媒介もあり、こののち各地で展開されていく。 (251頁~252頁)
ここで言われているソサェティーとは、現代の日本人が使っている〝society″(社会)とは性格を異にしている。現在我々になじみ深い「社会」の表現は、例えば、〝aging society″ 高齢化社会、〝consumer society″消費社会、〝open society″ 開かれた社会、〝plural society ″(複数民族から成る)複合社会、〝throwaway society″ 使い捨て社会などであって、国とか相当大きな共同体に使うものであるが、明六社が実験の場として想定している〝society″は、例えば、〝American cancer society″ 米国癌学会、〝benefit society″共済組合、〝choral society″ 合唱団、〝Fabian Society″ フェビアン協会、〝Humane Society″ 動物愛護協会、〝Linnean Society″ リンネ協会、 〝Royal Society″ 王立協会、〝temperance society ″禁酒の会、〝voluntary Euthanasia Society ″尊厳死協会などの、個々の主張や特質を持つ人々の集まり、あるいは学究的な集まりであって、今日では「社会」とは呼ばれず、「組合」、「協会」、「学会」等という語があてられている。確かにこういったものは明治期の日本には見当たらず、森有礼が試みに「相互の対等性と差異の尊重を原則とし、社交の絆によって結ばれながら、対話と議論をつうじた決定によって自己統治を目指す近代の普遍的人減関係実践」を行うための場として明六社を作ったのだ、というところまでは本書を読んで理解できた。
2019年1月12日土曜日
「紅春 132」
りくが寝る前のにうとうとしている時、歯磨きをすることがあります。これだけは子供のうちからもっと頻繁にしておけばよかったと思うリストの最初にくるものです。りくは元来おとなしい子なので、なだめすかしながらやると一応いやがりながらも付き合ってくれますが、度が過ぎると「ウウ~」と唸って威嚇します。「あ、ゴメン、ゴメン」と、すぐ止めますが、りくの様子は、「まったく。眠いのに起こされて、姉ちゃんウザイ!」といった感じです。
遊びの時は、たまに妙にハイになって大騒ぎすることもありますが、体をなでていると赤ちゃんの頃のことを思い出すのか、お腹を上にして幸せそうな顔をします。でも、りくの手っこに触ったりすると急に怒って唸ることもあり、「りく、今『ウー』した?」と、すぐ止めます。ペットフードのCMで、ペットのストレスとして、「ご主人のスキンシップが過ぎる時」というのがありましたが、それですね。
こんなふうに、りくは全く臆することなく自然体で振舞っていますが、性格は本当におとなしい控えめな子です。今でもはっきり目に焼き付いているのは、柴犬の繁殖場の店内で、他の子犬と一緒に柵の中にいた時の姿です。他の子は人間の方に寄って来たり、じゃれついたり、キャンキャン吠えたり、それなりにやんちゃな様子だったのですが、一匹だけ何と言おうか、知らないところに連れてこられて、寄る辺なき姿でぼんやりうなつむいてちょこんとお座りしていた子がいたのです。「ああ、この子を連れて帰らなければ」と強く思ったのを忘れることができません。
今では家中どこでもりくの部屋といってもよく、そのままの自分で過ごしています。兄も、「あんなにおどおどしてた子が、自己主張できるようになって、りくはうちに来てよかったと思わない?」と言っています。ありのままの姿でいられるようになって、他人はどう思うかわかりませんが、これでいいのだと思わずにはいられません。
遊びの時は、たまに妙にハイになって大騒ぎすることもありますが、体をなでていると赤ちゃんの頃のことを思い出すのか、お腹を上にして幸せそうな顔をします。でも、りくの手っこに触ったりすると急に怒って唸ることもあり、「りく、今『ウー』した?」と、すぐ止めます。ペットフードのCMで、ペットのストレスとして、「ご主人のスキンシップが過ぎる時」というのがありましたが、それですね。
こんなふうに、りくは全く臆することなく自然体で振舞っていますが、性格は本当におとなしい控えめな子です。今でもはっきり目に焼き付いているのは、柴犬の繁殖場の店内で、他の子犬と一緒に柵の中にいた時の姿です。他の子は人間の方に寄って来たり、じゃれついたり、キャンキャン吠えたり、それなりにやんちゃな様子だったのですが、一匹だけ何と言おうか、知らないところに連れてこられて、寄る辺なき姿でぼんやりうなつむいてちょこんとお座りしていた子がいたのです。「ああ、この子を連れて帰らなければ」と強く思ったのを忘れることができません。
今では家中どこでもりくの部屋といってもよく、そのままの自分で過ごしています。兄も、「あんなにおどおどしてた子が、自己主張できるようになって、りくはうちに来てよかったと思わない?」と言っています。ありのままの姿でいられるようになって、他人はどう思うかわかりませんが、これでいいのだと思わずにはいられません。
2019年1月8日火曜日
「制度設計の変更を!」
制度の基本設計をし直さないといけないのではないかという事態が続いています。もちろんその最大の原因は人口減少で、その中身は第一に少子化、次が高齢化です。少子化と高齢化は元来全く別の自称ですが、ダブルで人口減少を加速しています。外国人労働者を入れるにしても、サービス業をいまの状態で持続するのはどう考えても無理そうですし、身近なところで居住する集合住宅の理事をやって確信したこととして、管理組合の仕事を理事会だけで完遂するのはもう無理で、一人一人が自分たちの住まいを自分たちで守るという気構えがなくては、そこは廃墟になるだろうということです。
政治に関しては、もはや立法府も司法も機能しておらず、内閣の暴走が止まりません。これでは民主主義の皮をかぶった独裁政権とどこも変わらない。経済も同様で、末期的な痙攣状態にある今この期に及んで、東京オリンピックや大阪万博、カジノ施設といったカンフル剤を打ってどうしようというのでしょう。もう経済は成長しない。こんな簡単なことがどうしてわからないのか。いや、わかっているだろうに、どうして顔をそむけ正面から解決する決意をしないのか。遅れれば遅れるほど手の打ちようはなくなるというのは、誰が考えてもわかります。もう経済成長が望めないことは素人でもわかりますが、事ここに及んでそれを言っているのは某外国銀行のグローバル・ストラテジストなのですから、為政者はこの警告を真剣に受け止めなければならないはずなのです。私はもう日本は経済成長しなくてよいと思っています。そう思うわけは、人口減少国家において経済成長があるとしたら、一番可能性がある原因は「戦争による破壊からの復興」もしくは「「他国での戦争における兵器の輸出」だからです。GDPが急成長するというのは或る意味社会的に大変な国家だということを忘れてはなりません。
先日の熊本地震はこれまで未発見の断層によるものとの見解が出され、自然災害からの復興による経済成長を望む人はいないでしょう。っまだ未発見の断層があったのかと思うと、これは日本全国どこにも打倒することになり、背筋が寒く成る思いです。制度設計ミスで最も恐ろしいのは原発の配置です。二度目があれば日本は今度こそ終わるでしょう。国土の壊滅もそうですが、一度目の失敗から学ばなかった愚かな国民として、国際社会からも葬られるということです。
みんなで堅実に縮んでいきましょうよ。できないことはありません。日本独自の文化資本だけは大切に守りながら、国家の健やかな老後を作っていきませんか。年明けにこんなことがありました。スーパーに買い物に出て、サングラスの弦を胸元に掛けて歩いていたら落としてしまいました。「やってしまった」と思いました。店内で10分以内に起きた出来事なのは確かだったので、とりあえずサービスカウンターに届けを出すつもりで寄りました。半分あきらめて「明日また来ます」というつもりでいたら、なんともう届いているではありませんか。思わず、「すごいですね。ありがとうございます」と言って深々と頭を下げていました。その直後思ったのです。「政治が駄目でも、経済が駄目でも、日本はこれでいいじゃないか」と。
文化大国になるには、やはり国家の資本を教育に投入するしかないでしょう。とくに立ち遅れているのは高等教育、つまり大学以上の教育です。無駄でもいい、とりあえず全国の独立行政法人(昔の国公立)にふんだんに資金を投入し、好きにやらせてみてはどうでしょうか。始める前にはどの研究もどれだけ発展性があるかなんて誰にも分らないのです。それは今後のちょっとした国際状況の変化や思いもかけない社会の変化という入力変更により、結果が大幅に違ってしまうからで、それら全てをあらかじめ計算しつくして対応できることなどあり得ません。もちろん、理科系だけでなく文科系の学部にも同等の支援をします。日本語によって営まれてきた学問はすでに千数百年の歴史があるのです。日本語を守ることは人類の使命です。ここには限りないアイディアの宝が隠れています。日本語を使うことなしにはそこにアクセスできない宝の山があることを世界に知らしめ、文化の高さを享受したい人は皆日本語に引き付けられてくるような国にすることが、これから日本が目指すべき国家戦略です。貧しくても平和で安全な暮らしがしたいと願う人がわらわらと集って来るような国がよいと思います。ただ、急がないといけません。もうすでにこの国の教育はほぼ徹底的に破壊されてしまったからです。今が最後のチャンスです。まだ間に合います。呼びかける相手は内閣府? それが問題なんですよ。
政治に関しては、もはや立法府も司法も機能しておらず、内閣の暴走が止まりません。これでは民主主義の皮をかぶった独裁政権とどこも変わらない。経済も同様で、末期的な痙攣状態にある今この期に及んで、東京オリンピックや大阪万博、カジノ施設といったカンフル剤を打ってどうしようというのでしょう。もう経済は成長しない。こんな簡単なことがどうしてわからないのか。いや、わかっているだろうに、どうして顔をそむけ正面から解決する決意をしないのか。遅れれば遅れるほど手の打ちようはなくなるというのは、誰が考えてもわかります。もう経済成長が望めないことは素人でもわかりますが、事ここに及んでそれを言っているのは某外国銀行のグローバル・ストラテジストなのですから、為政者はこの警告を真剣に受け止めなければならないはずなのです。私はもう日本は経済成長しなくてよいと思っています。そう思うわけは、人口減少国家において経済成長があるとしたら、一番可能性がある原因は「戦争による破壊からの復興」もしくは「「他国での戦争における兵器の輸出」だからです。GDPが急成長するというのは或る意味社会的に大変な国家だということを忘れてはなりません。
先日の熊本地震はこれまで未発見の断層によるものとの見解が出され、自然災害からの復興による経済成長を望む人はいないでしょう。っまだ未発見の断層があったのかと思うと、これは日本全国どこにも打倒することになり、背筋が寒く成る思いです。制度設計ミスで最も恐ろしいのは原発の配置です。二度目があれば日本は今度こそ終わるでしょう。国土の壊滅もそうですが、一度目の失敗から学ばなかった愚かな国民として、国際社会からも葬られるということです。
みんなで堅実に縮んでいきましょうよ。できないことはありません。日本独自の文化資本だけは大切に守りながら、国家の健やかな老後を作っていきませんか。年明けにこんなことがありました。スーパーに買い物に出て、サングラスの弦を胸元に掛けて歩いていたら落としてしまいました。「やってしまった」と思いました。店内で10分以内に起きた出来事なのは確かだったので、とりあえずサービスカウンターに届けを出すつもりで寄りました。半分あきらめて「明日また来ます」というつもりでいたら、なんともう届いているではありませんか。思わず、「すごいですね。ありがとうございます」と言って深々と頭を下げていました。その直後思ったのです。「政治が駄目でも、経済が駄目でも、日本はこれでいいじゃないか」と。
文化大国になるには、やはり国家の資本を教育に投入するしかないでしょう。とくに立ち遅れているのは高等教育、つまり大学以上の教育です。無駄でもいい、とりあえず全国の独立行政法人(昔の国公立)にふんだんに資金を投入し、好きにやらせてみてはどうでしょうか。始める前にはどの研究もどれだけ発展性があるかなんて誰にも分らないのです。それは今後のちょっとした国際状況の変化や思いもかけない社会の変化という入力変更により、結果が大幅に違ってしまうからで、それら全てをあらかじめ計算しつくして対応できることなどあり得ません。もちろん、理科系だけでなく文科系の学部にも同等の支援をします。日本語によって営まれてきた学問はすでに千数百年の歴史があるのです。日本語を守ることは人類の使命です。ここには限りないアイディアの宝が隠れています。日本語を使うことなしにはそこにアクセスできない宝の山があることを世界に知らしめ、文化の高さを享受したい人は皆日本語に引き付けられてくるような国にすることが、これから日本が目指すべき国家戦略です。貧しくても平和で安全な暮らしがしたいと願う人がわらわらと集って来るような国がよいと思います。ただ、急がないといけません。もうすでにこの国の教育はほぼ徹底的に破壊されてしまったからです。今が最後のチャンスです。まだ間に合います。呼びかける相手は内閣府? それが問題なんですよ。
「電話の悩み」
電話が好きという人がいるのかどうかわかりませんが、私は病的な電話嫌いです。これは子供の頃からのことで、家で留守番している時にはいつも「電話がありませんように」と祈っていました。普通の訪問客なら玄関で用件を聞いて知り合いでなければお帰り頂けばいいだけですが、電話はすでに家の中にあるのです。勝手に家の中に入ってくるのを何故みな平気で許しているのか理解できません。
自分が掛けるのはもっと嫌です。電話の前で何度も逡巡した挙句、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで掛けるのです。少なくとも要点は書きだしておかないと絶対頭が白くなるし、仕事で掛ける電話などはほとんどサイボーグになったかのような無機質な態度で、受話器を置いた途端どっと脱力し、それだけで自分を褒めたい気分でした。
こんな状態ですから、携帯電話などはもう悪魔の発明としか思えず、仕事で必要でなければ持たなかっただろうと思います。今持っている携帯を持ち歩くことはめったにないので、「携帯」ではなく「固定」電話と言ってよいでしょう。持って出るのは友達と待ち合わせの時と、自分から発信する必要がある時(兄に車で迎えに来てもらうなど)だけで、SOS用なのです。「固定」電話と言っても家でも離れたところに置いてあるので、電話が取れるのは掛かってくる時間があらかじめメールで知らされている時だけです。何のための携帯電話なのかと、皆さんあきれていることでしょう。時々メッセージを残してくださる方がいますが、この際カム・アウトしますが、聴き方がわからないのでそのままになっています。ごめんなさい。ただ、本当に重要な知らせならば必ず他の方法でも届くはずだと高を括ってもいるのです。ですので、電話に関する失礼があってもどうか怒らないでくださいね。メールなら大丈夫です。昨年末携帯会社から、「お客様のお持ちの形態は来年11月から電話番号を利用したメールサービスしかできなくなります」というふざけたハガキが来たので、まだ半年以上は猶予がありますが、通信機器をどうするかの問題に悩まされています。携帯電話をやめちゃえばどんなにほっとすることだろうと真剣に考えています。
自分が掛けるのはもっと嫌です。電話の前で何度も逡巡した挙句、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで掛けるのです。少なくとも要点は書きだしておかないと絶対頭が白くなるし、仕事で掛ける電話などはほとんどサイボーグになったかのような無機質な態度で、受話器を置いた途端どっと脱力し、それだけで自分を褒めたい気分でした。
こんな状態ですから、携帯電話などはもう悪魔の発明としか思えず、仕事で必要でなければ持たなかっただろうと思います。今持っている携帯を持ち歩くことはめったにないので、「携帯」ではなく「固定」電話と言ってよいでしょう。持って出るのは友達と待ち合わせの時と、自分から発信する必要がある時(兄に車で迎えに来てもらうなど)だけで、SOS用なのです。「固定」電話と言っても家でも離れたところに置いてあるので、電話が取れるのは掛かってくる時間があらかじめメールで知らされている時だけです。何のための携帯電話なのかと、皆さんあきれていることでしょう。時々メッセージを残してくださる方がいますが、この際カム・アウトしますが、聴き方がわからないのでそのままになっています。ごめんなさい。ただ、本当に重要な知らせならば必ず他の方法でも届くはずだと高を括ってもいるのです。ですので、電話に関する失礼があってもどうか怒らないでくださいね。メールなら大丈夫です。昨年末携帯会社から、「お客様のお持ちの形態は来年11月から電話番号を利用したメールサービスしかできなくなります」というふざけたハガキが来たので、まだ半年以上は猶予がありますが、通信機器をどうするかの問題に悩まされています。携帯電話をやめちゃえばどんなにほっとすることだろうと真剣に考えています。
登録:
投稿 (Atom)