この夏は東京神学大学から夏期伝道神学生をお迎えし、礼拝や祈祷会でみ言葉を聞く幸いを得ました。キム神学生は、嵐の中でイエス様と共にあることやイエス様が「敵を愛しなさい」という困難な教えを語られた意味について、大変丁寧に解き明かしてくださいましたが、ここでは特に強く印象に残った「種を蒔く人の譬え」の説教について書きます。
「種蒔きの譬え」はあまりによく知られた話ですから、道端や石地や茨の中に落ちた種(御言葉)は育たないので、私たちはよい地(信仰ある者)として実を結びたいものだという教えと思っていました。この時代の種蒔きの仕方は穴をあけた袋をロバに背負わせて、畑を移動させて種を蒔くという解説を記した書もあるようですが、キム神学生はどうも腑に落ちないというのです。キムさんのお父さんは農夫で、農家にとって種というのは本当に大事なものであり、収穫したらまず良いものを種として分別し、たとえ収穫が少なくても絶対に食べないと言います。そんな大事なものを、道端や石地や茨の中に落とすなんてまるで愚かだというのです。まるで畑の中に道端や石地や茨があるようではないかと。本文を見てみます。
ルカによる福音書8:4~8
8:4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。8:6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。8:7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。8:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」と簡潔に書かれているように、私たちにわかるのは、或る人が出ていって種を蒔いたということだけです。道端でも石地でもいばらの中でも良い地でもそこがどこであろうと、種を蒔いたのです。そう考えれば確かにここはそういう書き方です。私たちが御言葉を聞いた時のことを思い出せばわかります。解き明かしを聞いてみましょう。
ルカによる福音書8:9~15
8:9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」
◆「種を蒔く人」のたとえの説明
8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。8:12 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。8:13 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。8:14 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
私たちは決して心が良い状態にある時だけ御言葉を聞くのではありません。心に悪魔が入り込んだ時にも、試練に遭って身を引いてしまった時にも、心が人生の思い煩いや富や快楽で一杯だった時にも、私たちは御言葉を聞いたのです。「もし神様が良い地にだけ種を蒔いたとしたら、果たして私たちは救われたでしょうか」という言葉で、キム神学生は説教を締めくくられました。本当にその通りだと思わざるを得ませんでした。私たちは一日のうちにも、心が道端になったり石地になったり茨に覆われたりする、誠に移ろいやすい者です。御言葉はいつでも必要であり、また聖霊の助けによって心が良い地へと整えられ、多くの実を結ぶようにと願わずにはいられません。