今になって、若いうちにやっておいてよかったと思うことの第一は、海外旅行です。定年退職してからゆっくりという方が多いことでしょうし、気力や体調が充実していればそれも望ましいことです。私の場合は時期がずれてしまったようで、もう海外に行きたい気持ちは雲散霧消しています。今思い出しても本当に楽しい時代でした。私が行きたいところは、西欧(アルプス以北、北欧を含む)・中欧・東欧、これで全部という、著しく偏った地域でしたがほぼ全て制覇し満足です。グローバル資本主義に席巻される寸前のヨーロッパを見ることができたのは幸いでした。ヨーロッパがヨーロッパだった時代はもう二度と戻らないということだけは理解しています。
最近はスイッチを入れると不愉快なことだけ聞こえて来るのでニュースを聞く時間もめっきり減りました。その代りこのところずっと、記録と記憶の中、即ち本の世界で過ごしています。もともとミステリーは好きですがこれはいろいろなタイプがあり、時も所もわからない狂気交じりの世界は避けています。ポーなくしてヒッチコックもキューブリックもなかったことは確かですが、もう少し穏やかなのがいいですね。というわけで、このところうろついていたのはもっとフツーで単純な事件簿を所有するベーカー街221Bです。ホームズの解決したいろいろな事件を読み返しましたが、これは事件簿というより時代誌というか民俗学的記録と言った方がよいように思います。百年前の英国を記録したこのシリーズは、今から見るとほぼ全編が帝国主義時代のすさまじい痕跡で成り立っています。新大陸、アフリカ大陸、インド、アフガン、中国・・・すべてが英国と有機的に結び付いており、 当時の世界は大英帝国の庭なのです。百年前にはロンドンにも阿片窟があり、また世界中からありとあらゆる珍しい生物や危険な代物が手に入りました。そこは当時最先端の犯罪が起こる場所でもありました。交通や通信手段は冗長の感がありますがこれも風情があってよいもの、また今では許されない表現も随所にありますがこれが現実だったのです。当時から見れば現代は信じがたいほどの別世界、別の星といってよいほど変わってしまいました。流石のホームズでもこれほどの変化は予測できなかったでしょう。犯罪は世相を象徴するもの、百年後に世界があるとして、日本ではさしずめ『相棒』あたりが同様の民俗学的時代史を担ってくれるのでしょうか。