2018年4月10日火曜日

「なりたい職業」

 財務省前理財局長の国会証人喚問を聞いて思ったのは、「もう官僚になりたいと思う若者はいないだろうな」ということでした。天下りという形の生活の保障が危機的なものになっていることもさることながら、放映から伝わってきたのは、一昔前にはかろうじて存在したであろう財務官僚としての矜持が微塵も感じられない情けない姿で、官僚の時代の終焉をはっきり告げるものでした。そう言えば、かつて若者が夢見た職業は、医療界にしても法曹界にしても教育界にしても、腐敗や行き詰まり、また極度の緊張を強いられる職業であることが衆目の一致するところですから、これも自ら進んで選びたい対象ではなくなっています。金融やIT関係もそれ自体博打のようなもので、人生百年時代の職業として先行きの見当が全くつきません。ノーベル賞受賞者が出た年の後は学者志望も増えたようですが、今の大学の現状では無駄な書類書きに追われて研究もままならず、また短期的な結果が出せなければポストも危うい末期的な状態です。第一、急速に進む少子化の中で多くの大学が姿を消すのは間違いなく、将来どれほどの大学が存在できるのか皆目わかりません。私が今若者で、将来の職業を決めなければならないとしたら辛すぎると思うのです。

 気が滅入る日が続いたので、肩の張らない本を借りてきたのですが、その中に土屋賢二の『哲学者にならない方法』がありました。読んでゲラゲラ笑うはずだったのに、なんとこの本は自伝的エッセイだったのです。やはり人は七十歳を過ぎると自分の人生を回顧するようです。生まれ育った家庭環境には「へえーっ」と驚きましたが、私が常々抱いている「どの家庭もそれぞれに特殊である」という仮説の信憑性が確かめられました。岡山から出てきて駒場寮に入ったことで人生に目覚め、そこに描かれる自堕落な生活は笑えましたが、おおらかな時代でよかったなと思います。貧乏人の集う共和制のごとき生活を象徴する物干し焼失事件の話はまさに傑作、「この本の中で最も教化的だったのは埋み火のしぶとさだった」と言えば、読者として合格でしょうか。いつものふざけた筆致の中にも、音楽、美術、文学を通して自分でも思いもしなかった哲学に魅入られた結果、精神的に親から独立していく過程は読んでいて痛々しいほどでしたが、真剣に生きていたことだけはよくわかりました。だからこそ今、哲学の道に進んだことを大事故に遭ったようなものだと感じつつも、「どんな大事故でも、青春に起こったことはなつかしい」との思いで、疾風怒濤の日々を振り返ることができるのです。

 今の若い人も大人になる過程は基本的に同じなのですが、違うのは時の流れの速さです。昔の五倍、十倍の速さで過ぎる時間は、もはや長い目で人を見て待っていてはくれません。よほど才能があるか運のいい人しか、無事その場に到達できないようになってしまいました。そして大多数の若者は、大人になれてもいないのに、絶望的とも言える速さで「社会的老化」を強いられるのです。いつの時代も人が大人になる時には個々人の大きな変革を迫られるものですが、今の時代は若者の多くがこの課題が果たせぬまま、長い長い老後を迎えてしまうような気がしてなりません。ああ、また気が滅入ってきました。心置き無く腹の底から笑える本はないでしょうか。