2009年6月に「障害者郵便制度悪用事件」で、大阪地方検察庁特別捜査部によって、虚偽公文書作成と行使の容疑で逮捕された女性厚労省官僚がいましたが、彼女を知る人は皆口をそろえて「彼女に限ってそんなことが絶対あるはずないと」言っていたことを知り、感銘を受けたのを覚えています。結局この事件は、担当した特捜部主任検事が証拠改竄を行っており、上司もそれを知りながら隠したとして犯人蔵匿の容疑で逮捕されるというとんでもない事態に発展し、社会に衝撃を与えました。このような場合に、周囲の人が「あの人も魔が差したのか」と思うのではなく、「あの人は絶対そんなことをする人ではない」と言われる人がどれだけいることかと考えると、この方は並はずれてすぐれた人格者だったのだろうと思います。
日々の生活の中で、仕事に関するものにせよそうでないにせよ、人間が自分一人でできることには限りがありますから、だれでも他人に何かを頼んだり頼まれたりして過ごしています。その時おそらくどの人も、「この案件はあの人に、こちらはあの方にお願いしよう。」と決めていくはずです。それは、想像ですが、相手の性格やこれまでの行動や振る舞い方、付き合いの深さなどから、瞬時に相手の顔が浮かぶことがほとんどでしょう。そういう人をどれだけ持っているかが生きていく時間の豊かさと大いに関係があると思います。特に借りがあるわけでもないのに、「あの方の頼みなら何とかして聞いて差し上げなければ。」と思う人もいますし、困った時に「あの人なら多少無理しても、きっと頼みを聞いてくれる。」と思う人もいます。それはどういうことなのでしょうか。
例えば社会で要職についている人でも、あってはならない事をしでかすといった事件が頻繁に報道されますが、取り返しのつかない事件を予測することはできるのでしょうか。事件が起こる前に信頼するに足る人を雇う方法があればいいと思う人がでてくるかもしれません。予想ですが、グローバル資本主義を信奉する人たちの間で将来的には人格の数値化が行われ、公にか隠れてか、流通するようになるのではないでしょうか。なにしろ数値化されたものしか信じられない方々です。人格指標にはいくつかの観点があり、(これは「高潔さ」「穏和性」「社交性」「思いやり」「公共心」「自尊心」「「知性」「柔軟性」「ユーモア」「強靭さ」「向上心」「積極性」等いくらでも増やせますが)、を5段階で評価し多角形のグラフにします。もちろん面積が多い方が人格指標の数値が高いことになります。これを見ると、「頭がよく人当たりもよいが、ずるいところがあり嫉妬深いので足をすくわれるかもしれない」とか、「明るく外交的で好奇心も強く、リーダーシップもとれるが、時にカッとして判断を誤る可能性がある」とか、「物静かで何を考えているかわからないが、周囲への目配りができ、コツコツと小さな仕事を積み上げて大きな達成を期待できる」等々がわかるかもしれず、また企業ごとに採用規定ができ、評定点の合計が高いに越したことはないが、「高潔さ」と「穏和性」だけは5でないと採用しないなどということが起きるかもしれません。こういったデータは、その人のこれまでの言動の集積や他の人がその人をどう見ているかに関わるビッグデータから解析されて作成され、人を雇う時にひそかに調べたり、提出を求めたりするようになるだろうと思います。人格指標は一社だけでなくいくつもの企業から出され、それぞれ違った評価を得るでしょう。
一見、人の信頼度がわかってよさそうな気がしますが、妨害するための情報が流されたり、旧東ドイツ並みのスパイ活動が行われたりしないとも限らない途方もない企てです。一旦数値化が始まるととどまるところなく一方向へ進むので、こんなものがあればとんでもないことになります。子供のころからこの数値を上げるための心理規制がかかりそれがどれだけ人格を捻じ曲げ、鬱屈した行き場のない恨みつらみが社会をゆがませるかと思うと恐ろしくなります。何より、人格指標の数値が低いとは学業成績が悪いとか年収が低いなどということとは桁違いに、立ち直れない打撃を人に与えることになるでしょう。
今の社会状況から決してありえないこととは言えない悪夢を仮想してみましたが、この指標には決定的な瑕疵があります。どれだけその人の言動に関するデータを集めてどのような人であるかある程度わかった気になっても、それが今後その人が何を行うかを担保するものではないということです。数値にそのような力はないからです。しかしその人と付き合いのある生身の人間ならこれができるのです。これは親しい人であればあるほどまずはずれることはないし、まれにはずれても、「私に人を見る目がなかった。」だけのことだと納得できます。テレビのインタビューで、友達3人と会社を立ち上げた若者の一人が企業に就職しなかった理由を問われて、「こいつらとならやっていけると思った。こいつらに裏切られるのならそれでいいと思った。」と述べていましたが、これはけだし卓見で、その人を知らなければどんなに人格指標が高い人相手でも到底言えない言葉です。インターネット、とりわけSNSの発達により多くの人と知り合えるようになったことはある意味革命的なことですが、そこから発展的に本当にその人を知ること、そして人を見抜く力の涵養についての知見はいまだ見つかっていないように感じます。個人的にはまず人間の脆弱な心身への深い理解が必要で、顔と顔を合わせての付き合いが不可欠だと思っています。