2016年5月19日木曜日

「文学部に行く意味」

 私が学生生活を送っていた頃はのんきでよい時代でした。その後、大学から文学部がどんどん消えていった印象がありますが、今はどうなのでしょう。少なくともただ「好きだから」という理由で将来の見通しもなく文学部に行くという高校生はもうほとんどいないのではないかと思います。「それが何の役に立つの?」とか「将来何になるの?」とか聞かれたら沈黙するしかない。そんな問いにすらすら答えられるような人は、大学で文学をやりたいなどと思わないでしょう。

 私はヘンリー・ジェームズで卒論を書いたことを覚えていましたが、英米文学史上では周辺的な人ですし、先生の話ではその数年前頃から卒論のテーマに選ばれる文学者の傾向が変わってきて、サリンジャーが4人、シェークスピアがゼロという年もあったと嘆いておられたので、選択を誤ったかしらと漠然と思っていました。自分でもよくわからないけれど、なんだかマイナーな作家で卒論書いてしまったなと思い、それきり卒論のことはまったく記憶に上ることはなかったのです。

 ところがつい先日、まったく唐突に、卒論のことが頭に浮かんだのです。思い出したのは、学部の図書館に通って彼の手紙類をかなり読んだこと、「あらゆる点で屈折しているけれど、書くならこの人だな。」と思ったことです。屈折の一つの原因はおそらく、彼の目から見て荒涼としたアメリカ社会を描くには、彼の文体は豊穣過ぎたためだろうと思います。どれほどヨーロッパ社会に慣れ親しみ最後はイギリスに帰化までしても、またその有り余る筆力でどれほど巧妙にヨーロッパ社会を描いたとしてもアメリカ人作家と分類されてしまう何かを持っており、アメリカにもヨーロッパにも居場所を見つけられない彼に、同情を禁じ得なかったのです。

 題材として取り上げた作品は、「ある貴婦人の肖像( The Portrait of a Lady )」でした。読んだはずなのに筋を覚えておらず、「自由闊達なアメリカ娘が老成したヨーロッパ人との付き合いに苦労する話だっけ。話の全編を貫く結婚問題があったな。最後はアメリカ人らしい終わり方だったような・・・」という、まことに曖昧模糊とした記憶しかなく、さらに「なんでこの作品で書いたんだっけ。たぶん、代表作と言われる『デイジー・ミラー』には全く関心が持てず、後期の作品は手に負えそうになかったからだな。」と、それさえ明確に思い出せなかったのです。とりあえず、Gutenbergで部分的に読み返してみたところ、もう驚倒しました。なんとこれはある意味モラハラの話ではありませんか。当時の私にとってヘンリー・ジェームズのよいところは宗教性が薄いということだったのですが、素直で闊達なアメリカ的心性をもった主人公が、開放された人間性あふれる社会に惹きつけられながら、何かしら邪悪なものにからめ捕られていく様が見事ではあるが痛々しい。しかし、自分が誤ったことを彼女は認めて受け入れ、自分を心底愛していた従弟を死の床に見舞った後、以前から自分に好意を示していたアメリカ人実業家を振り切り、決然として再び伏魔殿に向かうのです。理由は明示されていませんし様々な解釈をゆるすのでしょうが、私には「闘うため」以外であるとは思えません。

 三十年ぶりにこの話と再会してうなってしまいました。あの時、なぜかわからないまま選んで卒論を書いてしまった作家と作品の意味が、今頃になってわかるとは。当時、何が自分の心に引っかかっていたのかがわかっただけでなく、それは今現在も同じく自分の関心事なのだということを思い知ったからです。それは、非常にかすかな、人によってはそうは呼ばないかもしれない類の「人間の邪悪さ」だったのです。もしこのことが一貫して無意識にでも私の中にあったとしたなら、それだけで卒論を書いた意味はあったのです。私がこれまで様々な失敗や過ちをしながらも、この点に関してはそれを逃れて、広々とした心持ちの連れ合いに出会えたのは偶然ではなかったのだと得心がいきました。今更ながら文学部に行ってよかったと思います。