2016年5月12日木曜日

「麗ちゃんのこと」

 中学時代の級友で多くの時間を共に過ごした友人がいました。大人になってからも年賀状のやりとりはあったのですが、やがてそれも途絶えて20年近くたちました。その間、時々は思い出していましたが忙しさに紛れてそのままになっていました。連絡をとろうにも、彼女は郵便局に住所変更届を出していなかったのでそのすべもありませんでした。まだ携帯電話も普及していなかった頃です。

 ほとんど似たところがない人とでも友達になれるのは子供の特権です。彼女は明るく外交的な人でいつも多くの友人に囲まれており、面白くて一緒にいると元気が出ました。活発で運動が得意な反面、思索好きな文学少女でもありました。私がソフトボール部と文芸クラブに入っていたのは、彼女の気さくさにひかれるところが大きかったのです。日曜の朝に荒川グランド、通称夢の島でソフトボールの練習をしたり、やなせたかしが監修していた「詩とメルヘン」をよく貸してくれたっけ。中学3年間は同じクラスだったし、教会でも時々一緒でした。高校ではクラスが違ってしまってあまり親しくする機会がなくなりとても残念な思いをしました。鮮明に覚えているのは中学の時お父さんが亡くなったこと。あれはつらかった。かける言葉がなかった。もう一つ覚えているのは、いつだったか、「生まれ来る子供たちのために」というオフコースの歌について、「これってイエス様のことなのかな。どう思う。」と訊かれ、「そんなふうにとれるけど、どうなんだろうね。」などと話したこと。

 大人になってから、一緒にもう一人の友人の家に遊びに行ったことがあり、何年もあっていなかったけれど中学時代と同じ口調で仕事や近況について話したことがありました。楽しかったな。でもそれが最後でした。

 連絡がつかなくなったことはずっと心にかかっていたので、時間ができてから少し探してみましたが消息はわかりませんでした。別の友人から今年40年ぶりに中学の同窓会が行われるというメールが来て、その友人も麗ちゃんの消息を探していることを知ったので、もう一度本腰を入れて探し始めました。長い時がたち時代も変わったのです。インターネットというかつて私たちが手にしていなかった探索方法で探すうち、中学時代の同窓生かと思われる人のブログ上に麗ちゃんの名前が見つかりました。思い切ってメールしてみるとやはりそうでした。彼はひょんなことから、数年間麗ちゃんと電子年賀状のやりとりがあったとのこと。そして、麗ちゃんがもう数年前にがんで亡くなっていたことを知らされました。亡くなる何年か前に彼が受け取ったウェブ年賀状には、「父が亡くなった年を越えました。」と書いてあったそうです。

 私は茫然とし、ひとしきり泣きました。もう会えないのだという事実に打ちのめされ、もっと早く探すべきだったと悔やみました。しかし探していく中で、彼女がかつて所属していたはずのところから何も情報が得られないことを考え合わせると、ひょっとしたら彼女は静かに消えようとしていたのではないかという疑念がきざし、心が騒ぎました。実際のところ、彼女の最期がどんなだったかわかりませんが、ホスピスに入って「もう誰にも会わない。」と宣言して亡くなったヘルベルトと同様、自分の最期の姿を見られずに静かに逝きたいという人がいることも今では理解できます。でも、この点に関しては本人と周囲の人の気持ちは見事にすれ違うのです。たとえ本人がそのような形で記憶に残りたくないと思うような状態になっていたとしても、私は会いたかった。ずっと離れていても、麗ちゃんは私の友達だったのだから。今はただ彼女が平安のうちにあることを祈るばかりです。