2016年2月5日金曜日

「英語の世紀を生きる日本語」

 水村美苗の『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』が出たのは2008年でしたが、その最大の功績は誰もが肌で感じていたことをずばりと言い当てたことです。それは世界の公用語は英語であり、もはやその他の現地語は学問の言葉ではなくなりつつある、日本語も同様であるという暗澹たる近未来でした。 

 この分析に対する対処方法は3つでしょう。個人的な生き残りをかけて英語話者になる方向が一つ。子供をインターナショナルスクールに入れたり、マレーシアに母子で移り住んだりして子供の英語習得を目指す方たちがこれです。その理想の姿はおそらく錦織圭なのでしょうが、彼は国内のジュニアの大会で優勝してスカウトされたテニス留学で語学習得目的の留学ではありません。

 二つ目は国家的な生き残りを願って英語重視の姿勢をとることで、文部科学省の方向性がこれです。おりしも2009年4月から2年間の移行期間を経て、2011年4月から小学5・6年生に必須領域として「外国語活動」が取り入れられました。2018年からはこれが小学3年生からになり、東京オリンピックのある2020年に完全実施となるとのこと、将来的に英語で討論・交渉できることをめざした人材育成を目指しているのでしょう。この方たちが念頭においているのはシンガポールのようなビジネス立国であり、その中心は金融業だろうと思います。いったい成り立ちも国土や人口もあまりに違う1億2千万の国民国家のあり方を真剣に考えているのでしょうか。国を憂いてのことなのでしょうが、見当違いの方向ですし時期遅れです。外国人にびびらず英語を用いて意思疎通を図る態度ならほぼもうできているのではないかと思いますし、英語を母語とする人と討論や交渉をして勝てると本気で思っているのでしょうか。
 また、もうすでに蓋然性程度ならお互いが母語で話してコミュニケーションできる機器がパナソニックから出ています。今後ますますその精度や翻訳までのスピードは上がることでしょう。他の授業時間を削ってまで英語だけにあまりに多くの資本と労力を投入してどうしようというのでしょう。望むらくはせめて授業にディベートを取り込むような最悪な教育だけはやめてほしいと思いますが、きっとやるのでしょうね。

 三つ目は国家的な生き残りをかけて日本の文化、その中核たる日本語を本当に厚みのある言語にすべく努力をするという道です。水村美苗は漱石の『明暗』の続編を書くほどの日本文学者ですから、『日本語が亡びるとき』を書いた時、自分の表明が日本人にどのような影響をもたらすか考慮したはずです。日本人はこのような国家的危機にあたって手をこまねいている民族ではない。このことは幕末から明治にかけて欧米の植民地化を阻止した歴史を見れば明らかでしょう。地理的・世界史的状況が日本にとって有利に働いたとはいえ、江戸時代までの文化的厚みなくして独立の保持が可能だったかどうかちょっと考えてみればわかるはずです。

 この点では黒船来航時と同様、英語と言う第二の黒船に脅かされる今もちょっとした世界的状況が日本に有利に働いています。2014年に1341万人だった訪日外国人の数が2015年には1973万人になったという報道がありました。2013年には1036万人だったのですから2年で2倍近くになったということになります。アジア諸国からの買い物目当ての人々が多いのでしょうが、明らかに欧米系の人も増えています。来日外国人に密着したり、街頭インタビューをもとに外国人が日本をどう見ているかといったテレビ番組が多くなり、最近一番印象に残ったのは、「日本のがっかりしたところランキング」でした。3位の「電車が混んでいる」、2位の「物価が高い」は納得の結果でしたが、驚いたのは1位が「特になし」だったことでした。また感心したのは、滞在期間に応じて皆十分立派に日本語を話していたこと。日本語は特殊な言語なので外国人には習得困難という言説は、少なくとも話し言葉としては根拠のないものだったようです。

 日本の特異性という観点から、とりとめのない例をいくつか挙げます。
 1. 秋葉原に限ったことではありませんが、ビルが丸ごと電化製品売り場という建物が日本では当たり前にあります。私はあれほどの品ぞろえを持つ大型量販店をドイツでは見たことがありません。秋葉原では特に専門に特化した部品等を扱う店もあり、行けば必ず感心するアイディアに出会います。これは決して世界標準ではありません。第一、中高生だけで電車で自在に訪れることができる安全性が確保されている都市自体、世界的に見たら当たり前のことではないのです。
 2. 朝ウォーキングに行くとまだ暗い中、火ばさみとゴミ袋を持ってゴミ拾いをしている方に出会います。頭が下がる思いです。誰にも評価されないことなのに黙々とゴミ拾いをされている。こういう方がいるから社会がもっているのだと強く思わされます。他の国では市街地の美化は行政の仕事であり、学校内の掃除も生徒にさせることはありません。
 3. 年末に放映されたBBCとNHK共作「ワイルド・ジャパン」は、4k映像の魅力が余すところなく発揮された作品でしたが、奈良公園の野生の鹿や番屋の人間たちと共存するヒグマをあんなふうに映像化されたら、妖精好きの英国人ならずとも日本は「魔法にかけられた島々」に見えてしまいます。

 日本では、食べ物のおいしさやアニメ、Jポップはいうまでもなく、建築や重工業、伝統産業などありとあらゆる分野で道を究めてしまっているので、日本を決して飽きることのない不思議の宝庫と言う外国人もいます。こういったものが外国人を引き寄せているのですが、深く知るにはやはりツールとしての日本語をやるしかない。英語で概要を理解できてもやはりわからないものは残るし、文化の全てが日本語という言語の中で育まれてきたのですから、どうしても日本語を学ぶ必要が出てくるでしょう。つまり、幕末に圧倒的な力を見せつけられて、英語を日本語に移し替えることなしには国の独立は守れないという状況で見せた必死さをもって、今度は外国人が日本語を学んでくれるレベルまで日本の文化を高めるのです。同様に日本人も、英語の世紀の中で日本語が亡ぶということを国家的危機とはっきり自覚して努力するということです。

 日本人が今の形の国語を失う危機に瀕したのは実はこれまでも何度かありました。幕末から明治半ばまで然り(明治政府初代文部大臣森有礼が、公用語として英語を採用すべきと主張したのは有名です。)、太平洋戦争の終戦直後然り。玉砕まで戦う日本人を見て驚愕したアメリカ人は、その原因を庶民が正しい情報を与えられていないせいであり、何よりもあのように難しい漢字を用いた新聞など読めるはずがないからだと考え、調査を行ったことが知られています。GHQの民間情報教育局CIEは全国270ヶ所の市町村で、15歳~64歳の1万7千百人を対象に日本語テストを行いました。その結果は、平均点は78.3点で日本人の識字率は97.9%という驚くべき高さが判明しました。戦後日本語のローマ字化政策を阻止したのはこの圧倒的な識字率でした。本当に危ないところだったのです。幕末にアメリカの植民地となった後の日本語の姿を想像できないように、戦後ローマ字化を強制された後の日本語の姿も想像できません。日本の文化の真骨頂は古来からハイブリッドであり、漢字とかなで表される日本語がその代表です。これが全部ローマ字化され漢字が失われていたら、戦後の復興はあったでしょうか。さらに深刻なのは70年後の今頃はもう江戸時代の書物にさえ容易にアクセスすることができなくなっていただろうということです。つまり固有の文化を失っただろうということです。

 「国家的な生き残りをかけて日本の文化、その中核たる日本語を本当に厚みのある言語にする」と言いましたが、特別なことはしなくてよいのです。「これまでのあり方を見失わず、日本語で本を読んで考える。」 お笑い芸人が芥川賞をとる・・・すばらしいことで、こういうのが日本の底力です。外国人が「日本語を学ぶことなしには安全と快適さは手に入らない」と思うレベルまで、文化を高めればよいのです。なにしろ世界が難民問題やテロで出口の見えない困難にあえいでいる時、国民的男性グループの解散問題で国内が大揺れ、総理大臣を始め閣僚まで発言し、庶民はCDの購買運動を起こして解散を阻止しようとするなどという国は他にないでしょう。そしてこれは大事なことですが、自分の正しさを主張して相手の責任を追及する姿勢ではなく、両者の仲立ちとしてなんとか話をまとめようとする働きが機能したこと、それを受けてきちんと謝罪できたことで問題は収束したのです。心配してくれる人、支えてくれる人に「ありがとう」と感謝の気持ちが持て、「そこをなんとか」とまとめる人がいて、一番大事な「ごめんなさい」がきちんと言える…ディベートの語法が身体化してしまった人には望むべくもないことでしょう。でもこの方法で「国難」を乗り越えられたのですから、それはそれでよかったのです。

 この手法を理解するにはやはり日本社会に入っていかざるを得ない。ヘルベルトは「日本に来ると着いた瞬間に脱力する。」と言っていましたが、ドイツは安全な国で私は危ない状況にあったことも目撃したこともないのですから、この発言は治安のレベルではなく文化的風土の文脈で理解すべきでしょう。日本語話者の社会は世界標準からかなり外れていますが、平和で快適ならいいんじゃないでしょうか。数十年前知った英語の単語で一番驚いたのは、アメリカ空軍の大陸間弾道ミサイル名がPeacekeeperであったことでした。この発想は日本人にはない、語義矛盾であると誰でもわかる。安全というものがこれほど得難い時代、日本のガラパゴス化を促進することがかえって日本語を世界に流通させることになるだろうと私は考えています。平和を希求する人にだけ羨望される薫り高い文化を持った国、そこに入るには日本語が必須というのが日本の国家戦略であるべきです。日本は英語が流通する世界とは違う地平にあることを公然と表明すべきなのです。水村美苗ふうに言うなら、「日本語が栄えるとき 英語の世紀の或る種の終わり」ということです。

「平和をこそ、わたしは語るのに
 彼らはただ、戦いを語る。」      (詩編120編 7節)