2016年2月24日水曜日

「海外への留学生数について」

 「かつて米国の大学に惹きつけられていた日本人学生が、内に籠もるようになった」という記事がワシントン・ポスト紙に掲載されたのは、2010年4月11日でした。その頃、日本人の海外留学者数が減少しており、学生が内向きになったなどと言われていましたが、実際のところどうなのでしょう。
 留学者の人数を把握するのにすぐ手に入る資料は、ユネスコ統計局,OECD,IIE等における統計によるいわば受け入れ側のもの(資料A)と、日本学生支援機構の調査によるいわば送り出す側の大学等が把握しているもの(資料B)があるのですが、例えば2012年の主な留学先とその人数は次の通りです。

(資料A)                       (資料B)
 1 中国        21,126人          1 ばアメリカ合衆国  15,422人
 2 アメリカ合衆国  19,568人          2 カナダ                 6,333人
 3 イギリス       3,633人          3 中国            5,796人
 4 台湾           3,097人           4 オーストラリア      5,768人
 5 ドイツ             1,955人           5 イギリス            5,641人
 6 オーストラリア       1,855人                     6 韓国                    5,542人
 7 フランス              1,661人           7 ドイツ                  2,495人
 8 カナダ              1,626人                     8 フランス            2,290人
 9 韓国                  1,107人                     9 タイ                   1,909人
10 ニュージーランド     1,052人                    10 台湾                 1,680人

(資料B)は年度統計であるため集計時期が3か月ずれるということがあるにしても、二つの数字はあまりに違うので整合性をつけるのは難しいように思われます。その原因としては「高等教育」の定義が違うのか、「留学」の定義が違うのか、くらいしか思いつきません。この時点で、(資料A)を二次的な参考資料とすることにし、(資料B)について考えることにしました。日本において調査に応じない大学等や在籍学校に届けずに留学している学生が数多くいるとは考えにくく、この資料の方が信頼がおけると思うからです。特に中国への留学者数はどう扱っても説明がつかないものが残るように思います。(あと考えられるのは企業や政府および公共団体等からの派遣ですがそれほど多いのでしょうか。)
 さて、それぞれの資料には次のような別個のグラフがついています。

(資料A)   留学生数の推移を示す1983年から2012年までの折れ線グラフ
(資料B)   留学期間別内訳を示す12012年度及び2013年度の棒グラフ

(資料A)のグラフによると、1983年の留学者総数は18,066人、2004年の留学者総数は82,945人ですから、これだけ見ると20年間で約4.6倍になったことになります。ずっと右肩上がりに増えていた総数が2003年に一度74,551人まで下がり、翌年にはこれまでで最多の82,945人まで増えますが、その後は2011年の57,501までまで一貫して減少し続けています。しかしこれでも1983年の3.2倍近い数です。これを少ないと言ってよいのかわかりませんが、その内訳を見てみることにします。

 ここで出番となるのが(資料B)の棒グラフで、留学期間の傾向を推測するのに役立ちます。2012年度の例でいうと次の通りです。
留学期間1年以上   2.1%    (1,408人)
6か月以上1年未満 17.7%   (11,597人)
3か月以上6か月未満  11.0%  (7,197人)
1か月以上3か月未満  11.7%  (7,667人)
1か月未満           56.9% (37,197人)

3か月未満で重要な研究ができないとは言いませんが、この結果からするとおそらく留学者の7割程度は語学習得や国際交流を主目的とする留学なのではないかと想像されます。これはこれで非常に意味のあることですが、いわゆる研究のための留学者は年間1万人~2万人といったところでしょうか。決して少ない数ではないように思います。

 ワシントン・ポスト紙が懸念するように、米国への留学生が減っているのは間違いないでしょう。なにしろお金がべらぼうにかかる。非営利団体カレッジボードの調査によると、州政府が財政難から補助金を削ったせいで、2011~12年度に全米の公立大の学費値上げ幅は平均で前年度比8.3%に達したとのこと。授業料や部屋代、食費など留学中の9カ月間にかかる諸費用の平均は、2011~12年度が公立の4年制大学で3万3973ドルで、3年前に比べて16%も上がっているというのですから、私費留学が経済的に困難になってきていることは疑いありません。ちなみにハーバード大は4万866ドル、コロンビア大は4万7246ドル)

 しかし、慶応大学や早稲田大学が公表している資料によれば、大学間の学生交流に関する協定に基づいて行われる交換留学生は増えていることがわかります。これは経済的負担が少なくて済むからと思われ、早稲田のデータでは、294人(2010年) → 326人(2011年) → 314人(2012年) → 423人(2013年) → 559年(2014年)となっています。
ちなみに早稲田の場合、長期派遣学生の留学先の第一位は2010年から2014年までずっとアメリカです( 387人 → 422人 → 529人 → 571人 → 567人 )。 2位と3位はイギリスと中国が分け合っていますが、いずれも100名前後ですから、いかにアメリカへの留学生が圧倒的に多いかわかるでしょう。

 確かに1994年~1997年の期間は、アメリカへの留学生数は日本人が世界第1位でした。1998年以降は中国が日本を上回り、2011年、日本の留学生数は、中国、インド、韓国、サウジアラビアなどに大きく引き離され、7位になっています。人数的には中国の十分の一です。しかし、そもそも人口統計上この年代の若い人の数が全く違いますし、10位までの国名は5位のカナダを除けばいわゆる西洋諸国は一か国もありません。(6位台湾、8位ベトナム、9位メキシコ、10位トルコです。) 

 (資料A)のグラフで、2003年に留学者数が減っているのは前年のアメリカ合衆国における9.11テロの影響が考えられますし、(資料B)で中国への留学生が2013年度に前年比マイナス30%なのは尖閣諸島国有化に端を発する反日デモが影響しているかもしれません。様々述べてきましたが、命の危険も伴う昨今の状況の中で、留学生は自分の能力や環境に応じて留学によって得られるものと失う可能性のあるものを天秤にかけて、賢く現実的な対応をしているだけだというのが結論です。



2016年2月20日土曜日

「紅春 80」

東京に帰る日が近づくとりくのことが可哀そうになってきます。しかしここは、心を鬼にしてビシッと諭しておかなければなりません。
「姉ちゃん、明日からいないからね。兄ちゃんの言うことよく聞いて頑張ってください。兄ちゃんは忙しいから、わがまま言って迷惑かけてはだめだよ。」
何のことはありません。りくがわがまま言うのは私に対してだけなのです。兄の話では、通常の生活に戻るのに少し時間がかかるそうですが、その後はお利口に留守番しているとのこと。

 先日福島を離れるとき、いつものように早朝暗いうちから起きて、りくの散歩をし、おにぎりを握り、部屋の片づけをして荷物をまとめ…ということをしていたら、りくはやおら階段の下に行って上に向かって吠えていました。こんなことは初めてで驚愕しました。

 以前私が早朝コンビニに買い物に行った時も吠えましたが、これは「姉ちゃんがいなくなったから探して。」です。また兄が車で迎えに来る前に、「姉ちゃん連れてくるからね。」と言った時も吠えて大騒ぎとなり、それが禁句になったことは書きました。これはこれから起こることへの期待でいっぱいになったとも考えられますが、単に「姉ちゃん」という言葉に過剰反応しただけという可能性もあります。

 しかし今度は、私の動きを分析してこれまでの経験からいなくなると予測し、「姉ちゃんいなくなるから、止めて。」と兄に助けを求めたのです。犬に未来という時間の観念があるのかわかりませんが、りくにはこれから起こることの予測はたっているのです。そして自分ではどうすることもできない事なので兄に助けを求めた・・・犬としては驚くべきことです。りくはどこまで賢くなるのでしょう。普段、私が手玉に取られてしまうのも無理からぬことかもしれません。

2016年2月17日水曜日

「温室は満室」

 アンスリュームという熱帯の植物を初めて購入したのは確か秋のお彼岸のころでした。その後、温室で様子を見てきたのですがなんと5か月になろうとしている今もほとんど変わらぬ状態で咲いています。途中、一鉢では可哀そうかなと思いもう一鉢買い足しました。温室はもともと3階建てなのですが、 2・3階をぶち抜きで丈の高いものを入れられるようにして今はそこに置いています。1階部分には一度枯れかけて復活し弱弱しいながら花を咲かせているベゴニアが数鉢おり、満室に近い状態です。

 ところが先日訪れた花屋で今まで見たことのない花を見つけてしまいました。関心がなかったからこれまで目に入らなかっただけかもしれませんが、定期的に留守する生活スタイルでも育てやすい肉厚の葉をもつ植物の存在に気付いたのです。今回買い求めたものの一つはカランコエのクイーン・モアフラワーズという花です。その名の通りカランコエにしてはかなり大きな花房がたくさんついており、色も何色かあるようですが、うちのはまるで白バラのように花が房になって咲いています。もう一つは、とげのないサボテンタイプの小さな植物です。これは多種多様なものが出ているようですが、とりあえずセダム属とクラッスラ属のミニサイズを買ってみました。花が咲くことはないのでしょうが、葉自体の先っぽが赤く色づいて花のように見えます。花屋でたくさん並んでいたところは本当にかわいかったな。

 カランコエのバラ裂きは天井から吊るしいわば中二階に、肉厚ミニの子たちは丈が短いのでいわば屋根裏部屋に配置しました。屋根裏といっても明るいので住み心地はいいはずです。様子を見て大丈夫そうなら、種類の違う子たちを増やそうと思っていますが、屋根裏以外は満室なので他の花はしばらく無理です。

2016年2月15日月曜日

「強運の日本語」

 自らの文化を世界的に特異なものと主張する見解にはよほど注意してかからないといけないと、常々思っているのですが、こと日本語という言語については冷静に考えてそういう側面を否めない気がします。水村美苗は、『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』の「四章―日本語という 〈国語〉 の誕生」において、大陸から漢字が渡来した時を次のように述べています。

 「周知のように、十五世紀に西洋の大航海時代がぱじまるまで地球の多くの部分は無文字文化であった。それが、朝鮮半島との近さが幸いして、日本列島は、四世紀という、太平洋に浮かぶほかの島々と比べれば僥倖としかいいようもない時期に漢文が伝来し、無文字文化から文字文化へと転じたのである。文字文化の仲間入りをしたのを記念した「文字の日」を作り、ブラスバンドに演奏させぽんぽんと花火を上げて祝いたいような―あるいは、漢文明に感謝の意を表して、銅鑼を打ちパチパチと爆竹を鳴らして祝いたいような慶ばしいできごとである。」

 文字の渡来という歴史的な出来事を伝える熱が伝わってくる、こちらまでうれしくなるような表現です。これが最初のそして最大の幸運でした。

 象形文字である漢字を、そのうち「音」として用いる万葉仮名が使用されるようになり、表意文字と表音文字の両方を用いた表記体系になっていったこと、これが第二の幸運です。いいとこ取りの発想で漢字を改変し独自の発展を遂げたことにはそうなる必然があったのでしょう。本来のものを保持しつつ利便性を追及しやがては別のものにしてしまうというのが、この国が現在でも採用している変わらぬやり方です。

 かなは学問の言葉ではありませんでしたが、漢字使用を禁じられていた女に日常使える書き言葉があったということ、これが第三の幸運でした。1000年前の女が書いたものを今読める、読めるどころか当時の社会に仰天したり登場人物の心情に共感さえできるというのはタイムマシンを持っているのと同じで、すごいとしか言いようのないことです。

 鎌倉時代後期にはもう漢字ひらがな交じり文で流通していた書き言葉が、江戸時代になると300年の太平の世のおかげで、非西洋圏では例外的に資本主義が発達しており、庶民にも活字文化が行き渡っていたこと、これが第四の幸運です。

 日本がその国語を失う危機は何度かありました。アヘン戦争(1840年6月~1842年8月)による清国の敗北は学問の言葉としての漢文を揺るがすに十分だったでしょうし、またとペリーの浦賀沖来航(1853年7月8日)により現前した西洋の圧倒的科学技術の優位は英語公用語化の引き金になりかねない状況でした。

 「日本に明治維新があったとき、非西洋国圏で、植民地や保護国にされたり、分割されたり租借地として部分的に取り上げられたりしなかった国は、なんと、日本のほかには、五指で足りるほどしかない。ユーラシア大陸では、朝鮮、シャム、アフガニスタン、そしてオットマン帝国の一部。アフリカ大陸ではなんとエチオピアのみである。」と水村美苗は記しています。

 そしてこの時、第五の幸運というか日本語にとって奇跡的なことが起きたのです。憂国の知識人がこぞって通常ありえないような努力を傾けて、国家的事業として夥しい数の翻訳をおこない、それまで知られていなかった概念を日本語に移し変えるという作業をおこなったのです。結局日本は、明治政府初代文部大臣森有礼の英語公用化論に与せず、お雇い外国人を留学経験者にすげかえていくという選択をしました。この時輸入された新たな概念が即座に流通する素地がすでにあったことが幸いしました。明治5年出版の福沢諭吉の『学問のすゝめ』の初編が20万部以上、明治13年には全17編の合計が70万部売れたとのことです。(ちなみに明治初期の人口は3500万人程度と言われています。)こうして歴史上、日本語が自然の法則に反する速度で、著しくその能力を増した時期が一度だけあったのです。これほど人が母国語に情熱を注ぎその威力を増大させた例は他には皆無ではありますまいか。

 もちろん一番最近国語を失う危機に瀕したのは、太平洋戦争直後のGHQにょるローマ字化政策です。結局、民間情報教育局CIEによる全国270ヶ所の市町村、1万7千百人を対象にした日本語テストにより、日本人の驚くべき識字率が判明し、日本語のローマ字化は退けられました。これが第六の幸運です。

 このような事実を踏まえると、今私たちが手にしている日本語はいかに幸運の産物であったかがわかります。人類史の中で多くの言語が消滅していったにもかかわらず、日本語は僥倖に僥倖が幾重にも重なった結果として、今ここにあるのです。この事実はいくら強調してもしすぎることはないでしょう。言語にとって運がいいということは決定的に重要なことだからです。「よくまあご無事で・・・。」という私的な感慨をもって、この極東の島国に神が微笑んだような出来事を言祝ぎたいと思います。

2016年2月10日水曜日

「自分への注意喚起」

 老化現象なのか、気をつけなければならないと思うことが増えています。第一は、よく物をなくすこと。これは大したものでなくても結構こたえます。先日は手をすり抜けて床に落とした針がどうしても見つからず、磁石や掃除機を使っても回収できなかったのでとても気が沈みました。福島でなくてよかった、りくが怪我したりしたら大変だったと思いました。後日あり得ないほど離れたところに落ちていたのが見つかりほっとしましたが、他にも身の回りのものが突然消えたとしか思えないしかたでなくなるので、「ああ、だめだなあ」とがっくりきます。

 第二に、これまでなかった勘違いや失敗をすること。先日は朝目覚めて5時だと思い、いつものように支度してウォーキングに出かけました。冬だし天気は曇りなので真っ暗なのはいつものことです。帰ってきて朝食の準備をしながらニュースを聞こうとラジオのスイッチを入れました。(このラジオはテレビも入ります。) いつもやっているはずのニュースではなくなぜか通販。別の局に変えてみてもやはり通販。ここにいたってさすがにおかしいと思い、時計を見るとなんと午前3時。携帯でも時間を確かめ、ぞっとしました。午前2時半にウォーキングに出かけていたのです。これまで三面記事に載るような事件等が深夜に起こるたび、「そんな時間帯に出歩くから事件に逢うのだ、自業自得。」と思っていたのです。その自分が丑三つ時に平気で出歩いていたとは。こんな時間に外出したのは人生で初めてです。無事でよかった。免許証を返納した時警察からもらったピーポ君の反射バンドを腕に巻いていたおかげでしょうか。でも実は、この腕バンドもつい最近失くしてしまいました。命にかかわることでなくてよかったのですが、本当にもう少ししっかりしなければと自分を戒めています。

2016年2月5日金曜日

「英語の世紀を生きる日本語」

 水村美苗の『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』が出たのは2008年でしたが、その最大の功績は誰もが肌で感じていたことをずばりと言い当てたことです。それは世界の公用語は英語であり、もはやその他の現地語は学問の言葉ではなくなりつつある、日本語も同様であるという暗澹たる近未来でした。 

 この分析に対する対処方法は3つでしょう。個人的な生き残りをかけて英語話者になる方向が一つ。子供をインターナショナルスクールに入れたり、マレーシアに母子で移り住んだりして子供の英語習得を目指す方たちがこれです。その理想の姿はおそらく錦織圭なのでしょうが、彼は国内のジュニアの大会で優勝してスカウトされたテニス留学で語学習得目的の留学ではありません。

 二つ目は国家的な生き残りを願って英語重視の姿勢をとることで、文部科学省の方向性がこれです。おりしも2009年4月から2年間の移行期間を経て、2011年4月から小学5・6年生に必須領域として「外国語活動」が取り入れられました。2018年からはこれが小学3年生からになり、東京オリンピックのある2020年に完全実施となるとのこと、将来的に英語で討論・交渉できることをめざした人材育成を目指しているのでしょう。この方たちが念頭においているのはシンガポールのようなビジネス立国であり、その中心は金融業だろうと思います。いったい成り立ちも国土や人口もあまりに違う1億2千万の国民国家のあり方を真剣に考えているのでしょうか。国を憂いてのことなのでしょうが、見当違いの方向ですし時期遅れです。外国人にびびらず英語を用いて意思疎通を図る態度ならほぼもうできているのではないかと思いますし、英語を母語とする人と討論や交渉をして勝てると本気で思っているのでしょうか。
 また、もうすでに蓋然性程度ならお互いが母語で話してコミュニケーションできる機器がパナソニックから出ています。今後ますますその精度や翻訳までのスピードは上がることでしょう。他の授業時間を削ってまで英語だけにあまりに多くの資本と労力を投入してどうしようというのでしょう。望むらくはせめて授業にディベートを取り込むような最悪な教育だけはやめてほしいと思いますが、きっとやるのでしょうね。

 三つ目は国家的な生き残りをかけて日本の文化、その中核たる日本語を本当に厚みのある言語にすべく努力をするという道です。水村美苗は漱石の『明暗』の続編を書くほどの日本文学者ですから、『日本語が亡びるとき』を書いた時、自分の表明が日本人にどのような影響をもたらすか考慮したはずです。日本人はこのような国家的危機にあたって手をこまねいている民族ではない。このことは幕末から明治にかけて欧米の植民地化を阻止した歴史を見れば明らかでしょう。地理的・世界史的状況が日本にとって有利に働いたとはいえ、江戸時代までの文化的厚みなくして独立の保持が可能だったかどうかちょっと考えてみればわかるはずです。

 この点では黒船来航時と同様、英語と言う第二の黒船に脅かされる今もちょっとした世界的状況が日本に有利に働いています。2014年に1341万人だった訪日外国人の数が2015年には1973万人になったという報道がありました。2013年には1036万人だったのですから2年で2倍近くになったということになります。アジア諸国からの買い物目当ての人々が多いのでしょうが、明らかに欧米系の人も増えています。来日外国人に密着したり、街頭インタビューをもとに外国人が日本をどう見ているかといったテレビ番組が多くなり、最近一番印象に残ったのは、「日本のがっかりしたところランキング」でした。3位の「電車が混んでいる」、2位の「物価が高い」は納得の結果でしたが、驚いたのは1位が「特になし」だったことでした。また感心したのは、滞在期間に応じて皆十分立派に日本語を話していたこと。日本語は特殊な言語なので外国人には習得困難という言説は、少なくとも話し言葉としては根拠のないものだったようです。

 日本の特異性という観点から、とりとめのない例をいくつか挙げます。
 1. 秋葉原に限ったことではありませんが、ビルが丸ごと電化製品売り場という建物が日本では当たり前にあります。私はあれほどの品ぞろえを持つ大型量販店をドイツでは見たことがありません。秋葉原では特に専門に特化した部品等を扱う店もあり、行けば必ず感心するアイディアに出会います。これは決して世界標準ではありません。第一、中高生だけで電車で自在に訪れることができる安全性が確保されている都市自体、世界的に見たら当たり前のことではないのです。
 2. 朝ウォーキングに行くとまだ暗い中、火ばさみとゴミ袋を持ってゴミ拾いをしている方に出会います。頭が下がる思いです。誰にも評価されないことなのに黙々とゴミ拾いをされている。こういう方がいるから社会がもっているのだと強く思わされます。他の国では市街地の美化は行政の仕事であり、学校内の掃除も生徒にさせることはありません。
 3. 年末に放映されたBBCとNHK共作「ワイルド・ジャパン」は、4k映像の魅力が余すところなく発揮された作品でしたが、奈良公園の野生の鹿や番屋の人間たちと共存するヒグマをあんなふうに映像化されたら、妖精好きの英国人ならずとも日本は「魔法にかけられた島々」に見えてしまいます。

 日本では、食べ物のおいしさやアニメ、Jポップはいうまでもなく、建築や重工業、伝統産業などありとあらゆる分野で道を究めてしまっているので、日本を決して飽きることのない不思議の宝庫と言う外国人もいます。こういったものが外国人を引き寄せているのですが、深く知るにはやはりツールとしての日本語をやるしかない。英語で概要を理解できてもやはりわからないものは残るし、文化の全てが日本語という言語の中で育まれてきたのですから、どうしても日本語を学ぶ必要が出てくるでしょう。つまり、幕末に圧倒的な力を見せつけられて、英語を日本語に移し替えることなしには国の独立は守れないという状況で見せた必死さをもって、今度は外国人が日本語を学んでくれるレベルまで日本の文化を高めるのです。同様に日本人も、英語の世紀の中で日本語が亡ぶということを国家的危機とはっきり自覚して努力するということです。

 日本人が今の形の国語を失う危機に瀕したのは実はこれまでも何度かありました。幕末から明治半ばまで然り(明治政府初代文部大臣森有礼が、公用語として英語を採用すべきと主張したのは有名です。)、太平洋戦争の終戦直後然り。玉砕まで戦う日本人を見て驚愕したアメリカ人は、その原因を庶民が正しい情報を与えられていないせいであり、何よりもあのように難しい漢字を用いた新聞など読めるはずがないからだと考え、調査を行ったことが知られています。GHQの民間情報教育局CIEは全国270ヶ所の市町村で、15歳~64歳の1万7千百人を対象に日本語テストを行いました。その結果は、平均点は78.3点で日本人の識字率は97.9%という驚くべき高さが判明しました。戦後日本語のローマ字化政策を阻止したのはこの圧倒的な識字率でした。本当に危ないところだったのです。幕末にアメリカの植民地となった後の日本語の姿を想像できないように、戦後ローマ字化を強制された後の日本語の姿も想像できません。日本の文化の真骨頂は古来からハイブリッドであり、漢字とかなで表される日本語がその代表です。これが全部ローマ字化され漢字が失われていたら、戦後の復興はあったでしょうか。さらに深刻なのは70年後の今頃はもう江戸時代の書物にさえ容易にアクセスすることができなくなっていただろうということです。つまり固有の文化を失っただろうということです。

 「国家的な生き残りをかけて日本の文化、その中核たる日本語を本当に厚みのある言語にする」と言いましたが、特別なことはしなくてよいのです。「これまでのあり方を見失わず、日本語で本を読んで考える。」 お笑い芸人が芥川賞をとる・・・すばらしいことで、こういうのが日本の底力です。外国人が「日本語を学ぶことなしには安全と快適さは手に入らない」と思うレベルまで、文化を高めればよいのです。なにしろ世界が難民問題やテロで出口の見えない困難にあえいでいる時、国民的男性グループの解散問題で国内が大揺れ、総理大臣を始め閣僚まで発言し、庶民はCDの購買運動を起こして解散を阻止しようとするなどという国は他にないでしょう。そしてこれは大事なことですが、自分の正しさを主張して相手の責任を追及する姿勢ではなく、両者の仲立ちとしてなんとか話をまとめようとする働きが機能したこと、それを受けてきちんと謝罪できたことで問題は収束したのです。心配してくれる人、支えてくれる人に「ありがとう」と感謝の気持ちが持て、「そこをなんとか」とまとめる人がいて、一番大事な「ごめんなさい」がきちんと言える…ディベートの語法が身体化してしまった人には望むべくもないことでしょう。でもこの方法で「国難」を乗り越えられたのですから、それはそれでよかったのです。

 この手法を理解するにはやはり日本社会に入っていかざるを得ない。ヘルベルトは「日本に来ると着いた瞬間に脱力する。」と言っていましたが、ドイツは安全な国で私は危ない状況にあったことも目撃したこともないのですから、この発言は治安のレベルではなく文化的風土の文脈で理解すべきでしょう。日本語話者の社会は世界標準からかなり外れていますが、平和で快適ならいいんじゃないでしょうか。数十年前知った英語の単語で一番驚いたのは、アメリカ空軍の大陸間弾道ミサイル名がPeacekeeperであったことでした。この発想は日本人にはない、語義矛盾であると誰でもわかる。安全というものがこれほど得難い時代、日本のガラパゴス化を促進することがかえって日本語を世界に流通させることになるだろうと私は考えています。平和を希求する人にだけ羨望される薫り高い文化を持った国、そこに入るには日本語が必須というのが日本の国家戦略であるべきです。日本は英語が流通する世界とは違う地平にあることを公然と表明すべきなのです。水村美苗ふうに言うなら、「日本語が栄えるとき 英語の世紀の或る種の終わり」ということです。

「平和をこそ、わたしは語るのに
 彼らはただ、戦いを語る。」      (詩編120編 7節)




2016年2月2日火曜日

「紅春 79」

今年の冬は異常な暖冬で12月に半袖の人がいたり、椿が開花したというニュースが流れたりしました。この異例の暖かさは動物にも影響が表れています。いつもは、三月ころ起こるりくの抜け毛が今年は1月初旬に始まりました。体がもう春と思って下毛が抜け始めたのです。そこへ下旬のこの寒波。急にマイナスまで気温が下がり、りくも調子が狂ったようです。水分の多かった最初の積雪は翌朝凍って最も歩きにくい路面となり、りくも散歩中滑ってこけそうになっていました。次の粉雪の新雪の中では大喜びで飛び跳ねていましたが、散歩の後はいつもと違ってすぐに家に入りたいと言いました。やはり寒いのでしょう。

 体温の維持にエネルギーを使うのでごはんをたくさん食べさせたいのですが、ドッグフードだけだとあまり食べません。それでいて少し震えていたりするのでしかたなくトッピングを増やす。するとおいしいので食べますが、「チーズたっぷり、プリーズ。」がだんだん、「とろけるチーズがいいな。」になり、やがて「温めてください。」になって、とめどなく要求が高くなってきました。りく、姉ちゃんはコンビニじゃないぞ。