2015年4月13日月曜日

「毎日お説教」

 教師をしていた頃、私は毎朝ショートホームルームで連絡事項の伝達のほかに、生徒によく説教しました。「遅刻をするな」「提出物の期限を守れ」「掃除をさぼるな」「学習時間が短い」「夜更かしはするな」・・・といった趣旨のことを様々なシミュレーションを交えたり周囲の人の立場に立って考えたりさせながら、いろいろな話をしたのです。毎日小言を言われて生徒はいやだろうなと思っていたのですが、連絡事項を告げている時は寝ている生徒も説教を始めるとむっくり起きたりしました。
週に一度のロングホームルームでも、最近の生徒の状態は目に余ると思った時などは、「今日はまず説教です。」と言って叱ったりしたのですが、そういう時の生徒は目をキラキラさせて聞いているのです。なんだかうれしそうなのです。まさかと思いましたが生徒は叱られるのが好きなのでした。人間はきっときちんと叱られたいのです。

そんなわけで私はほぼ毎日説教をしました。ということは毎日言うべきことがあったということで、それじゃあ説教の効果がないと思われるかもしれませんが、一度言うだけで済むようなら苦労はしません。(とはいえ、「遅刻をするな」という小言を聞くのが間に合って学校に着いている生徒だけ・・・というのは問題ですが。)
生徒というのは毎日支えてやらなければならないのです。でもそれは大人でも同じではないでしょうか。

クリスチャンと呼ばれる人々は日曜は教会に行きます。いつも神様の御心に適う生活をしたいと思いながら全然できず、毎週礼拝に行って罪の赦しを求め神様の憐みを請い、人を生かす御言葉を聴いて新たに一週間を始めるのです。クリスチャンが教会に行くのは、神の言葉を聴くためです。礼拝で語られる牧師の言葉は、通常「説教」と呼ばれます。それはこの世で普通に生活している時には決して聞くことのできない言葉なのです。聖書の御言葉は一人でも読むことはできますが、やはりわかるように、また読み違いの無いように説教者から聴くのが一番です。聴いて「そうだったのか。」と腑に落ち、はっきり力がみなぎってくるということがよく起ります。神様からの御言葉は、毎週どころか本当は毎日必要なのです。ほらね、毎日説教の支えが必要なのは、子供と変わらないでしょ。