2015年4月28日火曜日

「紅春 62」


 犬が本来群れで生きる動物であることは確かでしょうが、縄文の昔から人間と暮らしてきた柴犬は自分も人間と同じ種類の個体であることをいささかも疑っていないようです。りくは人様に対してあまりにそっけない対応をしてがっかりさせられることが多いですが、家族に対する対応は全く違います。その理由は「家族だから」以外ではなさそうです。「かわいがってくれる人だから」とか「食べ物をくれる人だから」というのは、全く関係ないようです。

 私が久しぶりに帰ると、りくは大騒ぎで私に飛びついてきますが、その時の顔は真剣すぎで怖いほどです。可能な時は兄が駅まで来てくれますが、一度「姉ちゃんを迎えに行ってくるね。」と言って出ようとしたらりくが大騒ぎになってしまい、それ以来迎えに出る時「姉ちゃん」という言葉は禁句になったと言っていました。

 兄が仕事から帰ってくるときも大変な騒ぎなのです。家の中で玄関のあちら側の車のテールライトを確認すると、何が起こったのかというくらいの勢いで、「兄ちゃん帰ってきた。」と私に知らせに来ます。それからうれしさをこらえきれずに、私にかかってきたりぬいぐるみをビュンビュン振り回したりし始めます。(今のお気に入りぬいぐるみベストスリーは、お月様、ペンギンさん、あひるさんです。)
「りく、やめなさい。あ~、ペンギンさんの腹わたがーっ。」
中綿があたりにとびちっています。すると今度は、こんなに頭を振って大丈夫なのかと思うほど、お月様を左右に高速で振り回します。
「なんでそんなにうれしいの。」と聞くと、「家族ですから。」とどこかの白い犬のように答えます。

2015年4月25日土曜日

「都バスの旅 その2」 

 以前、一日券で回れる都内一周ルート(東京駅から品川経由で新宿、新宿から池袋経由で錦糸町、錦糸町から東京駅へ戻る)を紹介しましたが、2年前に東京駅から田町方面を通って目黒へ抜けるルートが廃止されたのは本当に残念なことでした。今回紹介するのは電車では行きにくい2箇所(いつなくなってもおかしくない路線を含む)を巡るルートです。タイムスケジュールは休日の目安です。

8:41  東京駅丸の内北口バス乗り場 錦糸町行き乗車、 東陽町駅前降車
9:23   若洲キャンプ場行き乗車
東京ベイブリッジを見学、エレベーターで昇って上を歩けます。
10:58  新木場行き乗車、新木場から東陽町駅前乗り換えで門前仲町降車
門前仲町で軽食
12:27  東京駅丸の内北口行き乗車、日本橋降車
13:10  南千住駅西口行き乗車、清川二丁目降車
カフェ・バッハにて休憩
14:29  吉原大門バス停まで歩き、池袋東口行き乗車
15:30  池袋駅解散

最新の時刻表、バス乗り場の位置は都バスのホームページでお確かめください。

2015年4月21日火曜日

「いろいろな聴き方」

 視力が落ちてから時が過ぎ、最近では本を読むという気力がとんとなくなりました。その代り、多くの情報を「聴く」ことによって得るようになりました。テレビやラジオはそのまま聞けばよいのですが、活字になっているものでも電子データであればパソコンで読ませることができるので、本当にありがたい時代だなと思います。

 読むのと違って聞く方は例えば家事をしながらでもできるので便利といえば便利です。コードが5メートルもあるヘッドフォンを購入し音源に付けると、家の中で普段生活する範囲をだいたいカバーできるのでなかなか快適です。こんな厚い本はもう読めないだろうと思っていたものでも、電子データをコピーしワードに貼れば聴くことができるのです。旧約聖書などもそのうちの1冊です。著作権が切れた口語訳ですが、新共同訳より優れているところもあるし、長いことこれが使われていたのですから問題はないでしょう。音声ソフトの読み違いはありますが、これも頭の体操と思いながら聴いています。

 もちろんパソコンとつながれたままでは不便なので、ものによっては音声データをICレコーダーに入れています。これなら身軽ですし外でも聴けます。もともと音声データになっているものはらパソコンを使ってレコーダーにコピーして入れればいいし、そうでない場合は時間がかかりますが、音声を流しながら録音し音声データにします。雑音も入りますが気にしません。

 ところが最近、紙に印刷された情報を「聴く」可能性も少し真面目に探ってみようかと思うようになりました。以前からある方法なのですが、OCRソフトを用いてスキャナーで紙ベースの情報を読み取り、文字データに変換するのです。教材などを作るとき使用したこともあったのですが、機器がかさばるわりに読み取りの精度が低かった記憶があり、使う気にはなれなかったのです。(盲学校には「よむべえ」というパソコンなしの単体で使える機器がありましたが、やはり小さいとは言えないし、何より高額でした。) しかしひょんなことから、家庭用のプリンターに今はコピー機能がついていることに気づき試してみたら、以前より格段に読み取りの精度が上がっていると感じました。探求の余地はありそうです。完璧な正確さを求めず話の概要がわかればいいだけならなおさらです。あまり長いものは無理にしても、もう一つ「聴く」手段が見つかってなんだかわくわくしてきました。

2015年4月17日金曜日

「感受性の相違」

 りくを見ていて感心することは、独自のスタイルを持っていてそれを貫いているということです。犬の群れの中で生活するような環境だとどうなるかわかりませんが、犬はしつけというレベル以上には持って生まれたものを変えることはできないようです。よく飼い主に似てくるなどと言いますが、犬によるでしょう。りくを見る限りそんなことは全くありません。たぶん犬は各個体がそれぞれに自分のスタイルで生きており、また当然のことながらそれで悩むことなどないのです。

 人間の場合は社会の中でしか生きられない動物ですから、できるだけ社会のメインストリームに合うように自己を変化させていきます。しかし、それがしっくりこないと感じている人も少なからずいます。私はごく小さなころから人と感じ方が違うなと思うことがありましたが、今でも日常の出来事や習慣、美術的な趣味、言葉に対する反応等で大方の人の感覚が理解できないということがよく起きます。そういう時寂しい気持ちはしますが、特に生活の基盤にかかわることではないので、昔からマイノリティとして生きてきたのだからそんなものだろうと諦めています。

 芸術に携わりそれを生業にしている人だったら大いに悩むところでしょう。よく世に認められない芸術家が世間の人を馬鹿呼ばわりしたり、無理解に恨みを募らせたり、死んだ後に作品が評価されたりという話を聞きますが、そういう人はおそらくごく少数で、大多数の人は知らず知らずでもあれ世間の評価に合うように、少しずつ自分を変えてすり寄ってしまうでしょう。歴史に名を残すような人は、どんなに酷評されてもかたくなに自分のスタイルを変えず、いや変えられず、一生を終えた人なのだと思います。これは芸術に限りません。人からは不思議に見える生活でも変えられず続けていることならその人のスタイルであり、自分で変えられるようなものならスタイルでも何でもないのです。

 さっき飼い主に似るかどうかは犬によるといいましたが、自分のスタイルを変えられないという点で言えば、りくは飼い主に似ているのかもしれません。

2015年4月13日月曜日

「毎日お説教」

 教師をしていた頃、私は毎朝ショートホームルームで連絡事項の伝達のほかに、生徒によく説教しました。「遅刻をするな」「提出物の期限を守れ」「掃除をさぼるな」「学習時間が短い」「夜更かしはするな」・・・といった趣旨のことを様々なシミュレーションを交えたり周囲の人の立場に立って考えたりさせながら、いろいろな話をしたのです。毎日小言を言われて生徒はいやだろうなと思っていたのですが、連絡事項を告げている時は寝ている生徒も説教を始めるとむっくり起きたりしました。
週に一度のロングホームルームでも、最近の生徒の状態は目に余ると思った時などは、「今日はまず説教です。」と言って叱ったりしたのですが、そういう時の生徒は目をキラキラさせて聞いているのです。なんだかうれしそうなのです。まさかと思いましたが生徒は叱られるのが好きなのでした。人間はきっときちんと叱られたいのです。

そんなわけで私はほぼ毎日説教をしました。ということは毎日言うべきことがあったということで、それじゃあ説教の効果がないと思われるかもしれませんが、一度言うだけで済むようなら苦労はしません。(とはいえ、「遅刻をするな」という小言を聞くのが間に合って学校に着いている生徒だけ・・・というのは問題ですが。)
生徒というのは毎日支えてやらなければならないのです。でもそれは大人でも同じではないでしょうか。

クリスチャンと呼ばれる人々は日曜は教会に行きます。いつも神様の御心に適う生活をしたいと思いながら全然できず、毎週礼拝に行って罪の赦しを求め神様の憐みを請い、人を生かす御言葉を聴いて新たに一週間を始めるのです。クリスチャンが教会に行くのは、神の言葉を聴くためです。礼拝で語られる牧師の言葉は、通常「説教」と呼ばれます。それはこの世で普通に生活している時には決して聞くことのできない言葉なのです。聖書の御言葉は一人でも読むことはできますが、やはりわかるように、また読み違いの無いように説教者から聴くのが一番です。聴いて「そうだったのか。」と腑に落ち、はっきり力がみなぎってくるということがよく起ります。神様からの御言葉は、毎週どころか本当は毎日必要なのです。ほらね、毎日説教の支えが必要なのは、子供と変わらないでしょ。

2015年4月8日水曜日

「紅春 61」

いい季節になりました。向こう岸の土手の道は桜が満開です。寒かった冬に比べるとりくにせがまれて行く散歩もついつい回数が増えてしまいます。一度出るとなかなか帰りたがらないので、最近は帰る方向に向かっていきなり走り出すという技を使うようになりました。走るものを追いかけるのは犬の習性、りくも走り始めます。
「おっ、りく、速い、速い。」とおだてながら、家まで帰りつければ成功です。

 しかし必ずしもうまくいくわけではありません。途中で、
「あれっ、何かおかしい。のせられているのでは。」(その通りです。)
と思い当たったかのように、はたと足を止めることがあるのです。りくが動かなくなるともう仕方ないので、「りくの勝ち!」ということにして、ゆっくり帰ることになります。とにかく頭がよく何でも覚えているので、同じ手がいつも使えるわけではないのです。

 先日、春の風物詩、狂犬病の注射がありました。はがきが来たので東京に帰る日を1日ずらして行ってきました。ちょっと肌寒い朝、トイレ用品と念のため水やおやつも持って出かけました。道々、桜や水仙、ヒヤシンスをはじめ一斉に咲き出した路傍の花々を楽しむことができ、春の喜びを体いっぱいに感じられました。昨年と違う集会所に行ったのですが、近所の方の犬とすれ違い、「マルちゃん、早かったね。」とご挨拶しました。(なぜかこの二匹はお互い無関心。)

 結構歩いてきたし注射もしたので、終わってからりくにおやつをあげたのですが食べません。「一刻も早くうちに帰りたいって感じですね。」と、獣医さんに笑われながら帰ってきました。

2015年4月3日金曜日

「ドイツ航空機事故」

 事故直後からいやな予感がしていたのですが、今度の事故は人間による故意の墜落であったことがはっきりするにつれて世界中が沈痛な思いに包まれました。ことに交換留学から戻るところだった十数名の若い中高生が含まれていたことが悔やまれてなりません。

 事件を引き起こした副操縦士について様々なことがわかってきていますが、疾患があったとはいえごく普通の人のように思えます。むしろパイロットになるという夢をかなえただけでも恵まれた人だったと思うのですが、人生にはいろいろなことが起ります。日々の暮らしにあっては思い通りに行かないことが多いと不満を募らせたり、将来に不安を感じたりすることは誰でもあることです。でもこの人は、結局悪の力に飲み込まれてしまったのです。150人もの人を巻き添えにしたのは、その方々を自分の計画を際立たせる道具としか考えていなかったからでしょうし、自分の名が知れ渡り記憶されることを望んだのはある種永遠の名声を求めたのでしょう。「私の前にひざまずくなら全世界の権威と栄華をあげよう」と悪魔に言われて、その声に従ってしまった人なのです。どんなに機器が発達しシステムが整備されても、悪意をもって何かをしようとする人を止めることはできません。結局人なのです。とはいえ、何もかもが瞬時に伝わる現代の情報環境が、人間の思考を根底から変えつつあるのも事実でしょう。

 二十年前に母とヘルベルトと三人でドイツを巡り帰国する際、ヘルベルトのアドバイスで母とコックピットを訪れたことを思い出します。搭乗してから客室乗務員にその旨を頼んでおくと、離陸してずいぶん経ってからでしたが呼びに来てくれて母とコックピットに入れたのです。パイロットはドイツ人で、飛行中大変なことは何かと聞くと、「何もないよ。機械がみんなやってくれるから。」という答えでした。2、3分でしたが180度の雲のパノラマを味わうことができました。一般乗客が楽しみのためにコックピットに入れた時代があったなんて今では夢のようです。わずか20年前のことなのですが。

2015年4月1日水曜日

「桜の季節」

 新年度になりました。年度末は大抵次年度の準備ができぬまま新年度に突入するので、お勤めの方は大変だろうと思います。私は勤めているわけでもないのになんだか疲れたまま新年度を迎えました。昨日は御茶ノ水に行く用事があったので、九段経由で武道館の桜を見て行こうと思ったのですが、バスの乗り換えを間違えて見ることができませんでした。都内には桜の名所がたくさんありますが、普通に歩けないほどの人出を映像で見るとげっそりしてしまい、「別にいいか。」と思ってしまいます。

 今朝は本当に久々にジョギングに出かけました。日の出までまだ時間がありましたが、日が長くなったことが感じられてうれしくなります。舎人公園に着いて、桜の季節にこの公園に来たことがなかったことに気づきました。こんなに桜が多い公園だったとは。明染める空に見る満開の桜は見事でした。緑のヤナギと並んで立っている桜も多く、今日は公園を二周して春の景色を堪能しました。雨が降る前の柔らかな朝の空気に体もすっかりほぐれました。家族や知人、友人たちと桜の下でお弁当を広げて・・・というのも楽しいのでしょうけれど、なにしろ人混みが苦手なので、今朝のようなお花見が私には一番合っているようです。