数年ぶりに寝込むような風邪をひき(インフルエンザだったかもしれません。)、しばらく外出を控え家で過ごしました。その間沈みがちな気持ちを上げるために手仕事をしていろいろなものを作っていたら、来たのです、アイディア・グッズ作製の波が。使いようのない物がたくさんできましたが、そのうち「これはひょっとしたら・・・」という物ができました。だんだん楽しくなってしまい、どんどんアイディアが出ました。周囲の人が見たら、「また変なもの作ってるな。」という感じでしょうが、本人は脳内が沸騰したような状態で、「これは他の人にも便利かも。」と気持ちが高揚しているのです。
私は歌にはまったく疎いのですが、最近CMで流れる歌に思わず聴き入ってしまったものがありました。槇原敬之の「僕が一番欲しかったもの」という歌で、ふいに胸を衝かれたという感じでした。私もお世話になった人に何かを差し上げたいと思うことが時々ありますが、人が欲しいと思っているものと私があげたいと思うものが一致することはめったにありません。何を選択するかは相当難問ですが、もし本当に欲しいと思っているものをあげられたらとてもうれしくなります。最近はこの贈与こそが、人間を人間たらしめる根源的なものではないかと考えるようになりました。ようやく文化人類学の深遠な知見を心情として理解できたように思います。
今回の思いつきを四苦八苦しながら文章にし、へたくそな絵を描いて特許出願の申請書を書きました。特許制度が存在するのはおそらく一般に考えられているのとは逆に、或る発明を占有的に行使するためではなく、「すごくいいこと思いついたよ。」と多くの人に告げ、贈与するためなのです。先行技術を調べているととてもユニークな発想にぶつかり思わず微笑んでしまうということがあります。しかし、出願したもののなかで審査請求までしたものはそう多くはないようです。自分のアイディアを告知する最適の場として特許制度を利用している人もかなりいるのではないでしょうか。それは「これ面白いでしょ。使える人がいたら使って。」という意思表明であり、自分の発明を見て面白がったり喜んだりしてくれる人がいるだけで十分なのです。その気持ちはとてもよくわかります。
私は前述のビール会社の訴訟について何も知りませんが、その業界に携わる人が容易に考えつくようなことをS社が占有的に特許として取得してしまったとするなら、とてもつまらないことだし、特許制度の根本概念に反するのではないかと思います。何より創業者がそれを聞いたら嘆くか激怒するかするのではないでしょうか。