2015年2月13日金曜日

「画像の影響力」


 イスラム国による人質惨殺現場の画像を私は見ていないのですが、これを小学校の教材として授業で見せていた教師の話を聞いて唖然としました。私が見なかったのは見ればきっとうなされて眠れなくなるだろうと思ったからですが、心の準備もなく見る羽目になった子供たちが気の毒です。大人だって、裁判員裁判で証拠としての死体の写真を見せられてPTSDになったとして訴えている人がいるくらいなのに、画像というもののインパクトを軽く見すぎた行為だと言わざるをえないでしょう。

 これまでサイコパスによる犯罪史上特異な殺人事件が起こり、同様の映像を含む膨大なビデオやDVDが見つかっても、そういうものが犯罪を引き起こしているわけではないという議論が表現の自由のもと必ず主張されますが、本当でしょうか。中にはそういうものを暴力行為の代替行為として見ることで犯罪の防止に役立っていると、時に統計まで示して主張されることがありますが、まったくの詭弁だと思います。マーク・トウェインも言うように統計は方便としての嘘にほかならないのですから、こういう時は自分の感性を信じるべきです。

 人間は眼前に見える物に対して本当に無力です。絵画であれ、立体像であれ、写真であれ、動画であれ、とにかく目に見える物体なり現象なりに滅法弱いのです。旧約聖書に見るイスラエルの民は、十戒で「いかなる像も造ってはならない。」と命じられていたのに何度もあっさりアシェラ像や金の子牛を造ってしまうのは、目に見えるものがないと拠りどころがなかったからでしょう。またキリスト教界では、高校の世界史程度の知識でも、ビザンティン帝国で聖像禁止令が出され聖像破壊運動が盛り上がったことを思い出しますが、結局イコンが無くなることはなくその後発展していくのです。外国では連れ合いと共にカトリックの教会をよく訪れましたが、マリア信仰はマリア像なくしては生まれ得なかったものでしょうし、カトリックの根強い持続力もあの絢爛豪華なキリスト教美術や奇妙きてれつな聖遺物と無縁ではないでしょう。実際、プロテスタントの教会堂はそっけないほど何もないので(あるとしても十字架くらい)、儀式としての礼拝においても教会堂の造りにおいても形から入るタイプのカトリックに引き寄せられてしまう気持ちがわからないでもないのです。

 バーミヤンの石仏破壊はとんでもない蛮行として世界に知られることとなりましたが、タリバーンが石仏を破壊した理由はイスラム教が偶像を一切禁止しているからです。イスラム教が偶像を禁止しているにもかかわらず大いなる発展を遂げたのは、視覚によるインパクトに代わる影響力を保つしくみがあるからだと思います。1日5回のお祈りをはじめラマダーンや食に関する戒律等はわかりやすいものです。ユダヤ教にしても安息日や祭儀、日常生活に関する戒律が半端なくありますから、宗教は生活と一体のものであり意識すると否とを問わず忘れて暮らせるものではないのです。聖書研究の集まりや祈祷会等があるにしても、基本的に日曜の礼拝以外は各人が神の御心に従って自らの生活を律していくというプロテスタントの信仰はある意味厳しいものです。戒律は心の中までは問いませんが、「信仰のみ」が問われるとなると結構つらいものだと思います。

 話がそれてしまいました。要するにインターネットの時代には予期せずに見たくないものを見てしまう確率が格段に上がります。子供に対してこれまでなるべく見せないように配慮してきたものにも、子供が事故的に出会ってしまうのです。子供の年齢や心身の状況によっては取り返しのつかない事故もあるでしょう。本当に大変な時代です。