「あ~、ワンちゃん。」
散歩中に小さな子供を連れた母親とすれ違ったりする時、子供はりくを見て何かしら声をかけます。りくは小さな子供が大好きでたいてい寄って行くので、しばらく言葉を交わしながら遊ぶことがあります。りくは自分より小さい子がいるのがうれしいようで、また自分が小さいころ同じくらいの子と遊んだことを思い出すのかもしれません。最近の子は(母親もそうですが)、あまり犬を怖がったりはしないようです。
「この子はおとなしいから大丈夫ですよ。」
と私が言うと、一緒になでたりかまってくれたりします。
先日はりくが急に立ち上がり、前足を男の子の肩に掛けて顔を一瞬なめたのでちょっとびっくりしましたが、母親が
「怖くなかった?」
と聞くと、男の子は
「怖くないよ。いまチュッてした。」
と答えていました。これがりくの愛情表現なのですが子供が泣きださなくてよかったです。
「あ~、りく、『好き好き』しちゃったんだね。すみません、小さい子が好きなんです。」
とご挨拶してその場を去りました。
2015年2月25日水曜日
2015年2月21日土曜日
「献堂式に向けて」
新会堂が建ってから、いやもっと前からですが献堂式の準備に追われています。皆が自分の役割分担を持ちそれぞれ仕事を進めています。案内状の発送は終わり、あとは当日までのこまごましたことをやるだけです。私の担当はプログラム冊子と記念のクリアファイルおよびはがきの発注です。この時のためにアルバム冊子や別の記念はがきで練習してきたはずなのに、練習はあくまで練習であり、思いがけないことがいろいろと起こります。これまではネットで注文してきましたが、今回は相談や確認等があるので、こういう時東京へ行き来している生活は便利です。先日も心配だったことを店舗で確認できてほっとしました。プログラムの発注が終わるまで気が抜けません。3月は繁忙期と言っていたので早め早めにしなければ。
普段ワードではほぼ入力するだけの使い方しかしていませんでしたが、今回の仕事を通してずいぶんといろいろな機能があることがわかりました。人名が途中で切れないようにする仕方とか、7段の表と8段の表を横に並べて同じ高さにするとか、テキストボックスの上手な使い方とか、なかなか勉強になりました。
テキストの問題がほぼ片づいたら、次は画像の問題です。この時期の福島は雪が多く、冬空で暗い。ほぼ毎日のように教会に通って写真を撮ってくださった方がおられ、それを画像として送ってくださった方がおられ、その連携のもとに送られてきた写真選びに入りました。「こんなところに電柱が・・・」、「ここに電線さえなければ・・・」というように、ちょうど写真のいいところに(というかちょうど悪いところに)邪魔なものが入っているのです。これはいたしかたないので、できるだけ目立たないように修正し、また明るさや色を一つずつ調整していきました。ぱっと見にはよさそうだったものがやってみるとうまくいかなかったり、だめかなと思っていたものがなんとかなりそうだったり様々でした。最後に2枚に絞り込んだ中から、「これでいいかな」といったん決めたものも翌日見ると全然だめだとわかったりするので、やはり一晩寝かせることは重要です。
ほかに大事なことは意外なことに気分転換です。りくがしょっちゅう邪魔しに来るので気分転換には事欠きません。そして散歩中に結構「こうしてみたらどうかな。」と思いつくこともあるので、これは有効でした。そんなわけで、すぐ終わると思っていたのにこれには実に3日を要しました。タイムリミットが近づいています。やるだけやって、あとは神様にお任せいたしましょう。
2015年2月18日水曜日
「論争しません」
友人という言葉は人によってカバーする範囲の差が相当ありますが、私の場合は数はごく少ないけれども長い付き合いの人を指す言葉です。これまで相手から絶交されたことはありませんが、こちらから縁を切った人が一人います。大学時代からの友人でとてもいい人でした。彼女は仏教系の或る宗教を信奉していましたがお互い干渉しあうことなく、付き合いに支障が出ることはありませんでした。社会人になってからも年に1~2回は会っていましたが、付き合いが20年になる頃、私の視力が低下するという困難な事態が起きました。
彼女にそのことを告げますと大変心配してくれましたが、そのうちどうも変だと思うようになりました。彼女は人間の身に起こることを因果応報という文脈で理解しているようなのです。まさかと思い少しやり取りすると、歯切れが悪いながらやはりそうとらえているようでした。またそこには、自分の信奉する宗教へ誘いたいという意図もあるようでした。
ヨブ記には、この世的に恵まれた人生を歩んでいた義人ヨブが、悪魔と神のやり取りの中で財産、家族、健康のすべてを奪われるという試練に合い、信仰を試されるという話があります。その時、ヨブの3人の友人がヨブを慰めようとやってきて、七日七晩黙してともに地に座した後、やがてヨブを問い詰めます。その時の論理が「因果応報」なのです。身に覚えがないヨブと違い、私は過ちの多い不義だらけの人間だと自覚していますが、そのことで神が私に罰を加えることはないと断言できます。神様はこういう形で罰を与えることはなさらない、「因果応報」それだけは絶対にないというのが私の確信でした。
私は残念ながら彼女と縁を切りました。ヨブは神と論じることを望んだ人ですが、私は悪魔とも論争はしません。この判断は正しかったと今でも思っています。荒野で悪魔の試みに会われた主イエスは、悪魔が繰り出す3つの挑戦に対しそれぞれ旧約聖書からのほぼ一言の引用のみで撃退しています。
ルカによる福音書4章1~13節
さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、 荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。 そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。 『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、 また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。 悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。
2015年2月13日金曜日
「画像の影響力」
イスラム国による人質惨殺現場の画像を私は見ていないのですが、これを小学校の教材として授業で見せていた教師の話を聞いて唖然としました。私が見なかったのは見ればきっとうなされて眠れなくなるだろうと思ったからですが、心の準備もなく見る羽目になった子供たちが気の毒です。大人だって、裁判員裁判で証拠としての死体の写真を見せられてPTSDになったとして訴えている人がいるくらいなのに、画像というもののインパクトを軽く見すぎた行為だと言わざるをえないでしょう。
これまでサイコパスによる犯罪史上特異な殺人事件が起こり、同様の映像を含む膨大なビデオやDVDが見つかっても、そういうものが犯罪を引き起こしているわけではないという議論が表現の自由のもと必ず主張されますが、本当でしょうか。中にはそういうものを暴力行為の代替行為として見ることで犯罪の防止に役立っていると、時に統計まで示して主張されることがありますが、まったくの詭弁だと思います。マーク・トウェインも言うように統計は方便としての嘘にほかならないのですから、こういう時は自分の感性を信じるべきです。
人間は眼前に見える物に対して本当に無力です。絵画であれ、立体像であれ、写真であれ、動画であれ、とにかく目に見える物体なり現象なりに滅法弱いのです。旧約聖書に見るイスラエルの民は、十戒で「いかなる像も造ってはならない。」と命じられていたのに何度もあっさりアシェラ像や金の子牛を造ってしまうのは、目に見えるものがないと拠りどころがなかったからでしょう。またキリスト教界では、高校の世界史程度の知識でも、ビザンティン帝国で聖像禁止令が出され聖像破壊運動が盛り上がったことを思い出しますが、結局イコンが無くなることはなくその後発展していくのです。外国では連れ合いと共にカトリックの教会をよく訪れましたが、マリア信仰はマリア像なくしては生まれ得なかったものでしょうし、カトリックの根強い持続力もあの絢爛豪華なキリスト教美術や奇妙きてれつな聖遺物と無縁ではないでしょう。実際、プロテスタントの教会堂はそっけないほど何もないので(あるとしても十字架くらい)、儀式としての礼拝においても教会堂の造りにおいても形から入るタイプのカトリックに引き寄せられてしまう気持ちがわからないでもないのです。
バーミヤンの石仏破壊はとんでもない蛮行として世界に知られることとなりましたが、タリバーンが石仏を破壊した理由はイスラム教が偶像を一切禁止しているからです。イスラム教が偶像を禁止しているにもかかわらず大いなる発展を遂げたのは、視覚によるインパクトに代わる影響力を保つしくみがあるからだと思います。1日5回のお祈りをはじめラマダーンや食に関する戒律等はわかりやすいものです。ユダヤ教にしても安息日や祭儀、日常生活に関する戒律が半端なくありますから、宗教は生活と一体のものであり意識すると否とを問わず忘れて暮らせるものではないのです。聖書研究の集まりや祈祷会等があるにしても、基本的に日曜の礼拝以外は各人が神の御心に従って自らの生活を律していくというプロテスタントの信仰はある意味厳しいものです。戒律は心の中までは問いませんが、「信仰のみ」が問われるとなると結構つらいものだと思います。
話がそれてしまいました。要するにインターネットの時代には予期せずに見たくないものを見てしまう確率が格段に上がります。子供に対してこれまでなるべく見せないように配慮してきたものにも、子供が事故的に出会ってしまうのです。子供の年齢や心身の状況によっては取り返しのつかない事故もあるでしょう。本当に大変な時代です。
2015年2月10日火曜日
「ドイツの犬 日本の犬」
私の印象では、ドイツの犬はこれが同じ犬かと思えるほど公共の場での振る舞いがきちんとしていて、(例えば電車の中や屋外レストランのテーブルの下で、身を小さくして飼い主の足元に長時間伏せているなど)、誰が主人であるかをたたきこむのがしつけの第一歩なのだと思われました。犬だって人の上に立ちたいのですから、この序列をきっちり教え込んで初めて社会生活が許される犬となるのです。
しかし、日本の場合、犬に限らず動物は共に生活する家族という位置づけです。子供の数よりペットの数の方が多い昨今、ペットのいきすぎた甘やかしはよくないと思いますが、もともと動物に対する接し方が違うので育て方も違ってくるのはいたしかたないし、その結果としての有り様が相違しているのも当然です。
りくの様子を見ていると、自分を他の家族の上でもなく、下でもなく、まったく対等と考えているようです。子供のころ飼っていた洋犬は、私が子供だったこともあってか明らかに上位に立とうとしていましたから、ひょっとするとこれは長年培われた日本犬の特徴かもしれません。教えなくてもお座りはできたし、教えてもお手はしなかったのは、礼儀はわきまえているが媚びるようなことはしないということなのでしょう。気づくと私もりくを対等に扱っています。
「おっ、世界で一番かわいい子いたな。」
台所をして茶の間に戻る時、しばらく外につないでおいて家に入れる時、仕事が一段落してお茶にする時、私はりくにそう話しかけます。
「人間は馬鹿だなあ。りーの方がよっぽど賢いよな。」
殺伐としたニュースを聞いたり、何でもないことでへまをしてしまったり、自分の大人げない行為を振り返って反省する時、やはりりくに話しかけます。りくから返事が返ってくることはありませんが、まんざらでもない顔で聞いています。
しかし、日本の場合、犬に限らず動物は共に生活する家族という位置づけです。子供の数よりペットの数の方が多い昨今、ペットのいきすぎた甘やかしはよくないと思いますが、もともと動物に対する接し方が違うので育て方も違ってくるのはいたしかたないし、その結果としての有り様が相違しているのも当然です。
りくの様子を見ていると、自分を他の家族の上でもなく、下でもなく、まったく対等と考えているようです。子供のころ飼っていた洋犬は、私が子供だったこともあってか明らかに上位に立とうとしていましたから、ひょっとするとこれは長年培われた日本犬の特徴かもしれません。教えなくてもお座りはできたし、教えてもお手はしなかったのは、礼儀はわきまえているが媚びるようなことはしないということなのでしょう。気づくと私もりくを対等に扱っています。
台所をして茶の間に戻る時、しばらく外につないでおいて家に入れる時、仕事が一段落してお茶にする時、私はりくにそう話しかけます。
「人間は馬鹿だなあ。りーの方がよっぽど賢いよな。」
殺伐としたニュースを聞いたり、何でもないことでへまをしてしまったり、自分の大人げない行為を振り返って反省する時、やはりりくに話しかけます。りくから返事が返ってくることはありませんが、まんざらでもない顔で聞いています。
2015年2月7日土曜日
「報道で知る後藤健二さんという人」
連日イスラム国による日本人人質事件のニュースが流れ、二人とも殺害という最悪の結末で幕を閉じました。初めはほとんど気に留めていなかったのですが、事件が長引く中、人間像がはっきりしていくにつれ関心を持つようになりました。私は公に報道されていること以外の情報は知りませんが、この二人の人質はあまりに対照的です。片や民間の軍事会社の経営に関わってシリア入りをし、一度拘束されて助け出されたにもかかわらず再び拘束された人であり、片やシリアの現状を伝えるフリージャーナリストで、今回は再び前述の湯川さん救出のためにかなりタイトな日程を押してシリア入りしたのです。この後藤健二さんというジャーナリストは現地の方にも知られていたようで、インタヴューを受けた人が、それも子供から大人まで、彼に対してよい印象を語っていました。その地に住むごく普通の人々の暮らしがよくなることや将来の人々の幸せを願って活動していた使命感を持つ人だったのです。ジャーナリストほどピンキリの幅が大きく、その人柄がそのまま仕事の質に直結する職業もないと思うのですが、彼はジャーナリスト仲間からも「真にプロとしての職業倫理に立った人である。」と評価されていて、だんだん心に引っ掛かり目が離せなくなりました。
世間では私も含め、危ない目に会いたくない人が圧倒的に多いのですから、殺害された原因を好き好んで危険地帯に行った人の自己責任に帰す論調になってしまうのもわからないわけではありませんが、前者はともかかく後者のような人がいるから、そこで何が行われておりどれ程危険なのかもわかるのです。後藤さんはかなり早い段階から、「イスラム国はイスラムに名を借りたテロリスト集団にすぎない。」と発信していたようです。その言葉を証明するように、ヨルダンのパイロットも含め三人とも残忍な殺され方をしました。人間の悪魔的な邪悪さを極限まで追求したものでした。
亡くなってから後藤さんがクリスチャンであったことを初めて知りました。「そうだったのか。」となんとなく胸にすとんと落ちる感じでした。周囲の人が「普段は非常に慎重であった彼にしては、今回の渡航は軽はずみに見える。」と口をそろえて言っていたのを思い出し、何か彼にしかわからない事情があったのだろうと思うようになりました。たぶん誤った情報だったのですが、湯川さんを救助できるかもしれないと思える感触を得て、なんとか救いたいという思いに突き動かされたのではないかと。残念な結果になってしまいましたが、特徴的な人でした。キリストの香りを放つ人だったのです。天国における平安とご家族の慰めを祈ります。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネによる福音書15章 13節)
2015年2月4日水曜日
「冬の朝を乗り切るには」
もう何年も毎年のことなのですが、1月、2月、3月は私にとって憂鬱な月です。寒いし、年度末で様々なことが終わりに近づいて落ち着かないし、レントの季節でもあるし…といったせいもあるのですが、一番の原因はおそらく日照時間が短いことにあるのです。
朝起きるのも弾みが必要で、夏の明るい朝が恋しくなります。こういう時は習慣の力を借りるしかなく、私の場合は起きて走りに行くのがその原動力になります。目覚ましはかけておらず、起きたら行くことにしていますが、年のせいか目覚めが早いのでだいたい5時前後に出かけます。朝運動しないと一日全然運動しないことが自分でよくわかっているので、天気が悪いか朝早く出かける用事がある時以外は行くと決めているのです。
早朝は交通量がほとんどないので道も安全で、日中だったら公園にたどり着くまで倍の時間はかかるでしょう。信号もまだ点滅式の時間帯だったりします。暗い中を行くのは好きではありませんが、公園内はライトが明るく適度に点灯していてなんだかきれいです。夏ならジョギング中にだんだん白んでいく空が得も言われぬ美しさなのですが、冬は家に戻るまで暗いままです。さすがにこの時間に公園に来ている人はあまりいませんが、いつも同じ数名の散歩者とすれ違います。あたりはとても静かで月が清かに輝き東京にしては星も見えて、これはこれでよいものです。行く前は気が重い日もあるのですが、帰ってくると爽快で「さあ、今日も一日始まるぞ。」という気分になれるのがこの習慣的行為の効能です。
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