2014年12月6日土曜日
「飼う者のない羊」
最近気がかりが2つありますが、どちらも自分以外の他者の体調に関することです。どうすることができるわけでもないので、祈りつつ神が御心をなされるのを待ちたいと思います。神様は私たちに必要なことは何もかもご存じだからです。夜中に目覚めて遠くで救急車のサイレンなど聞くと、「こんな時間に働いている人もいるのだ。」とご苦労が察せられます。雨露をしのぐ場所があり、贅沢ではないが不自由のない暮らしができていることを心底ありがたく思います。
刑務所が高齢者でいっぱいになっていると聞きます。年をとって孤立化し、あるいは生活苦から軽微な犯罪を行ってしまい、出所後も生きるすべなく同じことを繰り返す人も多いとのことです。持病を抱えていたり、認知症の症状のある人もいて、職員の態勢も限界に近づきつつあるということは容易に想像できます。また、身近な人による保険金や遺産を狙った計画的な犯罪も、このところ毎日のように取りざたされています。
イエス様は当時の群衆の有様を見て、「飼う者のない羊」のようだと深く憐れまれましたが、今とまったく変わらないことだと思います。これ以上的確な表現はないでしょう。これは若者だって同じなのですが、若い時は放蕩の限りを尽くしても或る時我に返って神に立ち返るということもまれにあるのを聞きます。人生の晩年になってもこの状態というのは悲しすぎます。
私の場合、愛する人々の多くがすでに天の国で神様のそばに憩っていますが、このことは見方を変えればある意味実に大きな慰めです。実際父が亡くなった時にまず感じたのは、「父を送れてよかった。」という安堵感だったのです。これまでにその時その時は苦しいことつらいことも多かったのですが、振り返って本当に行き詰ったことがあったかと考えるとそれはないことに気づきました。
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」 (詩編46編2節)
主にある平安のうちに、自分も来るべき日に備えて、いつお召があってもよいように一日一日を過ごしていかなければならないと感じています。