2014年12月16日火曜日
「心の清い人」
「真面目に生きているのになぜこんな目に会わなければならないんだ。」
ドラマの中で主人公が呟いていた言葉は、おそらく人間を苦しめる問いの最古のものの一つでしょう。自分の苦しみが無意味であること、もしくは自分が他者と比べて著しく不当に苦しめられていることに人間は耐えられないのです。
義人を襲う艱難の問題を正面から扱っているものというと、まず頭に浮かぶのはヨブ記です。この世的に恵まれた人生を歩んでいた義人ヨブが、悪魔と神がやり取りする中で、財産、家族、健康のすべてを奪われるという試練に合い、信仰を試されるという話です。その時、ヨブの3人の友人がヨブを慰めようとやってきて、その苦しみの大きいのを見て七日七晩黙してともに地に座すのですが、やがてヨブを問い詰めます。その時の論理は「因果応報」です。
人が因果応報の観念から逃れるのはとても難しいように思います。また、もう一つ人間にとって難しいと思うのは、自分に対して罪を犯した人を赦すということでしょう。ルターは、「人を赦すのは悪魔に付け込まれないためだ。」と言ったと伝えられていますが、なるほどなと思います。この二つは対処の仕方を誤ると人の心を食い荒らす問題の双璧と言えるのではないでしょうか。なぜなら前者においては、因果応報と言われても身に覚えがない場合、日本的にいうと神も仏もないということになりますが、これは突き詰めるとヨブの妻の言葉、「「神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」ということに行きつくからです。
東日本大震災時に石巻で津波を体験された信徒のお話を思い出すのですが、聞いた時には度肝を抜かれ唖然とするほかありませんでした。その方は津波で何もかも無くなった時に、まず頭に浮かんだのはヨブ記の、「主は与え、主は奪う」だったと言います。もちろんこの前後の言葉は、
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1章21節)
なのです。命だけは助かり、両隣の家と励ましあいながら助けを待ち、ヘリコプターで両隣の方が救出され次は自分の番かと待っていましたが、ヘリコプターが戻ってくることはなかったと。この絶望的な状況の中でその方が思ったことは、「私の時ではなかったし、神様の時でもなかった。」というのです。その後、助けられて避難所に行きましたがいろいろな方がおられて、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」(イザヤ書11章6節)を思い出し、飴玉とクラッカー数枚だけの食事でも、4日も食べていなかった自分にはこのくらいがちょうどよいのだと思ったと。ヨブの妻のように、「どこまでも無垢でいるのですか。」と言いたい気持ちはありますが、それ以上にあまりの美しさに圧倒され、本当にこのような信仰者がいたのだと心が清くされる思いです。
年をとってよかったことは、以前は嘘っぽいと思っていたことや実感としてわからなかったことがなんとなくわかる気がすることです。詩編には、「お前の神はどこにいる。」と絶え間なく人にあざけられる詩人の嘆きや悲しみが詠われますが、それにもかかわらずどんな現実もたやすく超えて神に寄り頼む詩人のことが今ではほんの少し分かる気がしますし、この言葉がこれまで何千年もの間、無数の人によって読み継がれてきた事実の重さを感じることができます。