2014年5月18日日曜日

「年をとることの効能」


 年をとったなと感じるのは、以前はなんとも思わなかった常識的な言葉に接して、「残念ながらその通りだ。」と思うときです。若いころは生ぬるくてとても読めなかったモラリストの言葉などが好例です。時に独りよがりの極論に走って正しさを論じていた頃を思い出しつつ、「中庸」なる言葉に触れると、今ではそれこそが真実だと思うのです。

ラ・ロシュフコーを例にとるならば、
「他人が真実を隠蔽することに対して、我々は怒るべきでない。なぜなら、我々も自身から真実を隠蔽するのであるから。」(箴言 No.11)
「自分の記憶にケチをつける者は多いが、自分の判断にケチをつける者は少ない。」(箴言 No.89)
「正真正銘の騙され方とは、自分が他人よりも一枚上手であると思い込まされることである。」(箴言 No.127)
「虚栄心に駆り立てられることがないとき、我々は沈黙する。」(箴言 No.137)
「他人を支配するよりも、自分が支配されないようにする方が難しい。」(箴言 No.151)
「一人で賢くなろうなどと願うことは、たいへん愚かなことである。」(箴言 No.321)
「口論はそんなに長くは続かないであろう。もし、どちらか一方が間違っているだけならば。」(箴言 No.496)
どれもいちいちもっともで深く納得してしまいます。

そして、モラリストと言えばなんといってもモンテーニュ。

 「糸はどこで切れようと、それはそこで完成したのだ。そこが糸の端なのだ。最も意欲した死こそ、最も美しい死である。生は他人の意志による。死に臨んでこそ、最も我々は我々の意志に従わねばならない。」(『エセー』IIー3)
「愚者を相手にまじめに議論することは不可能である。かかる向こう見ずの先生にかかっては、私の判断ばかりか私の良心までも腐ってしまう。」(『エセー』IIー8)
「私が書物に求めるのは、そこから正しい娯楽によって快楽を得たいというだけである。勉強するのも、そこに私自身の認識を扱う学問、よく死によく生きることを教える学問を求めるからに他ならない。」(『エセー』IIー10) 
「我らは最も小さい病気も感ずるくせに、完全な健康は少しもこれを感じないのである。」(『エセー』IIー12)
「たくさんの部面をもつ事柄を、一ぺんに判断しようというのは間違っている。」(『エセー』IIー32)
「極端は私の主義の敵なのである。」(『エセー』IIー33)
「私はあまり自分の意見を重んじないが、その代わり他人の意見をもあまり重んじないのである。私は人の意見をあまり重んじないのである。私は自分の意見を人に押しつけることはなおさら少ない。」(『エセー』IIIー2)
 「我々は誰でも我々が考えるよりも豊かである。それだのに人は借りること、求めることばかり我々に教える。自分のものよりも他人のものを使用するように我々を仕込む。」(『エセー』III-12)
 「人生を楽しむにはなかなか加減が要る。私は他の人々の倍それを楽しんでいるが、まったく享楽の深い浅いは、我らがこれにそそぐ熱意の多少によるのである。特に今では余生がこんなにも短くなっているのを知っているから、私はそれを厚みにおいて増したいと思う。」(『エセー』IIIー13)

そして名言中の名言、
 「何事に限らず、すんでしまった以上は、それがどのようであったにせよ、私はほとんど悔やまない。まったく、「それは始めからそうなるべきであった。」という考えは、私を苦悩の外におくのである。 (『エセー』III-2)
および、ダメ押しの一言、
 「もしもう一度生きなければならないならば、私は今まで生きて来たとおりに再び生きるであろう。私は過去も悔やまなければ未来も恐れない。」(『エセー』III-2)
いやご立派、さすがです。年をとってよかったと思うのはこんな時です。