2014年5月11日日曜日

「旅客船沈没事故事件から」


 韓国で大きな旅客船沈没事故がありました。指示に従って海に沈んでいった高校生を思うとあまりに可哀そうで胸が痛くなります。しかし、私にはそれ以上にご家族の方々の心痛が思いやられ、筆舌に尽くしがたい痛みであろうとたまらない気持ちになります。いうまでもなく、自分が家族を送って間もないからですが、病院でそれなりの看護をして亡くなってさえ、様々な後悔が際限なく頭に浮かぶものなのに、今回の事故の場合は家族にどれほどトラウマティックな影響を残すか想像もつきません。

 「人間はどれほど悪いものなのか。」と絶望的な気持ちになるような事実が連日明らかにされていきました。船長は船を(そして乗客を)見捨て身を隠すようにして脱出し、乗組員は専用の階段で甲板に逃げてかなりが助かった・・・。船会社の実質的なオーナーはカルトの教祖で金の亡者であり、人件費や必要経費は限界以上に切り下げられ、救命ボートさえ使用不能な状態で放置されていた。船自体、乗客数を増やして収益を上げるため増築され、また制限重量の3倍以上の貨物が積載されていた・・・。 船内放送で乗客を危険な船室にくぎ付けにしながら、3階に上がった船長と船員は乗務員の服を脱ぎ棄て、乗客を装って救出されたのではないかと見られている・・・。怒りとやりきれなさがこみあげてきます。

 確かにこの事件は人間の邪悪さが突出していて、誰もが「これはひどすぎる」と思うのですが、しかし、冷静に思い返してみると、こういうことは太古の昔からの人間の本性と言えるものだとわかります。そして、恐ろしいことに、時と場合によっては自分もやりかねないことだと思わざるを得ないのです。
 「救助船が来て乗れと言われたから乗っただけです。」 
「女が木から取って与えたので、その果実を食べました。」
創世記に記された最初の人間の姿と同じです。「自分はあそこまでひどくない。」とか「それが人間の半面の姿だからしかたない。」と言い切って終われる人はある意味いいなあと思いますが、自分はそうと思えないので、やるせなさに気がふさいでしまうのです。