2014年1月20日月曜日

「しばらくお休みします」


 パソコンを修理に出さなければならないようです。東京に帰ってからになるので当分の間お休みします。

2014年1月17日金曜日

「英国列車の体験から」


 英国で初めて鉄道に乗った時、一番驚いたことは乗客をコントロールする仕方でした。改札がないこともそうですが、列車の乗り降りについても仰天したことがあります。

 或る時、駅に到着して列車から降りようとして降りられなかったのです。中から開けるためのドアノブがなかったからです。それまではすでに開いたドアから乗り降りしていたので気づかなかったのですが、外から開けるドアノブしかなかったのです。車内に駆け戻り、
「ドアの開け方教えてください。」
と叫ぶと、乗客の1人が来て、ドアのガラス窓を引き下げ、そこから手を外に出して外のドアノブを回して開けてくれました。こんなやり方があったとは・・・と茫然としました。

 よくよく考えてみるとこれはすごい方法です。子供がいたずらしてドアノブを触り走行中に転落する心配はなく、意志を持って開けようとしなければ開かない仕組みになっている。なにより日本ではドアの開け閉めを自分ですることはほぼなく、またドアの窓ガラスははめ込み式で開閉するという発想がない。乗客の乗り降りのコントロールは運転手にゆだねられており、それは電気で行われている。いかに自分が人頼みで行動しているかということがよくわかりました。

 子供に対する配慮と確固たる人間の意志の尊重とを両立させるという点で、これ以上の方法はないとつくづく感心しました。電気も使いませんしね。こういうのを人間の知恵と言うのだなと、鉄道発祥の地で思ったことでした。今もこんな車両が使われているのでしょうか。

2014年1月15日水曜日

「生物 個体の多様性」


 社会の中でおそらく誰でも毎日感じることの一つは、自分と似ている人よりも自分と違う人の方が圧倒的に多いということではないでしょうか。とてもまねできないすごい人がいる一方、こういう人が世の中をダメにしていると思うことがあるのが日常でしょう。最近、真社会性生物と言われるアリやハチの研究を知り、一概にヒトと比較はできないものの大変考えさせられました。

 アリやハチを個体識別して観察・研究調査していることにまず驚きましたが、アリやハチも労働という点から見ると個体差が著しいというのはびっくり仰天です。一日の9割が労働に費やされる働きアリがいるかと思うと、同じ働きアリでもほとんど労働をしない個体もいるというのです。その差が生じる理由は刺激に対する反応の敏感さが個体ごとに違うためであり、鈍いアリは他のアリに先を越されてしまうため仕事にあぶれてしまうのです。こういうアリが全体の2割ほどおり、何もなければ一生ほぼ労働をせずに過ごすようなのですが、人工的にこういうアリだけ集めた時にはしっかり働き始め、なおかつこの場合も仕事にありつけないアリがやはり2割ほどいるとのこと。

 面白いのは働かないアリがいる意義で、皆で一斉に働いてしまうと一斉に疲れてしまい、不測の事態が起きた時に働けるものがいないという状態を避けるためです。また、巣にはひとときも欠かせない仕事(卵や幼虫の世話)があり、これが途切れることがあればコロニーは滅びへ向かうのですから、不慮の事態に対応できる存在は不可欠です。人間と違うのは、アリは基本的にえさ集めや巣の修理、卵や幼虫の世話など何でもできてかつ熟練するということはないという点です。(ただ、どうも好き嫌いはあるようで、最初にやった仕事を好むというのはなんだか微笑ましい。)

 すべてはコロニーの維持に最適な条件が保てるよう進化を遂げてきたのであり、全体として見ると完璧に機能していると言えるでしょう。利己的な振る舞いに見えても、実は利他的な効果をもたらし自らの種の保全に直結しているのです。もっとも、真社会性生物の中で全く利己的な振る舞いが見られる場合もあります。例えば女王バチのいないある種のハチの中には、労働せず卵だけを産む個体もいます(遺伝子にわずかな違いがあるのです。)が、産卵によりこのような個体だけが増えてしまうとコロニーは滅ぶしかありません。そしてその空いた巣にはそうでない遺伝子を持つハチの群れが住みつくのです。自然界は実にうまくできているものだと感嘆します。

2014年1月13日月曜日

「旧東ドイツを訪れた時」


 ベルリンの壁が崩壊した後、といっても翌々年くらいのことだったと思うのですが、ベルリンは旧東ドイツを見に来たバックパッカーで異様な熱気にあふれていました。ツォー駅のあたりで宿を探す人も多かったのですが、もう1泊8マルクのテント村しかなく、日本でユースホステルを予約してきてよかったと思いました。確か旧西ドイツでは、一定の年齢以上の人はユースには泊まれなかったのですが、旧東ドイツの地域には予約を入れられたのです。普通のホテルは異常に宿泊代が高騰しており馬鹿馬鹿しいほどでした。

 昔の国境線を列車で抜ける時、「世が世ならこんなにあっさり国境を越えることはできなかったのだ。」と思って感慨深いものがありました。この2つの地域は気をつけていなくても国境線を通過したことはすぐわかりました。西から東へ入るとすべてが色彩を失ったからです。花もなく、家々の屋根も壁も文字通り灰色でした。色彩というのは人間が作り出している営みなのだとこの時初めて知りました。何十年間一度もモデルチェンジされたことのないトラバントがまだ走っていたベルリンで、現実離れした時間の流れを感じたのでした。

2014年1月10日金曜日

「機械への感謝」


 私はいつもパソコンやプリンターにお礼を言っています。実際彼らが不調だと何もできなくなってしまうのです。先日、実家との行き来にいつも持ち歩いているパソコンが、どういうわけかウィンドウズが起動しないという重篤な状態になりました。再起動しても直らず、電源を強制的に切ってしばらくおいてからやり直してみましたがだめでした。ウィンドウズが起動しないというのは今までなかった事態です。

「明日の朝一で専門店に持ち込むしかないな」
と覚悟を決め、サボっていた年賀状書きも手書きかと憂鬱になりました。その間にも、パソコンは一応「トラブルを解決しようと自動修復を試みています」という状態がずっと続いていました。
「最悪、買い替えになるのか。どのくらいで元の状態にできるのか・・・やることたくさんあるのに。データ保存してあったかな・・・。」

  一挙に噴出する問題にたじろぎながら、とりあえず固まった画面を終了。もう一度電源を切り、祈る気持ちで再び電源を入れてみると、見慣れた画面が!自動修復に成功していたのです。なんと健気なパソコンでしょう。思わず「ありがとう。」と撫ででしまいました。

 しかしそれとは別に、グーグルのブロガーに入る際にこのところ毎回不吉な表示が出るようになったのですが、どうしていいかわからないので無視していたところ、「このまま続けると壊れる可能性が数倍になる」と脅されました。適当にボタンを押したら表示が出なくなりましたが問題が解決したわけではないでしょうから、突然更新できなくなるかもしれません。もう形あるものは壊れると悟っているので、それもたいしたことじゃありません。また作り直せばいいのです。

2014年1月8日水曜日

「紅春 42」


 「りくに掛け布団をつくってやって。」
と父に言われ唖然としました。りくにどうして掛け布団が要るのでしょうか。りくは私がいない時はこたつの余熱のあるところで寝るのですから寒いはずはないのです。父が言うには、夜起きるたび、こたつカバーを体に掛けてあげているがもっとちゃんとしたのを掛けてあげたいとのこと。どこまで過保護なのでしょう。

 外で寝ている犬だっているのです。掛け布団なんて必要ないと思いましたが、父の頼みを無下にもできません。しかたなく古い毛布をあげました。りくはもう雪ん子のようです。こんなことをしていてかえって寒さに対する耐性を失わないのでしょうか。


 私が帰省しているとりくは必ず私の部屋にやってきて寝ます。掛け布団はありませんが、ずっといるところを見ると平気なのでしょう。もっとも私の部屋では、りくは始め布団のわきにいますが、そのうちズイズイと上がってきて電気あんかを探り当て、その上で寝ています。控えめなようで案外ちゃっかりしているのが柴犬の気質かもしれません。
「飼い犬にあんか取られてもらい熱」
結局、私が寒いのであんかは2つにして1つはりくが使っています。

2014年1月6日月曜日

「メーヘレンのこと」


 フェルメールの贋作者メ―ヘレンのことを知ったのは15年ほど前のことです。オランダの至宝フェルメールの絵画をナチスに売ったかどで逮捕された後、彼は獄中で作品を再生産してみせ無実を証明したという実話をおもしろいと思いました。彼の絵は今見るととてもフェルメールには見えませんが、絵画も時代の中で生きている以上、時を経て初めて見紛うかたなき異質さがあらわになったのでしょう。

 メ―ヘレンの贋作制作は、画壇における自分の画家としての評価が低いことへの恨み晴らしとして行われたとも言われていますが、模写にしろ贋作にしろ何かを模倣するというのはとどめることのできない人間の本性なのだと思います。獄中で絵筆をとった時に、この画家の制作意欲は最高潮に達したのではないでしょうか。おそらくは深い愉悦とともに。

 当時は今ほど評価の高くなかったフェルメールに目をつけ贋作者になることで彼の絵画に彩りを添えたメーヘレンの名は、フェルメールの絵画が存在する限り、興味深いエピソードと共に永久に残るでしょう。

2014年1月3日金曜日

「子供の訪問」


 実家に帰省していた時のことです。ある土曜の午後、玄関のチャイムが鳴って、「宅急便かな」と思って出てみると、小学校3、4年くらいの男の子が二人立っていました。そのうちの一人が言いました、
「近くに遊びに来たのですが、ちょっとお腹の調子が悪くてトイレを貸してもらえませんか。」
「あ、どうぞ、どうぞ。」
と言って案内しようとすると、もう一人が言いました。
「僕は外で待ってます。」

  男の子はそうひどい状態ではなかったようで数分でお礼を言って出ていきました。「お家は遠いの?ちゃんと帰れる?」
と聞きましたが、
「大丈夫。」
とのことでした。二人ともデイバッグを背負い歩いてきたようで、それほど遠くからきたのではないようでした。きっと天気もよいので仲良しの友達同士、ピクニック気分でやってきたのでしょう。あまり騒いでもかえって気の毒なのでそのまま見送りました。

 考えてみると、小学生としてはたいそう立派な対処の仕方だったと思います。自分が同じ年の時にこんなことができただろうかと考えると、今の子供はすごいと感心しました。

2014年1月1日水曜日

「神様のスケジュール帳」


 震災から3年目の2014年になりました。この間のことを自分と福島教会に関連することにしぼって思い出してみることにします。(ここは「歴史的現在」以外の時制では書けない。)

2011年
5月の連休 開通した新幹線で福島に入り、更地になっただだっ広い教会堂跡で呆然とたたずむ。
9月の連休 伝道館で行われていた礼拝に出席、説教者はかつて私に洗礼を授けた牧師のご子息。百年を超える福島教会の歴史に思い至り、神の恩寵を感じる。神の建てた教会ならばここに再び会堂が建つことを確信する。
2012年 
3月末 早期退職をする。
4月 東京―福島の往復生活始まる。
5月 教会籍を福島教会に移す手続きをする。
    福島教会では、第一回会堂建築委員会が開かれる。
6月 東京の中渋谷教会に初めて出席する。
10月 会堂建築委員会より検討内容の報告があり、質疑応答がなされる。
     この頃から祈祷会に出席する。
11月 福島教会ホームページを作る。
12月 中渋谷教会とユーオーディアによる復興支援コンサートが福島教会で開かれる。
2013年 
4月 教会総会において、会堂建築に着手することを決議する。
5月 便利グッズの考案にはまる。
6月 設計士を迎え、会堂建築が具体化していく。
    個人事業開業届を出し、会堂建築支援商品の販売を始める。
    中渋谷教会による特別伝道集会と復興支援コンサートで伝道館は満員となる。
9月 ヴォーリズ建築事務所と会堂建築の契約がなされる。
12月 教会堂の基本設計が固まる。
     会堂建築契約までこぎつけたことを、支援してくれた方々や教会に中間報告するための事務作業(宛名ラベル作成)を行う。
年末、青色申告書類の作成に四苦八苦する。

 こう書いてみると、福島教会の歩みと私の個人的な生活の変化が、まるで図ったように配置されているのですが、これらは全く別々に独立して起きたことなのです。会堂の再建を確信した時でさえ、教会籍を福島に移すことなど夢想だにしておらず、早期退職もまったく別な理由によるものです。

 普段の頭の中は日常の雑事で埋め尽くされています。
 「朝は久しぶりに太陽が出たと思ったらもうぼた雪になってる。これが福島の天気なんだな。昨日買い物にいっておいてよかった。・・・今日はイヴ礼拝に行くから、早めに夕食作っておかないと。先日の祝会で撮った写真はアルバムにしておくか、ご家族がたくさん来られてよかったな。・・・それにしても青色申告書の提出書類、よくわからないんだよね。大晦日に棚卸しってマジかよ~。図書館で借りた書き方の本、東京に帰ったら返さなくちゃ、返却日いつだったっけ。えーっ、確定申告書もいっしょに提出って書いてある、青色申告の数字が合ってるかどうか出してみないとわからないのに間違ってたら書き直しになるの?・・・洗濯物全然乾かないよね、除湿機かけるしかないな。・・・あっそうだ、バスの予約を入れるの忘れないようにしなくちゃ。・・・」

 こんな感じで時間が流れていくのです。ほとんどが教会とは関係のない無数の雑事の連続です。それにもかかわらず、千年も一日のごとき神の手帳の私の欄には、先ほどのようにメモしてあったのです。人間の考えや行動などたかが知れていますが、それで全然かまわないのだからとても気楽です。