2024年6月28日金曜日

「人間の悪を形作るもの」

  私はこの世の悪にかなり絶望しているのですが、それだけに人間が行う悪行に関して、何がそれを生み出しているのか、しばしば考えます。人がしてはならない行為に及ぶのはどんな時か、その根本にあるものは何かについて、考える材料は社会で報道される事件の中にいくらでも見出されます。犯罪ほどその社会の病理をあぶりだすものはあありませんが、最近特に見られる顕著な傾向もあります。確かにリストラや派遣切りで一挙に貧困化して犯罪に手を染めることがあるとはいえ、例えば終戦直後のように純粋な貧困が原因の犯罪はまれでしょう。それは、海外を拠点に大規模な詐欺を行っていた集団がとんでもない贅沢な暮らしをしていたことを知るだけで分かります。経済的要因は様々な形で犯罪に絡むことがおおいものの、それだけで起こるわけではありません。5万円の年金で朗らかに生きている方の話を読んだことがありますが、この方はその秘訣として「他人と比較しないこと」と言っていました。これはとても示唆的な言葉ですが、これこそまさしくできる人にはできるが、できない人にはできない類の事かもしれません。

 行動経済学によって明らかにされたこととして、近年とみに重要だと思うのは、人間は報酬を望む以上に強く損失を回避する傾向があるということで、「損失を被ることにまつわる不快感や喪失感の耐え難さは人の心の在り様に深く根差している」ということが解明されたのは、行動経済学の手柄でしょう。すなわち、或る利益について何らかの理由で、「本来自分に帰せられるべきもの」とか「何事もなければ当然手に入ったはず」と思い込んだ場合、その利益はすでに自分のものと意識されているため、それを不当に奪われる不安や恐れ、またその裏返しとしての怒りや恨みが発動して、たとえ悪いと分かっていても自分の考えを正当化し、損失回避行動に踏み切ることが非常に頻繁にあるのです。犯罪までいかなくても、損切りできずに被害を拡大する行為やギャンブル中毒などもこの延長線上にあるのでしょう。この損失回避行動としての犯罪は経済に関する事例が分かりやすいですが、直接的に金銭に関わるものばかりではありません。地位や名誉、あるいは異性や友人をめぐるものでも同様で、推理小説では動機としてむしろこの方が主流です。

 行動経済学は人間の本性という従来なかった領域にまともに取り組んだことで生まれた学問ですが、「人間、この不合理なるもの」を扱うとしたら、その根幹にあるのは人の「自尊心」でしょう。 自尊心とは、自分の人格を掛け替えのないものとして大切に思う心であり、別名プライドとも呼ばれます。これを持たない人間はおらず、誰もが、少なくとも究極的な局面では、自分の考え方や行いに揺るがぬ自信を持っているものです。自分が大切にしているもの(人でも者でも思想でも)、また生涯かけて築き上げてきたもの、さらにそんな大仰なものでなくても自分なりの些細なこだわりといったものさえ自分の一部となっており、すなわち自尊心とは自分そのものなのです。ですから、人は自尊心を守るためにはどんなことをも(それこそ自殺でも殺人でも)実行するのをためらいません。

 近年、人権尊重が絶対の大義となっており、或る年齢までそれに則った教育を受け、また、確かにそれが可能な局面では人権に十分配慮されることが増えました。一方、SNSの発達により自我はますます肥大化し、それだけに一層、成長して社会に出て様々な差別やあからさまな不平等にぶつかり、不正が横行する残酷な現実の中で、自尊心が無残に打ち砕かれることが増えました。そして、その時の反動が想定外の残虐性を帯びるようになってきたのです。

 「自分が被ろうとしている損失の回避」と「自尊心を傷つけるものへの攻撃」を動機とする犯罪の割合はこれからも増え続けるでしょう。そしてそれは犯罪に至らないまでも、人の邪悪さへの呼び水となり続けるでしょう。自分と他人を比較してこの二つを結びつけてしまった場合は、それこそ巨大なマグマを蓄えて激烈な仕方で爆発するのではないでしょうか。秋葉原や町田の公道でなされた大量殺傷事件、障害者施設での史上最悪の殺人事件、アニメーション制作現場での残虐極まる放火事件、多発する電車内での不特定多数を標的にした殺傷事件などはその例と言ってよいでしょう。

 悪について聖書ではどのように扱っているかを見ると、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた直後に、荒れ野で悪魔の誘惑にあったとが、マタイ4章およびルカ4章に書かれています。三つの誘惑の一つ目は、四十日間何も食べずに空腹だったイエスに、悪魔は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と言うもので、これに対しイエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と、『申命記』8章3節の言葉を引いて答えます。悪魔による二つ目の試みは、この世の国々の全ての権力と繁栄をイエスに見せ、「もし私を拝むなら、それは皆あなたのものになる」と言うもので、これに対しイエスは、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と、再び『申命記』の言葉(6章13節)を引いて答えます。三つめの試みとして、悪魔はイエスをエルサレム神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだと言います。これは、「神は天使たちに命じてあなたをしっかり守り、あなたの足が石に打ち当たらないように両手で支える」という詩篇91編11~12節の言葉を踏まえての誘いでしたが、イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と、三たび『申命記』の言葉(6章16節)を引いて答えます。

 この3つの「荒れ野の誘惑」は、最初は飢えという試練、二度目は権力や富への誘い、三度目は奇跡的なわざを成し遂げる能力と、またそれによって得られる名声への誘惑を示しているのでしょう。言ってみれば、一つ目は身体的試練、あとの二つは富を背景にして肥大化した自尊心を満足させることへの誘惑でしょう、それをイエスはすべて『申命記』の言葉で斥けています。『申命記』は、貨幣経済の発達で社会が変貌していくまさに激動の時代に、再確認された律法であり、主の民がとどまるべき場所を示したものです。当時の社会の変化は、金融資本主義に翻弄される現代とその激烈さにおいて変わるところがないのですから、今こそ人は主イエスの言葉を堅く心にとめるべきなのです。

 マタイによる福音書20章の「ぶどう園の労働者」の譬えは、このことを別の視点から教えてくれます。一人の主人が夜明け時、朝9時、正午、午後3時、午後5時のそれぞれの時間に広場にいる労働者を皆ぶどう園で雇うのですが、そのすべてに同額の賃金を支払ったという、あの話です。現代的に考えれば、広場に残っている人は遅くなればなるほど、「能力が低い」、「地縁・血縁等のコネがない」、「コミュニケーションが下手」、「自分に自信がない」、「この世に希望がない」という状況だったでしょう。しかし、主イエスの語る天国においてはそうではなく、みな同じ賃金を受け取るというのです。能力も様々な環境も関係なく、神からの恵みが与えられるというのです。「自分は自分のままでよい、そのままで愛されている」という神の国にとどまることができるなら、その人はきっとこの世の悪と無縁でいられるだろうと思うのです。