2023年8月7日月曜日

「『ガラテヤの信徒への手紙』の奥深さ」

  「ガラテヤの信徒への手紙」を読む機会を与えられ、まだ最初の方ですが考えさせられることが多くあります。パウロの福音理解のために重要とされるこの書を、私は長らくごく単純に考えていました。この書が書かれた経緯は、パウロのガラテヤ地方伝道の後に、ガラテヤの教会に現れた人たちがパウロの伝えた福音と異なる福音を広めたため、教会の信仰がキリストの福音を外れて異なった方向に向かっていることを、パウロが看過しえないこととして厳しく指摘したというものです。

 異邦人への伝道が進む中、律法における割礼や食物規定を遵守しているユダヤ人キリスト者との間の齟齬が露わになり、やがてアンテオキア教会での出来事をきっかけにパウロはペテロを面と向かって非難しました。それまでは異邦人と食事を共にしていたペテロでさえ、或る種のユダヤ人キリスト者がやって来ると彼らに対して配慮する行動を示したからです。

 パウロが宣べ伝えた福音は、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる(2章16節)」という単純明快なものです。しかし今回「ガラテヤの信徒への手紙」を読み返して分かったのは、「これを単純明快だと思うのは自分が異邦人キリスト者だからである」ということでした。異邦人にとってそもそも律法は縁がないものなので、罪からの救いを願うなら、ただ十字架の死によって人間の罪を贖った神の御子キリスト・イエスを信じればよいという点で、パウロの教えはとても簡潔です。しかし今仮に、ユダヤ人キリスト者の立場でこの書を読むとかなり違った様相を呈してきます。

 恐らくここに出て来るユダヤ人キリスト者は、律法に誇りを持っており、なおかつキリストの十字架の贖いを信じて新しい契約に入り、主イエスの直弟子であるペテロとも交際している自分たちの信仰を盤石なものと考えていたことでしょう。しかし、「人はただ信仰によってのみ救われる」という福音が異邦人世界へ広がっていく時、彼らが自分たちの信仰の優位性が脅かされるような心持になったとしても不思議はありません。

 パウロの言葉はユダヤ人キリスト者にとってはユダヤ人社会で生きるためのガイドラインが、示されているようで実は示されていません。パウロは「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです(2章19節)」と何やらかっこよく述べており、そしてそれは間違いなくパウロの実感であったでしょうが、実際にユダヤ社会で生きるユダヤ人キリスト者にとっては、律法を固く守るべきなのか、主キリストへの信仰さえあれば律法は守らなくてもいいのか、それらは時と場合、あるいは個々人の行動に任されているのか、その場合の救いの確かさは変わらないのか・・・といった戸惑いが頭をかすめたのではないでしょうか。彼らはそれらの問いの答えをパウロの言葉の中に十分に見いだせなかったのではないかと思うのです。

 何故この書をユダヤ人キリスト者の立場で考えてみる気になったかと言うと、日本で暮らすキリスト者とのアナロジーで考えてみると、奥深い視点が与えられる気がしたからです。日本のキリスト者は、日本の社会できちんと生活する一方、キリスト者として十分に生きることを願っています。しかし、この二つは必ずしも両立しない、そのため折に触れたびたび判断を迫られるという経験を伴います。これは状況は違えどもユダヤ人キリスト者が感じる苦悩と似たものがあると思います。こういうことに画一的な規定を決めても無意味で、むしろそれこそが当時の行き詰ったユダヤ社会をもたらしたものだったでしょう。この手紙を書いたパウロは、具体的な規定はむしろ各々の信仰を殺すことになると気づいており、だからこそ決してぶれてはいけない教えのみこの書に記したのではないかと思います。

 キリスト者は生きていくうえで間違いなく苦悩にさらされますが、それでも立ち現れる様々な場面で苦しみながらも信仰に反しない限りの対処をしていくでしょう。しかし、そこには苦しみだけでなくそれを上回る神の恵みがあることも確かです。今回思いがけずそのような視点を与えられて、感慨深くこの書を読んでいるところです。