2023年8月22日火曜日

「腫れ物としての国債」

 先日ラジオを聞いていたら、経済の専門家(大学教授)が日銀の金融政策の変更について解説していました。経済用語ではYCC(イールド・カーブ・コントロール=長短金利操作)というそうですが、要するに、今まで0.5%程度で連動してきた長期金利と短期金利の幅を1.0%程度に拡大できるよう見直すということです。「やっぱりそうだろうな」と納得すると同時に、最終的には連動させないようにするほかないだろうと強く思いました。なぜなら、物価の上昇が日銀の目指す2%をかなり超えている現状では、短期金利を上げる必要がありますが、一方、長期金利は上げられないわけが存在するからです。それは膨大に膨らんだ国債のためであり、現に日銀がこれまで0.5%程度としてきた長期金利の変動幅の上限を市場の動向に応じて0.5%を超えることを容認する旨のアナウンスをした途端、国債の売り注文が増加し、ほぼ9年ぶりの水準まで長期金利が上昇した(7月28日)のです。ほんのちょっとでも金利が上がると、金利だけで何兆円も支払いが増えるのですから、国債の金利を動かすわけにはいきません。

 解説者は、「普通、金利の上昇は円高に触れるが、逆に円安が進むという説明できない事態が起きている」と言っていましたが、「何を言っとるのか」という気持ちで聞いた方は多かったことでしょう。今の日本の国庫の状態は子供にも分かるような話なのですから、解説者が知らないはずがないのですが、恐らく口が裂けても言えないのでしょう。経済の法則に反して円安が進んでいるのは、膨れ上がった国の借金があまりに大きいため信用を失っているからであり、そのうちデフォルトが起こる可能性があると思われているからに他なりません。にも拘わらず、「私も腑に落ちない」などと言える解説者は或る意味さすがで、うっかり「王様は裸だ」と口を滑らせてしまうような人は専門家失格なのでしょう。なぜなら、国家が一番考慮しなければならないことは一にも二にも「国民にパニックを起こさせない」ことだからです。東日本大震災の原発事故の時、米軍から放射能拡散の風向きを知らされていたにもかかわらず、国民に(とりわけ福島の住民に)隠したのと同じことなのです。

 国民の多くが「ついにハイパーインフレが起こるのか」と怯えている時に、間違ってもそれを声に出してはならないのです。国が故意に超インフレを起こして、「国債という借金を相対的に減らす、あるいはチャラにする」ことを企図しているのだという穿った見方もありますが、この場合は国民が預金等の形で保持している財産が吹っ飛ぶという話ですから、さすがに国民も黙っておらず、即ち政府もただでは済まないはずです。もっとも政財界の方々はとっくに海外への資産フライトを済ませているので、経済的な打撃はほぼ無く、その点は安心しているのかも知れません。それでも他国、そして全世界への波及効果を考えれば、思い浮かぶのはカオスというほかありません。

 2009年1月1日以降、10年以上取引のない預金(休眠預金)は金融機関のものではなく国のものとなったことに顕著なように、国はあらゆる手段で国庫にお金を搔き集めようとしています。私は国債とは無縁なのでこれまで国債に注目したことがなかったのですが、どうも政府の考えは、国債を保有している大多数が国民であるのをよいことに、これが満期になっても買い換えによって金利の支払いだけに留め、例えば相続時にもそのままずっと引き延ばそうとしている節があります。ここまで借金が積み上がっているのですから、気持ちは分からないでもありません。もはや、国家以外の主体が行えば詐欺的犯罪になる行為をも射程に入れなければならないところまで切羽詰まっているのでしょう。

 それならいっそのこと、「満期のない国債」を新たに作ってはいかがでしょう。「満期がない」というのは、「死後はお金が国庫に入るという条件」の国債という意味で、その方がフェアです。「死ぬまでずっと」というのがミソで、将来が不安だから貯蓄に励んでいる国民にとって、これは或る種年金を補完する手段になると思います。購入する国債の額や購入者の年齢によって金利を絶妙に設定すれば、相続人がいない人が増加する昨今、国にとっても個人にとっても悪くない選択となり得るのではないでしょうか。或いは、金利ではなく医療や介護に関する或る種の特典を付与する方法も、将来の不安を幾分でも払拭するのに有効かもしれません。

 これはいわば、「国庫にお金を納入すれば、死ぬまでそれなりのメリットを得られる」というシステムで、この「それなり」のさじ加減は頭のひねりどころとなりましょう。ただ、こんなことを資本主義経済の社会でやってよいのか分かりませんが、、とにかく今、腫れ物に触るように扱われている日本の国債が、新しいパラダイムを必要としていることは確かです。もう「借りたものは返そうよ」と誰も言えないところまで来てしまったのです。