2023年8月29日火曜日

「尿酸値を上げない食生活」

 過日の通院でまた薬が追加されてしまいました。今度は尿酸値が高いということで、尿酸値を下げる薬です。高めなのは確かですが、今回は前回よりも前々回よりも低下しているのに、その時は様子見だったのか、なぜか今頃の処方となりました。もちろん抵抗したのですが、「透析になったらどうするんですか」などと恐ろしいことをおっしゃるので、泣く泣く了承しました。

 「プリン体の多い食品を多量に摂取すると尿酸値が上昇して、場合によっては通風になる」程度の事しか知りませんでしたが、私の食生活はそんな美食家が陥るような事態とは無縁のはず。何といってもプリン体と聞いて真っ先に思い浮かぶ食べ物は、レバーとビールで、これほど私の食生活から遠いものはありません。、ざっくりいって、「肉・魚はプリン体が多く、野菜は少ない」ということを押さえておけば大丈夫と思っていましたが、今回調べてよかったのは、思っていたよりプリン体含有量が多い食品が分かったことです。プリン体は豚肉・牛肉より鶏肉に多く、魚ではマグロや鮭よりかつおに多いようです。また肉や魚より断然少ないものの、そば粉、納豆、舞茸などにはプリン体が結構含まれています。カルシウムを補うために摂取していた「食べる煮干し」も要注意。割と好きなお刺身はもちろん、かつお節のことは失念していましたが、元来たくさん食べるものでもありませんから心配はないでしょう。たとえプリン体が多くても、他に非常に良い栄養素を含有している食品はいきなり止める必要はなく、要は摂取量のバランスを心がければよいのです。

 尿酸値を下げる食品として、乳製品(牛乳、ヨーグルト、チーズは好物なのでうれしい)やビタミンCの多い野菜・フルーツがあり、じゃがいもは過熱してもビタミンCの喪失が少ないとのこと。ただしフルーツの果糖は尿酸値を上げるので注意が必要です。フルーツ好きで毎日欠かしたことの無い私は、これには多いに心当たりがあります。また、アルカリ性の野菜・海藻・いも類・きのこ類は、尿がアルカリ性に近づくとされています。プリン体の少ないきのこは、なめこ、ぶなしめじ、エリンギ等です。

 私はこれを機会に、データに基づいてこれまでの食生活と尿酸値について調べてみることにしました。俄然本気になったのです。まず、時間がかかりましたが、これまでにもらっていた血液検査のデータ1年半分をとりあえずい数値化して表計算ソフトに入力しました。その中で体調に大きく影響しそうな数値、例えば、白血球数WBC、総リンパ球数(白血球数とリンパ球%から算出)、尿素窒素UN、クレアチニン、尿酸値U、補体C3等をを抜き出し、適宜グラフ化しました。白血球には病気やけがを治したり、体に侵入した異物を撃退したりする働きがあるので、これが増加している時は細菌やウイルス等と闘っている生体反応を表します。尿素窒素は腎機能に関わる値で、不調になると高値を示しますが、脱水や蛋白質の過大摂取などでも影響を受けます。クレアチニンは筋肉を動かしてエネルギーを使った後に出てくる老廃物の一つですから、これが高いとその処理が不十分であることを示します。補体は異物の侵入等をきっかけにして活性化する血漿蛋白で、生体内で抗原抗体反応が起こると消費されて低下します。

 私の場合、総リンパ球数と補体は上昇が望ましく、尿素窒素、クレアチニン、尿酸値は低下が望まれるのですが、グラフにするとこれまで数値としてだけ眺めていた時とは全く違った様相を呈してきます。それぞれの項目がいつ頃悪化しているか一目瞭然なのと同時に、項目間に大まかな相関関係が有るのか無いのかが分かります。それによってデータを眺めると、項目によってとりわけ良くなかった時期が判明しました。人体は複雑なので、そうなった原因には摂取した食品だけでなく、気候や天気、その時期の気分、運動あるいは活動状態も大いに関係しているでしょう。一つ思ったのは、総リンパ球数が多い時は体調が良く、比較的元気なことが多く、一方で、このような高栄養の時は尿酸値が増えるのですから、総リンパ球数と尿酸値は互いに反目し合う関係にあるだろうということです。即ちこれもバランスか。というわけで今、あの頃どんな食事をし、どんな生活をしていたのか、検査値のグラフを解明するのに日記を読み返したり、食品の購入履歴を見返したりしているところです。何かヒントを得て、次の診察までに生かしたいです。


2023年8月22日火曜日

「腫れ物としての国債」

 先日ラジオを聞いていたら、経済の専門家(大学教授)が日銀の金融政策の変更について解説していました。経済用語ではYCC(イールド・カーブ・コントロール=長短金利操作)というそうですが、要するに、今まで0.5%程度で連動してきた長期金利と短期金利の幅を1.0%程度に拡大できるよう見直すということです。「やっぱりそうだろうな」と納得すると同時に、最終的には連動させないようにするほかないだろうと強く思いました。なぜなら、物価の上昇が日銀の目指す2%をかなり超えている現状では、短期金利を上げる必要がありますが、一方、長期金利は上げられないわけが存在するからです。それは膨大に膨らんだ国債のためであり、現に日銀がこれまで0.5%程度としてきた長期金利の変動幅の上限を市場の動向に応じて0.5%を超えることを容認する旨のアナウンスをした途端、国債の売り注文が増加し、ほぼ9年ぶりの水準まで長期金利が上昇した(7月28日)のです。ほんのちょっとでも金利が上がると、金利だけで何兆円も支払いが増えるのですから、国債の金利を動かすわけにはいきません。

 解説者は、「普通、金利の上昇は円高に触れるが、逆に円安が進むという説明できない事態が起きている」と言っていましたが、「何を言っとるのか」という気持ちで聞いた方は多かったことでしょう。今の日本の国庫の状態は子供にも分かるような話なのですから、解説者が知らないはずがないのですが、恐らく口が裂けても言えないのでしょう。経済の法則に反して円安が進んでいるのは、膨れ上がった国の借金があまりに大きいため信用を失っているからであり、そのうちデフォルトが起こる可能性があると思われているからに他なりません。にも拘わらず、「私も腑に落ちない」などと言える解説者は或る意味さすがで、うっかり「王様は裸だ」と口を滑らせてしまうような人は専門家失格なのでしょう。なぜなら、国家が一番考慮しなければならないことは一にも二にも「国民にパニックを起こさせない」ことだからです。東日本大震災の原発事故の時、米軍から放射能拡散の風向きを知らされていたにもかかわらず、国民に(とりわけ福島の住民に)隠したのと同じことなのです。

 国民の多くが「ついにハイパーインフレが起こるのか」と怯えている時に、間違ってもそれを声に出してはならないのです。国が故意に超インフレを起こして、「国債という借金を相対的に減らす、あるいはチャラにする」ことを企図しているのだという穿った見方もありますが、この場合は国民が預金等の形で保持している財産が吹っ飛ぶという話ですから、さすがに国民も黙っておらず、即ち政府もただでは済まないはずです。もっとも政財界の方々はとっくに海外への資産フライトを済ませているので、経済的な打撃はほぼ無く、その点は安心しているのかも知れません。それでも他国、そして全世界への波及効果を考えれば、思い浮かぶのはカオスというほかありません。

 2009年1月1日以降、10年以上取引のない預金(休眠預金)は金融機関のものではなく国のものとなったことに顕著なように、国はあらゆる手段で国庫にお金を搔き集めようとしています。私は国債とは無縁なのでこれまで国債に注目したことがなかったのですが、どうも政府の考えは、国債を保有している大多数が国民であるのをよいことに、これが満期になっても買い換えによって金利の支払いだけに留め、例えば相続時にもそのままずっと引き延ばそうとしている節があります。ここまで借金が積み上がっているのですから、気持ちは分からないでもありません。もはや、国家以外の主体が行えば詐欺的犯罪になる行為をも射程に入れなければならないところまで切羽詰まっているのでしょう。

 それならいっそのこと、「満期のない国債」を新たに作ってはいかがでしょう。「満期がない」というのは、「死後はお金が国庫に入るという条件」の国債という意味で、その方がフェアです。「死ぬまでずっと」というのがミソで、将来が不安だから貯蓄に励んでいる国民にとって、これは或る種年金を補完する手段になると思います。購入する国債の額や購入者の年齢によって金利を絶妙に設定すれば、相続人がいない人が増加する昨今、国にとっても個人にとっても悪くない選択となり得るのではないでしょうか。或いは、金利ではなく医療や介護に関する或る種の特典を付与する方法も、将来の不安を幾分でも払拭するのに有効かもしれません。

 これはいわば、「国庫にお金を納入すれば、死ぬまでそれなりのメリットを得られる」というシステムで、この「それなり」のさじ加減は頭のひねりどころとなりましょう。ただ、こんなことを資本主義経済の社会でやってよいのか分かりませんが、、とにかく今、腫れ物に触るように扱われている日本の国債が、新しいパラダイムを必要としていることは確かです。もう「借りたものは返そうよ」と誰も言えないところまで来てしまったのです。


2023年8月16日水曜日

「ゴリラに学ぶ」

 暑さで何もできない夏はゴロゴロしながら読書に限ります。ゴリラ学者山極寿一(第26代京大総長)の御本で初めてゴリラの生態を知りました。もしかするとよく知られたことかもしれませんが、類人猿の中でもゴリラの子育ては独特で、子育ての重要な部分を年長の雄(シルバーバックと呼ばれる白い毛が背中に出てくる年代の雄)が受け持つということを感心しながら読みました。動物園での観察では「ゴリラは彫像のようにほとんど動かない」という印象があったのですが、それも訳があってのことだったのです。

 ゴリラの雌は子供を4歳くらいまで母乳で育て手元から放しませんが、乳離れの時期になると子供を連れてシルバーバックのところへ行き、子供を託します。シルバーバックはどの母親の子も受け入れ、己の体をよじ登ったり滑り降りたりして遊ぶのを許します。この時、巨体が少しでも動けば子供が跳ね飛ばされたりして大けがをする可能性があり、そのようなことを避けるためシルバーバックは全く動かないのだといいます。仲間の子供に対して何かまずいことをする子は誰でも平等に叱り、分け隔てなく扱うので子供たちは皆シルバーバックが大好きで、安心して遊ぶそうです。

 アフリカの森での調査時の出来事として、母親と片手を失くした子供ゴリラの話がでてきますが、「この子は大人になるまで生きられないだろう」との皆の予想に反して、その子は他の子供と変わらず立派に成長したのです。山極氏は「ゴリラの世界にいじめはない」と断言します。シルバーバックは移動時に遅れがちなこの子ゴリラをゆっくり待つ程度のことはしますが、それ以上過剰な手出しはせず、子ゴリラは失った手の代わりに体の他の部分を使って相当なことができるようになっていきます。他の子ゴリラもその子を馬鹿にするようなことはなく、逆にその子が皆を出し抜くようなことをして皆で楽しんだ出来事もあったようなのです。この或る種障害を持つ子供も他の子供と全く同じように振る舞う関係というのは、人間の世界ではめったにない関係ではないかと、私は感心しきりでした。

 また、ゴリラの生態として若い雄同士が争いになりそうな時、子供たちも含めて全員で止めると知りましたが、これも他の類人猿にはないとのこと。他の種ではボスが止めることはあっても、明らかに下位にいる子供が止めるようなことはありません。血気盛んな雄同氏は喧嘩したいわけではなく、興奮して引くに引けなくなった状態でいるので皆で止めるのが有効らしいのです。ちなみに昔は戦闘の合図と解釈されていたドラミング(主として両腕で胸をたたく動作)は、確かにゴリラが「俺は強い」と自分の強さを誇示しているのですが、「だから戦うのはやめようよ」と呼びかける意味合いがあることにも驚かされました。

 ゴリラと言えば前にイケメン・ゴリラとして有名になった名古屋・東山動植物園のシャバーニがまず思い浮かびますが、あれはひょっとするとお顔の男振りがいいというだけではなかったのかも。私は普段から「動物の方が人間よりはるかに賢い」と思っていますが、この雄ゴリラの子育てこそお手本だと感じます。子供同士の間でいじめがないのは、大人が適切な目配りと時機を逃さぬ注意を怠らないからであり、またハンディキャップのある子供が普通に成長できるのは、配慮と同時に自立を促すバランスが絶妙だからでしょう。見事な男前と言わざるを得ません。


2023年8月11日金曜日

「39.1℃の体験と水害について」

  8月5日、帰省先でついに39℃台を体験、ちなみにこの日隣接する伊達市は全国一暑い40.0℃でした。まずいえることは、39℃は35℃とも37℃とも全く違うということです。とにかくエアコンをかけてだらだら過ごすほかなく、その後2日間も猛暑日だったため熱が溜まっていくようで、本当に炊事もできなくなってしまいました。というのは台所にはエアコンがなく、ちょっと行って調理準備をしては茶の間で涼む、それも無理になってまな板や食料品を茶の間に持ち込んで下準備をする、という状態になったのです。その日は何とか夕飯を作ったものの、翌日ははっきり無理と分かったので、兄と昼は外食し、帰りは夕食を買い込んで帰宅しました。普段音声で読書しながらする料理はさほど面倒でもなくできるのですが、この暑さではもはや思考は働きません。

 今夏の日本列島ではっきりしたのは、とんでもない猛暑と台風その他による水害です。以前から日本のあちこちで姿を見せてはいましたが、もう今後は「たまたま」被害に遭ったと言うことはできないでしょう。海水温が異常に熱いので台風は途轍もないエネルギーをもって膨れ上がるのであり、太平洋高気圧の張り出しで偏西風が押し返されほとんど動かないのであり、すべて科学的法則に合致した自然現象なのです。そして、ここしかないという通り道に日本列島があるから被害が起きるのです。台風からすれば文句を言われる筋合いはなく、気候変動により必然的に起こるべきことを示しただけです。これまで100年に一度と言われた被害でも、今後は海水温が高い(=温暖化)状態が止まらない限り、残念ながらこの程度の水害は毎年起こると考えるべきでしょう。

 広範囲に記録的な大雨が降り、甚大な被害をもたらした2019年10月の東日本台風は記憶に新しいことですが、この時首都圏を救ったのが首都圏外郭放水路(いわゆる「春日部の地下神殿」)と言われています。これは本当に有り難いことでしたが、今後さらに巨大化する自然の猛威を考慮すれば、これだけでは不十分ということもあり得るでしょう。果たしてどこまで首都圏を守れるのでしょうか。近年は線状降水帯の発生により同じ地域で長時間大雨となることが顕著で、総雨量が数百から千ミリを超えることもしばしばです。これが水害に対して十分準備できていない地方のどこでも起こるとなれば、小さな自治体では対処の使用がありません。現に今年7月の秋田における記録的大雨による被害からの復興は長引いています。毎年被害総額が兆に達する額となるようでは日本中が疲弊していくことでしょう。

 日本の水害は前提事項として覚悟する必要があるかも知れません。妙案があれば示して国民に呼びかけ、実行に移してほしいと切に願います。私はかなり暗い気持ちで意気消沈しながら、とりあえず水と食料の準備をして14日頃に来るという台風7号に備えるのみです。問題はちょうど台風来襲のころ通院の予定があるということ。これは「台風の中移動すること」と「通院をキャンセルすること」とどちらが命に関わるかという選択で、その日がいよいよ迫ってきたら決めなければなりません。。


2023年8月7日月曜日

「『ガラテヤの信徒への手紙』の奥深さ」

  「ガラテヤの信徒への手紙」を読む機会を与えられ、まだ最初の方ですが考えさせられることが多くあります。パウロの福音理解のために重要とされるこの書を、私は長らくごく単純に考えていました。この書が書かれた経緯は、パウロのガラテヤ地方伝道の後に、ガラテヤの教会に現れた人たちがパウロの伝えた福音と異なる福音を広めたため、教会の信仰がキリストの福音を外れて異なった方向に向かっていることを、パウロが看過しえないこととして厳しく指摘したというものです。

 異邦人への伝道が進む中、律法における割礼や食物規定を遵守しているユダヤ人キリスト者との間の齟齬が露わになり、やがてアンテオキア教会での出来事をきっかけにパウロはペテロを面と向かって非難しました。それまでは異邦人と食事を共にしていたペテロでさえ、或る種のユダヤ人キリスト者がやって来ると彼らに対して配慮する行動を示したからです。

 パウロが宣べ伝えた福音は、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる(2章16節)」という単純明快なものです。しかし今回「ガラテヤの信徒への手紙」を読み返して分かったのは、「これを単純明快だと思うのは自分が異邦人キリスト者だからである」ということでした。異邦人にとってそもそも律法は縁がないものなので、罪からの救いを願うなら、ただ十字架の死によって人間の罪を贖った神の御子キリスト・イエスを信じればよいという点で、パウロの教えはとても簡潔です。しかし今仮に、ユダヤ人キリスト者の立場でこの書を読むとかなり違った様相を呈してきます。

 恐らくここに出て来るユダヤ人キリスト者は、律法に誇りを持っており、なおかつキリストの十字架の贖いを信じて新しい契約に入り、主イエスの直弟子であるペテロとも交際している自分たちの信仰を盤石なものと考えていたことでしょう。しかし、「人はただ信仰によってのみ救われる」という福音が異邦人世界へ広がっていく時、彼らが自分たちの信仰の優位性が脅かされるような心持になったとしても不思議はありません。

 パウロの言葉はユダヤ人キリスト者にとってはユダヤ人社会で生きるためのガイドラインが、示されているようで実は示されていません。パウロは「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです(2章19節)」と何やらかっこよく述べており、そしてそれは間違いなくパウロの実感であったでしょうが、実際にユダヤ社会で生きるユダヤ人キリスト者にとっては、律法を固く守るべきなのか、主キリストへの信仰さえあれば律法は守らなくてもいいのか、それらは時と場合、あるいは個々人の行動に任されているのか、その場合の救いの確かさは変わらないのか・・・といった戸惑いが頭をかすめたのではないでしょうか。彼らはそれらの問いの答えをパウロの言葉の中に十分に見いだせなかったのではないかと思うのです。

 何故この書をユダヤ人キリスト者の立場で考えてみる気になったかと言うと、日本で暮らすキリスト者とのアナロジーで考えてみると、奥深い視点が与えられる気がしたからです。日本のキリスト者は、日本の社会できちんと生活する一方、キリスト者として十分に生きることを願っています。しかし、この二つは必ずしも両立しない、そのため折に触れたびたび判断を迫られるという経験を伴います。これは状況は違えどもユダヤ人キリスト者が感じる苦悩と似たものがあると思います。こういうことに画一的な規定を決めても無意味で、むしろそれこそが当時の行き詰ったユダヤ社会をもたらしたものだったでしょう。この手紙を書いたパウロは、具体的な規定はむしろ各々の信仰を殺すことになると気づいており、だからこそ決してぶれてはいけない教えのみこの書に記したのではないかと思います。

 キリスト者は生きていくうえで間違いなく苦悩にさらされますが、それでも立ち現れる様々な場面で苦しみながらも信仰に反しない限りの対処をしていくでしょう。しかし、そこには苦しみだけでなくそれを上回る神の恵みがあることも確かです。今回思いがけずそのような視点を与えられて、感慨深くこの書を読んでいるところです。


2023年8月1日火曜日

「限界を超えた暑さ」

  7月は日本全国災害級の暑さとなりました。東京の猛暑日は13日で、これまで最高だった2001年の7日の倍近く、また例年は平均して1.4日ということからも、今年の7月がいかに並外れて暑かったかが知れます。気候変動は一定のレベルを超えると急速に進行すると言われており、冬であるはずの南半球で氷河が溶け出していると聞けば、「もしや?」の恐れが生じます。

 7月の東京都心の最高気温は26日(水)の37.7℃で、私はひたすらエアコンをかけて家にこもっていました。普段夕方の外出は避けていますが、この日はやむを得ず6時半頃やっと買い物に出られたのでよく覚えています。連日39℃台の猛暑日地点が報道されるにつけ、「これより2℃高い気温って・・・」と、今現在それがどれほどの暑さなのか全く想像が及びません。暑さで有名な北関東の都市だけでなく、どこもかしこも暑いのが今年の特徴で、この気温はもはや人間の生存の限界を超えたと言うべきではないでしょうか。

 すでに7月半ばからラジオでは、「のどが渇く前に水分をとる」、「適切に冷房を使う、あるいは街のクールスポットに避難する」、「食事をしっかり食べ、適度の運動と十分な睡眠を心掛ける」といった注意喚起が繰り返しなされていましたが、これほど熱が溜まっていく状況下では、もはや注意していれば大丈夫というレベルではありません。私の周辺でも、自分を含め「あ、もしかして熱中症になりかけか?」という際どい体験を、老若男女問わず何人もの方から聞きました。実際報道では、熱中症で亡くなる方も全国で増えています。

 私は少し前まで5時にはウォーキングに出て、一日の運動をしていたのですが、朝の時点ですでに暑すぎるようになってこれは止めました。節電効果の高いエアコンをつけて小部屋で過ごすようになったため、リビングのパソコンの一台を小部屋に移動しました。こういう巣ごもりも一日二日ならよいのですが、十日以上どこまで続くか分からないとなると、暑さ疲れが溜まって来て次第に体が弱ってくるのを感じます。

 買い物は早朝7時から開いているスーパーに行くか、あるいは、気が進まないながらしかたなく陽が沈んでから出かけたりしていましたが、最近は近所にある街のクールスポットとも言えるモールに行くことも増えました。開店と同時に入店し、昼食をそこで済ませて夕方まで過ごします。そこには近隣にお住まいの多くの方々が涼みに来ているのです。そこに行くまでの数分さえ危険を感じる暑さのこともありますが、辿り着ければ全館冷房が効いているので一日過ごした後の疲れは少ないと感じます。私は館内の階段も使って、音声読書をしながらウォーキングすることにしており、館内には休憩用のいすも多いので疲れたら休み、またこれまで入ったことのないお店を覗いては結構楽しんでいます。商品をじっくり見る時間があると良さも分かり、結局毎日何かしらは購入して帰ることになり、モールにとっても避暑に訪れる人にとってもプラスに作用しているのではないでしょうか。

 今のところいわゆるお出かけは、通院と週に一度都バスを乗り継いで教会へ行くだけですが、これもこの暑さでは途中で体調に不安を感じることが出てきます。夏休みの観光や旅行で移動する人々の話題をニュースで聞くにつけ、掛け値なしに「すごい体力だな」と感嘆します。逆に救急搬送のサイレンを聞くことも多くなり、この暑さの中で使命を果たしておられる救急隊員、医療関係者には頭が下がる思いです。今では32~33℃くらいなら涼しいと感じるまで狂ってしまった体感、これこそ危険かも知れないなと思いつつ、搬送される一人にならぬよう、最大限の注意をしなければと思います。