思えば私の居場所は子供の頃から家―学校―教会というトライアングルを成していました。もちろん家と学校がいつも大きな割合を占めていましたが、週に一度行く教会も間違いなく生活の一部でした。やがて学校が職場になり、私と教会を結ぶ線はますます頼りなく細くなっていきましたが、かろうじて途切れることがなかったのは神様の恵みとしか言えません。職場がなくなった今、好き勝手に生きている自分を制御してくれるのが教会の存在です。普通に生活していて聞こえてくる国内外のニュースは、胸ふさがれるような希望の無い有様で、おそらくだからこそ若い方々がたくさん自死を選んでいる現実に二重の絶望を感じるのです。教会はこの世では決して聞くことができない言葉を聴ける場所です。神様は私たちの理解を絶するような方ですが、それでも神様は私たち一人一人に目をとめ、必要な言葉をくださいます。
社会生活で人と心通わぬことほど辛いものはありませんが、他人の心は推し量ることができないので、苦難にある友人を慰めようとしてむしろ気持ちを傷つけてしまったり、自分には全く心当たりのない理由でなぜか避けられていると感じることなどよくあることです。こういう時、真に悩み苦しみを取り去り、心の修復ができるのは主イエスだけなのです。教会の友人とそういう話ができるのは大きな慰めで、時に「祈っててね」とお願いしたり、「祈ってるね」と約束し合う友がいるのは、文字通り有難いことではないでしょうか。ここにはおそらく神の国でしかありえないような平安が人間同士の間に成立しています。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1)