「あれっ」と思ったのは確か今年1月の通院で保険証の確認がなかった時でした。それまでは毎回その月の最初の通院時に保険証の提示を求められたのですが、「変更があった時に知らせてもらえばいいです」とのこと、手続き上の漏れがあったから毎回提示になったはずなのに、「これは変だ」と思いました。頭に浮かんだのはマイナンバーカードとの関係で、もう既にマイナンバーと保健相は紐づけられているのではないかということです。そういう方向に進んでいるとは知っていましたが、ボーっと生きている私は、今のところそれは任意だろうと考えていたのです。しかし厚労省によれば、どうも「紙の健康保険証を2024年秋めどに廃止」というのは既定事項らしいのです。今回の病院の対応に接し「もうそこまで進んでいたのか」という驚きを禁じ得ませんでした。
本来2025年まで使えるはずだった住基カードが、2022年12月以降は住民票などがコンビニで取れなくなるという連絡が来て、泣く泣くマイナンバーカードを作ったのを思い出します。住基カードによって区役所に行かずとも、また閉庁後でもコンビニで用が済む利便性はそれまでの利用でよく分かっており、それは年とともに有難いと感じるサービスでした。しかし、お役所内で留まっていた住民基本台帳制度と違い、官民挙げてのマイナンバー制度は全く別物の感があります。
今となっては保険証とマイナンバーとの紐づけは避けられないようですが、医療情報という個人情報中最重要ともいえる情報を結び付けて大丈夫なのだろうかという危機感が強い。医療の恩恵を受けている身としては、医療機関の煩瑣な手続きの軽減は理解できますが、恐いのは情報漏洩です。或る程度の歳になれば誰でもそれなりの病歴はありますし、健康診断等のデータが蓄積されて何らかの利用に供されるのは間違いありません。今日生まれた赤ちゃんも一生の間ずっと医療情報が積み上げられていくとなると、人生に不利な結果をもたらす可能性もあり、心にうすら寒いものを感じます。何でも突き詰めずには済まない現代人の習性では、これは最終的にDNAの記録にまで行きつくのではないでしょうか。もっと迅速に起こることとしては、今雇用されている医療事務関係者は必ずや削減され、雇用がまた失われることでしょう。これは公務員も同じですが・・・。
私のような老い先短い者には、受診に当たって身体にかかる負担をできる限り減らしたいという気持ちと、情報漏洩があってもこのさき高が知れているという捨て鉢な気持ちとで、最大限譲って保険証との紐づけはもう仕方ないとの諦観が濃厚です。ところがマイナポイントの説明を読んで驚いたことに、今回のキャンペーンで国は保険証だけでなく年金など公的なお金を受け取るための銀行口座まで紐づけることを強力に推進しているようです。住民基本台帳制度は公的な情報だけのものでしたが、マイナンバー制度では金融機関にまで触手を伸ばすとは、何というあからさまな浅ましさ。保険証も金融機関も、恐らくゆくゆくは民間の様々なサービスも1枚のカードに紐づけるというのが、支配者の夢想なのでしょうが、何もかも一緒くたにしては絶対にいけません。マイナンバーを納税者番号として納税逃れを捕捉する目的で用いるなら一般の理解も得られるでしょう。しかし、金融機関との紐づけは全くの別問題です。なぜなら、勤め人はもちろん、確定申告をしている人、年金生活者等のほとんどの善意の市民に後ろ暗いことはなく、当然国税庁はそれらの口座を把握しているからです。マイナンバーと銀行口座の紐づけが義務化された場合、善意の市民にとってはそれによって得られる現在以上のメリットはほぼ無く、それが流出した時に生じる甚大な損害があるばかりです。これまでの事件のあれこれからデータのセキュリティには不安しかなく、公的機関よりはるかにIT技術を知り尽くした悪徳ハイエナの襲来を思うと身がすくみます。人為的なミスや一定の割合で必ず存在する故意の流出事件はどんなに刑罰を重くしてもデータが流出した後では無意味です。
マイナンバーの民間利用は凄まじいスピードで進むと思われ、やがて名前・生年月日・住所・性別、顔認証、年収や資産、借金やクレジット情報、医療履歴・健康状態、幼時からの教育に関わる全ての情報、趣味や好み、消費傾向や買い物情報、インターネットや交通機関の利用履歴など、ありとあらゆる情報と紐づけられるはずです。マイナンバー制度の手本国はエストニアとのことで、日本を代表するIT企業の社長とともに政府関係者が視察したと聞いていますが、これは日本の政官財が目指すシステムを成立させている国がアメリカや西欧にはなく、旧ソ連からの抑圧と闘った特殊事情をもつエストニア一国しかないことを物語っているでしょう。ドイツではそもそも行政分野別の番号を用いており共通の個人識別番号はありません。1970年代に検討はされましたが、プライバシー侵害を懸念する声が大きく実現に至りませんでした。また、個人識別番号制度をもつ国は、アメリカでも韓国でもスウェーデンでも制度の綻びが著しく、なりすまし事件が多発している現状に、分散化の動きもしくは何らかの見直しが検討されているようです。とんでもない展開が目に見えている総背番号制をこれからやろうとするのは愚の骨頂なのに、日本はこれから本格的にオーウェルの『1984年』を地で行く世界に突入するのです。
息が詰まる監視社会に若者が絶望するのも無理ないでしょう。唐突なようですが、2022年の出生数はついに80万人を切りました。予測より十年早いとのこと。子供というのは未来そのものです。子供が減ったということは、経済的、社会的理由で子供が持てないこともさることながら、その心底を探れば、これから生きる未来に愛する子孫を残したくないといった真意が今の大人にあるということではないでしょうか。はっきり言えば、「生きていても楽しそうじゃないな」ということです。2042年には20歳の若者は80万人を下回る数しかいないのです。これまで割と適度に息が抜ける社会で何十年と生きてきた人には窒息しそうなこの時代でも、今まさに誕生した子供はそれが生きる環境です。しかし、子供はその環境に順応しているわけでは全くなく、生物としての限界に達しつつあるのではないでしょうか。だから子供のっ自殺も過去最多なのです。監視社会が加速し、生物にとって生きにくい時代と個体が体感すれば、少子化はさらに加速度的に進むに違いありません。何十年にもわたって推し進められてきた効率主義が止まらない暴走を続け、負の効果を雪だるま式に増大させて、人間をなぎ倒しながら進んでいます。一つの国民が消滅の危機に瀕しているのです。こういう社会をつくってしまった大人の一員として、これから国の未来に何があっても受け止めるしかありません。