2023年3月28日火曜日

「不滅の核家族」

 エマニュエル・トッドの家族形態論を読み、「絶対核家族」が家族形態の最も古い形と知ってから、思い当たることがいろいろあり、そのことを兄に話してみました。もっとも、「ウチは何事も平等だったな」という点では、「相続は親の自由な決定による」とされる真正の絶対核家族ではなく、「平等主義核家族」の方が近いのですが・・・。いずれにしても日本の家族形態史において核家族が全盛時代だった時を生きてきたのは確かです。

 あれこれ話すうち、特に老年になってから母が両親・兄弟姉妹と毎年のように集合して家族旅行をしていたのを兄が思い出し、「一度旅行に行ってくるか」と言ったのにはちょっとびっくりでした。これまで兄と二人で旅行したことはなく、「なんか今生の別れみたい」という思いが頭をよぎったのです。ただ、確かにこの歳になるといつ何があってもおかしくないと自覚すべきで、それもいいかなと思いました。母とヘルベルトと三人でドイツ旅行をしたことは今でもつくづくやってよかったと思うことの筆頭ですから。思えば父がりくを飼ったおかげで、私の帰省にも弾みがつき、一度家を離れてなんとはなしに遠慮があった帰省中の生活も、心の隔てなく過ごせるようになったのだなあと今だからこそ感じます。りくの手柄であり、また父の作戦だったのかも知れません。

 先日、「今、お父さんとお母さんがいたら楽しかっただろうね」と兄が言うので、私も本当にそうだと同意しました。「結局、今手にしているものは全部親からもらったものなんだよね」とも話しました。その通りなのですが、さらにその先を突き詰めれば全て神様から与えられたものなのだというところに行き着くでしょう。家族とはそういうものかもしれませんが、日常の忙しさに紛れてちゃんと話せてなかったことがたくさんあるのです。時間ができた今、核家族を構成した成員皆が、それこそ旅行にでも行ってワイワイガヤガヤ話せたらなあという、無理な願いを胸に抱くのです。そしてそこには、りくとボビー(子供の頃飼ってた犬)も当然の如く同席しています。気のいいりくはお転婆犬ボビーに振り回されています。自分の中の最も楽しい家族の風景です。

 理想としてはそこにヘルベルトもいるのですが、彼には彼の絶対核家族があるのですから、りくがイヌ属的直感で彼を「別のルーデル(Rudel群れ)の人」と見なしていたのは当たっていたのです。ちなみにトッド氏によれば、ドイツも日本も国としての家族形態は「直系家族」に分類され、家族形態が同じ国同士は移住等においてあまり摩擦が生じないらしい。おまけにヨーロッパには騎士道精神、日本には内助の功的心性があるので、母国での振舞いを普通にしててもドイツ男性と日本女性は双方とも自分が大切に扱われていることに感じ入ってしまい、これが相性のいい一因と言われます。だとすると、日本男性とドイツ女性の組み合わせは大変かもしれないと想像しますが、どうなんでしょう。

 先日帰省した時、泊りがけの旅行とまではいきませんが、近くの日帰り温泉に兄と行ってきました。ヨーロッパの湯治場とはまた違って、日本の温泉もとても快適です。昼過ぎ頃には近所の方もずいぶん来ていいて、地元の温泉もいいものだなあと思いました。何種類かの湯船と休憩所(みなマッサージ器か大仰な寝台の上で弛緩している)を何回か行き来して、入浴施設を堪能しました。帰る午後4時には駐車場はガラガラになっていましたので、「みんな帰って夕飯の支度だな」とほっこりしました。わずかな時間でリフレッシュ、また時々行きたいです。


2023年3月22日水曜日

「春の渡り」

  帰省中の3月下旬、朝の空気は冷たいながら、春の陽ざしに誘われてウォーキングに出かけました。いつもと違う対岸の土手を行くと、汗ばむくらいの暖かさでした。一つ目の橋を越し、「今日はまだまだ行けそう」と快調に進んでいくと、次の橋の手前に何やら白い塊が・・・。「えっ、まだいたの?」との驚きを隠せない。それは白鳥たちでした。「こんなに暖かくなってるのに、君たちはまだ日本にいて大丈夫なの?」と思いつつ、数を数えると15羽ほどでした。真冬のひと頃はもっと多かったから、何家族かは既に北へ飛び立ったのでしょう。

 川辺にぼやっと佇んでいると、気づけば目の前に白鳥たちが集まって来ていました。あ、まずい・・・餌をくれる人と間違えられているみたい。ここには家族で餌やりに来ている人がいると兄が言ってたっけ。おこぼれに与ろうと目ざとく鴨たちもささーとやって来ます。みんな期待の眼差しでこちらを見つめており、二、三羽の白鳥はサーッと羽を広げてアピールさえしています。まるでJALのロゴみたい。これはまずい。「ごめんなさい、何も持って来てないの~」と叫んで、すたこらさっさと逃げてきました。

 翌日、早朝は昨日の暖かさが残っていましたが、だんだん冷えて来て8時頃には「ん? 外、なんか白くない?」という状態になりました。その日は結局一日降り続き、6~7センチは積もりました。白鳥さんたちはこういう事態を予測していたのですね。雪はぼたん雪だったので翌日一日で解けました。白鳥たちの春の渡りももうまもなくでしょう。どうぞお気をつけて!


2023年3月18日土曜日

「加速するマイナンバー制度」

  「あれっ」と思ったのは確か今年1月の通院で保険証の確認がなかった時でした。それまでは毎回その月の最初の通院時に保険証の提示を求められたのですが、「変更があった時に知らせてもらえばいいです」とのこと、手続き上の漏れがあったから毎回提示になったはずなのに、「これは変だ」と思いました。頭に浮かんだのはマイナンバーカードとの関係で、もう既にマイナンバーと保健相は紐づけられているのではないかということです。そういう方向に進んでいるとは知っていましたが、ボーっと生きている私は、今のところそれは任意だろうと考えていたのです。しかし厚労省によれば、どうも「紙の健康保険証を2024年秋めどに廃止」というのは既定事項らしいのです。今回の病院の対応に接し「もうそこまで進んでいたのか」という驚きを禁じ得ませんでした。

 本来2025年まで使えるはずだった住基カードが、2022年12月以降は住民票などがコンビニで取れなくなるという連絡が来て、泣く泣くマイナンバーカードを作ったのを思い出します。住基カードによって区役所に行かずとも、また閉庁後でもコンビニで用が済む利便性はそれまでの利用でよく分かっており、それは年とともに有難いと感じるサービスでした。しかし、お役所内で留まっていた住民基本台帳制度と違い、官民挙げてのマイナンバー制度は全く別物の感があります。

 今となっては保険証とマイナンバーとの紐づけは避けられないようですが、医療情報という個人情報中最重要ともいえる情報を結び付けて大丈夫なのだろうかという危機感が強い。医療の恩恵を受けている身としては、医療機関の煩瑣な手続きの軽減は理解できますが、恐いのは情報漏洩です。或る程度の歳になれば誰でもそれなりの病歴はありますし、健康診断等のデータが蓄積されて何らかの利用に供されるのは間違いありません。今日生まれた赤ちゃんも一生の間ずっと医療情報が積み上げられていくとなると、人生に不利な結果をもたらす可能性もあり、心にうすら寒いものを感じます。何でも突き詰めずには済まない現代人の習性では、これは最終的にDNAの記録にまで行きつくのではないでしょうか。もっと迅速に起こることとしては、今雇用されている医療事務関係者は必ずや削減され、雇用がまた失われることでしょう。これは公務員も同じですが・・・。

 私のような老い先短い者には、受診に当たって身体にかかる負担をできる限り減らしたいという気持ちと、情報漏洩があってもこのさき高が知れているという捨て鉢な気持ちとで、最大限譲って保険証との紐づけはもう仕方ないとの諦観が濃厚です。ところがマイナポイントの説明を読んで驚いたことに、今回のキャンペーンで国は保険証だけでなく年金など公的なお金を受け取るための銀行口座まで紐づけることを強力に推進しているようです。住民基本台帳制度は公的な情報だけのものでしたが、マイナンバー制度では金融機関にまで触手を伸ばすとは、何というあからさまな浅ましさ。保険証も金融機関も、恐らくゆくゆくは民間の様々なサービスも1枚のカードに紐づけるというのが、支配者の夢想なのでしょうが、何もかも一緒くたにしては絶対にいけません。マイナンバーを納税者番号として納税逃れを捕捉する目的で用いるなら一般の理解も得られるでしょう。しかし、金融機関との紐づけは全くの別問題です。なぜなら、勤め人はもちろん、確定申告をしている人、年金生活者等のほとんどの善意の市民に後ろ暗いことはなく、当然国税庁はそれらの口座を把握しているからです。マイナンバーと銀行口座の紐づけが義務化された場合、善意の市民にとってはそれによって得られる現在以上のメリットはほぼ無く、それが流出した時に生じる甚大な損害があるばかりです。これまでの事件のあれこれからデータのセキュリティには不安しかなく、公的機関よりはるかにIT技術を知り尽くした悪徳ハイエナの襲来を思うと身がすくみます。人為的なミスや一定の割合で必ず存在する故意の流出事件はどんなに刑罰を重くしてもデータが流出した後では無意味です。

 マイナンバーの民間利用は凄まじいスピードで進むと思われ、やがて名前・生年月日・住所・性別、顔認証、年収や資産、借金やクレジット情報、医療履歴・健康状態、幼時からの教育に関わる全ての情報、趣味や好み、消費傾向や買い物情報、インターネットや交通機関の利用履歴など、ありとあらゆる情報と紐づけられるはずです。マイナンバー制度の手本国はエストニアとのことで、日本を代表するIT企業の社長とともに政府関係者が視察したと聞いていますが、これは日本の政官財が目指すシステムを成立させている国がアメリカや西欧にはなく、旧ソ連からの抑圧と闘った特殊事情をもつエストニア一国しかないことを物語っているでしょう。ドイツではそもそも行政分野別の番号を用いており共通の個人識別番号はありません。1970年代に検討はされましたが、プライバシー侵害を懸念する声が大きく実現に至りませんでした。また、個人識別番号制度をもつ国は、アメリカでも韓国でもスウェーデンでも制度の綻びが著しく、なりすまし事件が多発している現状に、分散化の動きもしくは何らかの見直しが検討されているようです。とんでもない展開が目に見えている総背番号制をこれからやろうとするのは愚の骨頂なのに、日本はこれから本格的にオーウェルの『1984年』を地で行く世界に突入するのです。

 息が詰まる監視社会に若者が絶望するのも無理ないでしょう。唐突なようですが、2022年の出生数はついに80万人を切りました。予測より十年早いとのこと。子供というのは未来そのものです。子供が減ったということは、経済的、社会的理由で子供が持てないこともさることながら、その心底を探れば、これから生きる未来に愛する子孫を残したくないといった真意が今の大人にあるということではないでしょうか。はっきり言えば、「生きていても楽しそうじゃないな」ということです。2042年には20歳の若者は80万人を下回る数しかいないのです。これまで割と適度に息が抜ける社会で何十年と生きてきた人には窒息しそうなこの時代でも、今まさに誕生した子供はそれが生きる環境です。しかし、子供はその環境に順応しているわけでは全くなく、生物としての限界に達しつつあるのではないでしょうか。だから子供のっ自殺も過去最多なのです。監視社会が加速し、生物にとって生きにくい時代と個体が体感すれば、少子化はさらに加速度的に進むに違いありません。何十年にもわたって推し進められてきた効率主義が止まらない暴走を続け、負の効果を雪だるま式に増大させて、人間をなぎ倒しながら進んでいます。一つの国民が消滅の危機に瀕しているのです。こういう社会をつくってしまった大人の一員として、これから国の未来に何があっても受け止めるしかありません。


2023年3月14日火曜日

「住居を楽しむ」

  住宅関係の専門家が「自分の住居に完全に満足している人は5%くらいしかいないのでは?」というようなことを述べているのを聞いた覚えがあります。居住地の地理的・地質的状況、周辺の自然環境や近隣居住者を含む社会環境、交通や買い物の利便性、学校やスポーツ・文化的施設へのアクセス環境等といった外的状況から、個々の住宅の種類、建物の広さや堅牢さ、騒音や日照等の居住快適性、セキュリティなどあらゆる観点から評価するなら、「自分の住居に完全に満足」という人はそのくらいしかいないのかも知れません。狛江の強盗事件はその凶悪さにおいて高齢者を震撼させましたし、多数の死者を出したトルコの大地震は他人事ではなく、そう遠くないうちに必ず起こると言われている首都直下地震や富士山大爆発、温暖化や偏西風の蛇行による酷暑やドカ雪まで含めれば、確かに日本のどこでも安心していられる人は一人もいないでしょう。

 それにもかかわらず、多くの人は自分の住まいに「80%くらい満足」で過ごしているのではないかと思うのです。私自身は割と何でも受け入れられる質ですから、住居に関して何の不満もありません。もっとも、毎月必ず地理的移動を伴う変則的生活をしており、できるだけ両方の良さを活用するようにしているせいもあるかも知れません。基本夏は都会より朝晩が涼しい田舎暮らしで一息つき、冬は暖かな東京暮らしで体をほぐします。この頃は陽ざしの出た穏やかな日でも、思わず言葉を失くす吾妻連峰の偉容から吹く風はまだ冷たく、気が付けば『早春賦』を歌っています。いや、「今日も昨日も雪の空」ということはもうないと思いたい。ついでに移動生活を自宅に援用して、近頃は夏は北の部屋、冬は南の部屋で就寝するようになり、これはこれで気分も変わりとても快適です。

 地方と東京の違いが端的にあらわれるのが買い物の場面です。田舎の良さは新鮮な野菜と果物が直売所で安価に手に入ること(最近はハウスものですが、キュウリや顔ほどもあるカリフラワーの甘くて美味しいこと!)、東京の良さはとにかくお店が多く、ウォーキングを兼ねた毎日の買い物ルートを考えるのが楽しいです。不思議と毎日何かしら買いたいものがあり、店ごとにそこでしか手に入らないものを目指して出かけるのは嫌じゃないことに気づきます。やはり何かしら目的がないとつまらない。しかもそれが買い物ならなお楽しいというのは、生来人間が経済的動物だからなのかもしれません。大震災から12年経ち、この幸いな生活をいつまでも・・・と願ってやみません。


2023年3月9日木曜日

「教会の友人」

 思えば私の居場所は子供の頃から家―学校―教会というトライアングルを成していました。もちろん家と学校がいつも大きな割合を占めていましたが、週に一度行く教会も間違いなく生活の一部でした。やがて学校が職場になり、私と教会を結ぶ線はますます頼りなく細くなっていきましたが、かろうじて途切れることがなかったのは神様の恵みとしか言えません。職場がなくなった今、好き勝手に生きている自分を制御してくれるのが教会の存在です。普通に生活していて聞こえてくる国内外のニュースは、胸ふさがれるような希望の無い有様で、おそらくだからこそ若い方々がたくさん自死を選んでいる現実に二重の絶望を感じるのです。教会はこの世では決して聞くことができない言葉を聴ける場所です。神様は私たちの理解を絶するような方ですが、それでも神様は私たち一人一人に目をとめ、必要な言葉をくださいます。

 社会生活で人と心通わぬことほど辛いものはありませんが、他人の心は推し量ることができないので、苦難にある友人を慰めようとしてむしろ気持ちを傷つけてしまったり、自分には全く心当たりのない理由でなぜか避けられていると感じることなどよくあることです。こういう時、真に悩み苦しみを取り去り、心の修復ができるのは主イエスだけなのです。教会の友人とそういう話ができるのは大きな慰めで、時に「祈っててね」とお願いしたり、「祈ってるね」と約束し合う友がいるのは、文字通り有難いことではないでしょうか。ここにはおそらく神の国でしかありえないような平安が人間同士の間に成立しています。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1)


2023年3月4日土曜日

「春は憂いのお片付け」

 6時少しすぎには日の出という春の到来間近のこの頃は、いつも、1月、2月に蓄積された気鬱な気持ちが噴き出してきます。母も父もりくも冬に亡くなったせいで、この期間は様々な後悔に襲われます。今朝のラジオでアナウンサーが「悔やむ時間って大事ですよね」と言っていたけれど、私の場合それほど甘くない。まともに考え始めるとてきめんに体調が悪化するのが分かってからは、ほどほどで乗り切るのを常にしています。ただこの冬は幾人かの知人の訃報が重なり、それを引きずってさらに気が沈んでいます。ものすごく身近な人でなくとも、人生の中で良い接点のあった方々が亡くなられることが続くと、本当に寂しさと高齢化の進展が体に応えます。今回は「中高生自殺過去最多」の報道が最後の引き金になったようで、まだこれから3.11もやって来るというのに気が重いことです。

 こういう時は体を動かすに限る、とばかりに今年も小さな断捨離をしています。「今日は廊下の戸棚」、「明日はリビングの引き出し」と、場所を決めて集中。1年くらいじゃそんなに捨てる物はないのでは・・・と思っていたのですが、1年たってみると「要る」「要らない」は一目瞭然。要らないものをゴミ袋に放り込み、まだ要るものは分類して最適なサイズの箱に入れます。引っ越しもそうですが、片付けの基本は分類と箱詰めです。こういう時のために私は大抵の箱は取っておくようになり、今はすっかり箱フェチになりました。箱を取っておく部屋がもう一部屋あるといいなと思うほどです(これぞ本末転倒)。箱さえあればあとは楽。片付け作業は箱の最適解を探し出して品物を上手に入れ、箱自体を収納場所に格納するだけです。集中して行うと「棚が1段空いた」、「引き出しが2個空いた」と目に見える成果が出て気が紛れます。

 今年はもう活字本は読めないなとあきらめがついたので、本はだいぶ処分しましたが、収納空間の確保がそれほど切羽詰まってはいないので、子供の頃に読んだ本や長いこと手元に置いていた本はまだ踏ん切りがつかない。よって今年は手を付けずそのままに・・・。日記、手紙類もいつかは処分しなければと思っていますが、まだいいかなあ。それにしても昔は私信と言えば手紙しかなかったのだなと実感。或る時期からはメールになって手紙はぐっと減りました。デジタル遺品は時期さえ間違えなければ、ワンクリックでしょうきょできると少しは安心できます。

 今週は片付けに専念し、ぐったり疲れました。場所をあちこち移動しただけの物もあって「何やってるんだろ」ということもありましたが、箱の移動と廃棄物の運搬には想像以上に屈伸運動がきつく、大腿四頭筋と背筋が鍛えられた気がします。今年のミニ断捨離は終わりに近づいていますが、「本当は今ある物もほとんど要らないんだよな~」という心の声が聞こえてきます。無心で作業しているとき以外は気が晴れることはありませんが、これはむしろレント(受難節)にふさわしいことなのでしょう。