前回は『マクベス』を手掛かりに、スコットランドの王位継承についてその家族形態から考えました。今回は日本の皇位継承について、特に興味深い飛鳥から奈良時代にかけての女帝の時代を例に、家族形態という視点から考えてみます。当時は、妻問婚(招婿婚)が一般的な婚姻様式でしたが、一般人はそれで不都合はないとしても、天皇家となるとやはり事情が違ったのではないかと思います。男子の天皇の場合、世間同様の婚姻形態に加えて、人間関係の煩雑さやたびたび外出を要する煩わしい形態を避けて自分の家に妻を召し入れ、最も原始的な家族形態である絶対核家族を形成していたと仮定しても不都合はないように思います。
そうすると天皇家においては、ひょっとすると妻子との間に一般家庭より緊密で親しい家庭が形成されていたかも知れません。生まれた子供に関しては、一緒に家にとどまる場合、独立して近くに住む場合、完全に家を離れる場合など、いろいろなケースが考えられます。また、天皇が政治的事情や気持ちの変化により新たに複数の家庭を営むこともあったでしょう。さらに孫が生まれる時分には、同居している娘家族の場合はもちろん、独立して家を出た子供でも、息子より娘の方が孫を連れて訪問してくる機会は多かっただろうということはごく自然に推測されます。つまり娘一家の方が息子一家より天皇と気さくで親密な関係を築きやすかったことと考えても大きくずれてはいないはずです。この時代の天皇家の系図を見れば、皇位継承において男女の別なく継承者になれた時代と考えるほかなく、天皇の娘・すなわち皇女であることが皇位継承者としての非常に重要なファクターになっていったのは、当時の天皇家独特の家族形態の在り方も一因ではないでしょうか。
日本における皇位継承は西洋と違って、戦場におけるあからさまな武力ではなく、血統、親の家系の格というものが物を言います。壬申の乱は、天智天皇が次の天皇候補と目された弟の大海人皇子を差し置いて、息子の大友皇子に皇位を継承させようとしたために起きた争いですが、大友皇子の母が采女であることを考慮すれば、到底天皇になれる血統ではありません。当時は皇位の兄弟継承も普通にあったのですから、天智天皇と同様に舒明天皇を父、皇極天皇=斉明天皇を母とする大海人皇子が異議を唱えても当然でしょう。ましてや、大海人皇子の妃は天智天皇の皇女でもある鸕野讚良(うののさらら:後の持統天皇)なのですから、血統的には勝負はついており、実際、大海人皇子は壬申の乱で大友皇子を破って天武天皇として即位します。天武天皇には后との間に草壁皇子がいますが、恐らくは后の強い要請で、天武天皇は母の違う六人の息子たちを集めて「吉野の盟約」を結ばせます。これにより草壁皇子は天武天皇の第一皇子となり、20歳となる681年に次の天皇たるべき皇太子に指名されます。
ところが、草壁皇子が政務を行えるようになる前の686年に天武天皇が亡くなってしまい、これを機に皇后(大宝律令で明文化されるまでこの呼び名はありませんが)が政務の前面に出てきます。草壁皇子は当時25歳なのですから、ここで天皇として即位してよいように思いますが、そうはならず、皇太子の母が皇太子の後ろで称制という天皇代行の形をとるのです。最初私は、のちのち持統天皇は早逝する草壁皇子をどうしてもっと早く天皇として即位させておかなかったのかと悔やんだであろうと思いましたが、彼女がそうしなかった以上、それができない事情があったと考えるしかありません。理由として、皇子が病弱であったということも考えられますが、それ以上に律令国家の黎明期でまだ制度が整わず、膨大な実務を必要としていた時期であるのに、若い皇太子はまだ頼りなくその力がないと母の目には見えたからでしょう。彼女はすでに草壁皇子が皇太子となった翌年の682年に飛鳥浄御原令の編纂に着手しており(実務は藤原不比等か)、これからの統治のために欠かせない制度の整備に邁進していたのは、ひとえにこれから国政を司ることになっている息子のためでした。
そう言い切れるのは、皇后が天武天皇の逝去後にまずおこなったのが、息子・草壁皇子の天皇即位にとって差し障りとなるものを取り除くことだったからです。具体的には亡き姉でもあり、天武天皇の前妻でもある大田皇女の息子・大津皇子に謀反の疑いをかけ自殺に追い込んだのです。大津皇子は天皇の資質という点では草壁皇子よりも優れていたと言われており、そのため彼を一番の障壁と見なしたのでしょう。しかし、大津皇子を消しても、まだ他に天武天皇の別の妃から生まれた皇子たちは存在していました。
このように、天智天皇を父、蘇我系の遠智娘(おちのいらつめ)を母とする持統天皇は、自分の家庭(夫:天武天皇、息子:草壁皇子)を持つと、息子に皇位を継承するために、あらゆる手を使う母という、絶対核家族における強い母の典型のような姿を見せます。ところが、そこまで息子のためにあれこれ動いても悲劇は襲います。愛息子の草壁皇子が689年に28歳で亡くなるのです。その二か月後に飛鳥浄御原令が完成して、天武天皇時代の庚午年籍以来の戸籍作りも始まるのですが、息子を思えばこそ、律令制度の整備に猛進してきた母にとってこの息子の死ほど衝撃的な出来事はなかったでしょう。
ここに至って690年、ようやく彼女は持統天皇として即位します。父も夫も天皇だったのですから、この時点で男女の別なく抜群の血統なのは言うまでもなく、既に称制を行っていたことからも彼女に政務を司る能力が十分以上にあるのは明らかでした。これまでに女帝として傑出した統治能力を発揮した推古天皇がいましたし、持統天皇の祖母であり重祚して二度天皇に即位した皇極天皇=斉明天皇もいました。斉明天皇は、百済の救援要請に応じて唐・新羅連合軍に対する救済軍を送るため、一族数名(この中には女だてらに額田王やまだ年若い後の持統天皇もいました)と共に兵を率いて自ら船団を組んで難波を発ち、愛媛の熟田津経由で筑紫朝倉まで向かった人なのですから、何をか言わんやです。女であることをもって即位を妨げる理由にはならない時代だったのは確かでしょう。というより何より、彼女の力は強大で、この時彼女以上の人材がいなかったと言うのが的を射た言い方かもしれません。
しかし、持統天皇が草壁皇子の忘れ形見である孫に皇位継承しようとして、さらに執念を燃やすとしたら、それは周囲に波紋を引き起こさずには済まないはずです。もし持統天皇が亡夫・天武天皇を中心にした皇位継承を目指すなら、草壁皇子が亡くなった時36歳で、天武天皇と尼子娘との間の皇子・高市皇子を即位させればよかったはずです。しかし690年の持統天皇の即位は、まさにこの兄弟継承を阻むため、そして強引に孫に皇位を継承させるために行われたと考えるしかありません。結局、高市皇子が43歳で亡くなった直後の697年、持統天皇は孫の軽皇子を文武天皇として即位させます。この時文武天皇は何とまだ15歳であり、彼女は自ら後見の形をとって天皇を支えます。草壁皇子の時と比較しても直系の皇位継承への執着がエスカレートしているのは明らかです。
持統天皇は、自分が天智天皇から兄弟継承によって誕生した天武天皇の后であることを忘れたのでしょうか。これは壬申の乱の際、彼女が当時の立場ゆえにとった振る舞いとは矛盾する行動様式で、文武天皇は見方によってはあの時の大友皇子よりも皇位から遠い立場なのです。
しかし持統天皇の一連の行動を、息子・草壁皇子を喪失した後に、持統天皇の頭の中で仮想的に孫にまで拡大した絶対核家族の一形態と考えると理解することができます。この皇位継承はまさしく「親の意志による皇位の相続」と見ることができるからです。しかしこの皇位継承によって、本人の意図や自覚とは無関係に、変化を余儀なくされることがあります。一つは、草壁皇子は皇太子ではありましたが天皇になってはいないので、文武天皇は天皇の子ではなく、単に天皇の孫というにすぎないということ、もう一つは皇位が天武天皇系ではなく天智天皇系の直系へと継承される布石になってしまっていることです。
その後、皇位は文武天皇から母の元明天皇(草壁皇子の妃にして持統天皇の腹違いの妹という複雑なポジションにいる女性)へ、さらに元明天皇から娘の元正天皇へと非常に興味深い道筋を辿り、そして文武天皇の息子であり元明天皇の孫(ということは天智天皇の曾孫)である聖武天皇へと継承されます。こうしてまさしく天智天皇系の直系相続になるわけですが、『続日本紀』にある「元明天皇の即位の宣命」によれば、その即位は「天智天皇の不改の常典」なるものを根拠にしています。ただ、この天智天皇が定めたという皇位継承の変わらぬ原則が本当に存在したという証拠はないようで、とすると天智天皇の権威に頼ったかのように見える「元明天皇の即位の宣命」は、そういうものを持ち出す必要がある状況だったことを示しているのでしょう。息子から母へという皇位継承自体が異例であり、亡夫・草壁皇子が即位を果たさずに亡くなっているのですから、天皇の后であった持統天皇と違って、正統性を主張する根拠が弱かったからでしょうか。
これまで見た範囲では「女帝をめぐる皇位継承の在り方が何かとても狭い範囲でなされている」という印象がありますが、少し考えるとそれはもっともなことです。一つ屋根の下で息子・娘の成長を見ながら暮らす母は、無意識のうちに子供と密着状態になるのは避けられませんし、それこそが家庭というものの存在意義なのです。気心が知れ、互いの弱点も含めてその特質を知悉した家族という最小単位の中で、決して絶やすことのできない皇位を継承行おうとした結果がこれなのです。
孝謙天皇(重祚して称徳天皇)までの奈良時代の女帝の歴史を俯瞰して思うのは、女を中心にした相続を行うには、この時代天皇家をめぐる婚姻の法整備が欠けており、それを別にしてもその相続法はいつか生物学的限界にぶつかるということです。一般世間が妻問婚の時代、天皇が男なら一般世間と同様に振る舞っても支障はなかったでしょうが、天皇が女である場合、そこに通ってくる男がいたかと考えると、いくら何でもどこの馬の骨とも知れない男を家に入れるわけにはいかないでしょうし、これはなかなか厄介な問題です。どのような格式、立場、ポジションにいる男ならその資格があるのでしょうか。つまり、この問題は第一に女帝の夫となる人物の条件が法制化されていなかったということが根本にあり、第二に一般に女性が持てる(産める)子供の数は男性が持てる子供の数に比べて、著しく制限されるという事実に尽きると思います。だからこそ男子の直系を軸にする皇位継承となっていったと考えるのが妥当でしょう。
少し話が逸れますが、これまで見てきた範囲での私見として、天皇を男子に限るのはとてもリスクがある気がします。一夫多妻の社会でもそうなのですから、一夫一婦制で側室を置けない現代において、なおかつ男女の別なく不妊の問題が前傾化し、少子化が極まっている日本において、直系男子による皇位継承はほぼ無理なのではないかということは、誰の目にも明らかなのではないでしょうか。
持統天皇を中心にその行動原理を家族形態という視点から見てこれまでに分かったことは、誰も皆、自分が親として形成した家族を唯一無二の家族と考え、その継承に命を燃やすということです。絶対核家族はやはり最も原初的家族形態であり、一代で完結する家族形態を過小評価して、家系を三代、四代、五代・・・と理念として継続させることには大きな犠牲と困難が伴うのだということを感ぜずにはおれません。