2023年2月27日月曜日

「祟る神とは何か 3」

 つらつら思うに、日本における「八百万の神」というアニミズムは、本人は全くその意識はないものの、実は自分の感覚で把握し得るものを絶対視する、そういう意味では自分を神とする一神教の外化した姿なのではないでしょうか。より正確には、古代人にとって「自分」という観念は端から無く、知覚した外界全てが拡大した意識そのものなのではないかということです。例えば、深山幽谷に分け入って畏怖する感覚はよく分かりますが、その名状しがたい感覚で捉えたものを「山の神」に還元して名付けるという行動様式をとるのです。

 『万葉集』が詠まれた頃は、「我が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢に見えつつ寐ねらえずけれ」や「朝髪の思ひ乱れてかくばかり汝姉(なね)が恋ふれぞ夢に見えける」などに示されるように、「相手が自分を思っているから夢に出てきたのだ」という思考回路になっていることが分かります。それはひょっとすると歌を詠むときの約束事なのかもしれませんが、現代人には不思議な感覚です。恐らく、夢に誰かが現れると「自分が相手を思っているからだ」と考えるのは、自我という西洋の思想を当然視しているからに過ぎず、古代人にとって「自分」などという観念はないのでしょう。それは明治維新後に流入してきた高々150年の借り物の観念的思考であり、現在でも日本では自分と隔絶した他者なるものは存在しないのかも知れません。

 同性婚をめぐる不適切発言で総理秘書官が更迭されました。「見るのも嫌だ。隣に住んでいたら嫌だ」と述べたと伝えられていますが、この「自分の周りから消えてくれ」という内なる声は最終的には相手の滅亡を願っています。私にとって不可解なのは、具体的に知らない人についてどうしてここまで憎めるのかということです。この方がどのような宗教を信奉されているかは分かりませんが、およそ日本に住む人で神道の影響を受けずにいられる人はいないはずで、上記の発言からはこの方は鎮守の森に守られた閉じたムラに住んでいるような印象を受けます。婚姻という最も原初的な人間関係について、明治以後に法整備された形態以外の婚姻形態を心底憎んでいるとすれば、この方もやはり己を唯一絶対とする世界観を持ち、それにそぐわない外界にどう対処してよいか分からなかったのではないでしょうか。もっと昔の院政時代まで遡ってくれるとよかったのですが・・・。

 祟る神などいない。祟りとは、己の悪行を知るやましさがしっぺ返しとなって立ち現れる現象であり、自らが引き起こした罪業の幻影に怯える独り相撲です。当人に祟りと思われる事象が生起した場合、自分は変わらずにいて、あれこれ表面的に呪鎮を試みてそおっと鎮まってもらうしかないのは、そこに人間しかいないことの論理的帰結です。「触らぬ神に祟りなし」と言われる通り、神に触れるかどうかは自分で決められると思っているのです。

 人間は大地や海の恵みをいただかずには生きられない存在です。ですから世界のどこでも、その土地、その土地の自然からの贈与と言える豊饒を願う様々な宗教的仕掛けがあります。それらに歯向かうことは無駄であり、また無意味なことだというのは、1951年にフランスのディジョンの広場でのサンタクロース人形火刑事件で明らかです。それは他者からの贈与の永遠性をなおいっそう人の記憶に刻んだだけの結果に終わったのです。豊穣というのは原理的に自然からの贈与なのですから、現実に家に神棚があろうとなかろうと、人間が豊かさを第一の価値とするカナン的世界に生きていることは間違いなく、問題はそれら全てを越えて万物を司る神がいることを知らされるかどうかなのです。私自身、自然の美しさや奥深さを畏怖することはよくありますが、それは「神様が造られたものはすばらしい」という思いに圧倒されるからで、自然そのものを神だと感じることはありません。ですから、「サッカーの神様」、「神対応」、「村神様」に至っては、耳にするなり「人間じゃん」と力が抜けて、ずっこけるしかないのです。


2023年2月23日木曜日

「祟る神とは何か 2」

  さて神道についてですが、これは第一に豊穣を祈願する天皇家の祭祀から派生した祭儀が一般の民の間に浸透し、民俗宗教としての意味合いを帯びてきたものと言えるでしょう。神道に教義はないと言われることがありますが、神道について特筆すべき最大の点は、「生産性の崇拝」と「生産性崇拝の封鎖性」です。これは同じ一つのことで、即ち「豊かさと安全を希求し、それを自分の所属する一定の領域内に限る」のです。村には鎮守の神がおり、その力が及ぶ境界を示すのは道祖神です。「五穀豊穣」、「家内安全」、「商売繁盛」、「子孫繁栄」は誰も反対する人のいない願望であり、「豊穣祈願」は民の願いと完全に一致するので、無理なく喜んでその土地の民は神社に詣でることができます。外から他の宗教や文化が流入していっときはそれに染まったように見えても、それらは豊かさを求めて取り入れたものである以上、最終的には豊穣の神へと帰っていきます。神道が極めて復元力が強いのはそのためです。

 最強に見える神道ですが、神の意図が人の願いと一致するというのは二つの点でまずいのではないかと思うのです。一つは神の威を借る国が国家神道を押し付ける形で民を縛り、自由を奪うことになってしまうという点、もう一つは神と人との境界が判然としなくなり、人が神に成り代われると錯覚しがちな点です。前者は実際に太平洋戦争時に究極の仕方で表出し、天皇は戦後「人間宣言」をしなければなりませんでした。また、宮中祭祀を天皇家の祭儀として執り行っているだけならよいのですが、令和の大嘗祭で図らずも秋篠宮が言及されたにもかかわらず、天皇家の祭祀の費用が国の費用、即ち民の税金で賄われるということが起きてしまいます。こういうことは天皇の意図と関わりなく実務を動かす人次第でとめどなく膨張していく危険があり、習俗だ、伝統だとやんわり民にすり寄る側面と、一方で国の宗教であるとする、ぬえ的装いの狡猾さによって、国に利用される可能性が常に常にあります。行き詰った社会でなし崩し的に行われるこういった動きを止めるのは困難であり、国家神道によって統制された八十年前の戦争が再来しないとは誰にも言えません。

 次に、もう一つの特徴点「人が己を神のように思いなして何でもできるかのように振る舞うこと」は或る意味もっと危険を孕んでいます。国家安寧につながるという理由で豊穣祈願が身体化してしまうと、国家の繁栄とは即ち自分の繁栄に他ならず、それを最大の目標にするうち、そのためには自分以外のものに対して犠牲を強いることを全く厭わなくなります。飛鳥、奈良時代の歴史を辿ると、古代において謀反の疑いというものはほとんど全部が濡れ衣と言ってもよく、強大な力を手に入れるため邪魔者を排除するための口実にすぎませんでした。そして、もちろん仕掛けた方は自分のしたことを十分理解していますから、その後に自分の周りで不吉なことが次々と起こると、自分が抹殺した者の祟りだと考えるようになるのです。長屋王を死に追いやった後に、藤原不比等の四人の息子が天然痘で亡くなった時の騒動はその一例です。こういったことは心にやましさを持つ張本人だけでなく、周囲のものや世間一般の見立てとも一致しているので、放置できなくなるのです。

 人と神の境界がないのですから、祟られるようなことをした心当たりのある者にとって自分が抹殺した者は、今度は強大な力を持つ祟る神になります。私にとって不思議なのは、その時の祟られ人の対処法が、自分を責めて退いたり、悔い改めて権力を手放すということはなく、必ず相手の怒りや怨念を鎮めるという形で、相手を何とかしようとすることです。反省したり悔恨したり自分を変えるのではなく、どこまで行ってもそこには自分しかいないので、障害物をなだめたりすかしたりして取り除こうとする姿勢は変わりません。


2023年2月18日土曜日

「祟る神とは何か 1」

  このところ日本を知る手掛かりとして『古事記』や『日本書紀』を読みながらそれが書かれた時代背景について調べていますが、一番引っかかりを覚えるのは「祟る神」という存在です。ヤハウェを神とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教では「怒る神」はあっても「祟る」という概念はないように思います。また、神道と融合してからの仏教には怨霊や祟りがあるのかも知れませんが、本来の仏教にそのようなものは無いのではないでしょうか。元来宗教は「赦し」や「救い」を願い求める人間にそれを示すものでしょう。神道に極めて特徴的な「祟り」について考えてみます。

 奈良時代の史書『古事記』や『日本書紀』を読むと、古神道の由来はやはり6世紀後半から目指される律令国家の創立と切り離して考えられないという思いを強くします。最初は祭礼として古くから「天皇家の祭儀」として存在してきた様式が、やがて史書による国の統治や支配者の権力の裏付けを得て、「天皇は神の子孫(天孫降臨)」という権威付けがなされていくのです。この2つの性格が2本のあざなえる縄のごとく撚り合わされることにより、複雑で厄介な事態が生じてきます。

 すでに6世紀後半には、仏教を重んじる蘇我馬子と神道を守り支える物部守屋が対立したことはよく知られており、この時は廃仏派の物部守屋が破れ、物部氏は没落します。仏教導入の最初期は或る意味神道と同レベルで天皇が仏教を信奉する選択肢があり、その後両者は長い時をかけて融合していく歴史を辿ります。京都東山の月輪山麓にある泉涌寺は天皇家の菩提寺であり、皇室と仏教との縁も長く深いのです。現在の天皇が仏教徒になれるものかどうかは私には分かりませんが、当時の神道の立ち位置が現在とは違うことは確かでしょう。だからこそ飛鳥から奈良にかけての時代、仏教を信じる天皇の御代に天変地異や疫病の流行に見舞われると、祟りと見なし廃仏して神道を重んじるようになったり、逆に仏像を焼いた後に災厄に襲われると、やはり祟りと考えて仏教信仰に回帰し、寺を建立して丁重に慰霊したりといったことが繰り返されました。これは天皇の意向というより天皇家の背後にいる有力氏族間の確執の反映であり、宗教がその抗争の道具にされた側面は否めません。

 ここで史書について付け加えたいのは、『古事記』と『日本書紀』が編纂の目的を異にする書物であり、記述内容の相違から様々な背景を知る絶好の手掛かりを与えてくれるということです。どちらも天武天皇の命によって編纂されたとされるほぼ同時代のものですが、『古事記』が712年に献上されたのに対し、『日本書紀』の完成は720年です。わずか8年の差ですが、周囲の状況は慌ただしく動いており、天皇も元明天皇から元正天皇へと、史上初の母から娘への皇位継承が行われています。これまで読んだ時点の私見では、『古事記』は持統天皇を天照大神として天皇家の皇祖神とすることに主眼があるのに対し、対外的な国史としての『日本書紀』は、まさに天皇を担いで国を統制しようとする藤原氏による藤原氏のための権力基盤固めの意図が隠れているように思えます。渡来人であることがほぼ確実な中臣鎌足とその息子の不比等が藤原氏としてのし上がるため、出自を消して様々な画策をしてきた一つに『日本書紀』の編纂があったのです。史書の中にさりげなく事実に反することを入れるだけでなく、黙して語らぬところに真実があるという類の手法を用いているのですから、『古事記』との間に矛盾点があったり、どうにも分からぬ謎があるのも当然です。歴史を握るということは最大最強の権力であり、実際、その後の藤原家は実権の無いお飾りの天皇に娘を輿入れさせ、権力を手中にする摂関政治へ移っていくのです。その意味で『日本書紀』も「全ての史書は勝った側が権力を盤石なものとするために正史とされる」という言説の一例です。


2023年2月11日土曜日

「ブロンズ姫」

 これまでいろいろな植物を部屋で楽しんできましたが、この何年かは多肉植物で落ち着いています。ほとんど水やりが要らないので、家を空けても平気なのが有難い。さすがに夏の暑さは強烈で、三分の一くらいは駄目になりましたが、あとは何とか生き残り寒い冬も頑張ってくれています。これまでの鉢は、銘月、ミリナエ、淡雪、久米の舞、カネノナルキ、黄麗、育ちすぎのエケベリアでしたが、これにふさふさした薄緑のカランコエと高貴な色合いの花束のようなブロンズ姫が加わりました。家にない品種が入荷するとつい連れてきてしまいます。姫、これからは私めがお守り致します。

 というわけで、植物が窓際の大きなテーブルをかなりの程度占拠していたのですが、これを機に恒例の部屋の模様替えをしたい気分になりました。家具は増やさないときめているのであとは配置の問題、テーブルを縦から横向きにしたり、数センチのデッドスペースを有効利用したりしながら、窓辺の手押しワゴンの上に鉢植えの大部分を移動できました。どの鉢もぷっくりした姿が可愛らしくてたまりません。毎朝「おはよう」と言いながら指で触れて少し刺激を与えるようにしています。昼間燦燦と陽光を浴びると、めいめい大きく伸びをしている様子にこちらもうれしくなります。安心していられたのは、冬でも暖かい東京のマンションのおかげです。全国の気象情報で仙台・福島が今季最低のマイナス8.6℃だった時も、東京の自宅は12.6℃でした。立春が過ぎたとはいえ、東北はまだまだ寒い。もうしばらくは実家の玄関に一鉢だけある鉢植えの状態にやきもきしながら過ごすことになりそうです。


2023年2月7日火曜日

「昔ながらの自転車屋」

 今年最初の買い物は自転車でした。機能としてはまだ乗れるので最後まで寿命を全うさせてやりたかったのですが、ブレーキを握るとブブゼラ並みの音が出るようになってしまいました。あちこち油をさしてみましたがどうにも止まず、思い切りブレーキを掛けると自分もびっくりするだけでなく、相手を威嚇するかのような感じなので、ついに買い替えを決意。折しも集合住宅の駐輪場更新の時期が近づいており、シールの張り替えも迫っているのでちょうどよかったと思いました。

 寒くて風の強い日、ということは人があまり外出したがらない日に近所の自転車屋さんに出かけました。歩いていけるところで、以前タイヤ交換してもらって以来、鍵やライトの交換でもお世話になったお店です。この店のよいところは働き者で親切な店主がいることです。また後輪のタイヤの交換をした時、「前のタイヤも買えた方がいいですか」と聞くと「前はまだ大丈夫です」と即座に答えたのが印象的でした。普通はどさくさに紛れて両方の交換を勧めるのではないでしょうか。その点、自分の目で判断したことを率直に言えること、商魂逞しくないところに好感が持てます。

 「自転車見せて下さい」と言って他に客のいない店内を見て回りましたが、店主は「ああ、どうぞ」といったきりご自分の仕事に没頭しておられたので、まったくフリーに全部見て回れました。こういうところも私の好みの対応です。「26インチのシンプルなタイプ、ただしギアは必須、派手でない色」というターゲットの基準に当てはまるものは5台あり、一応店主に違いを尋ねましたが、あまり大きな違いはないようでした。一度「また来ます」と言って店を出ました。

 次に区の不要自転車引き取り所の場所を確かめに出かけ、親切な管理人さんと話して手順と必要書類等をお聞きしました。「この自転車に乗るのも最後だな」と思いつつ、少し離れた量販店も一応偵察。さほどめぼしいものはなく、場所・手間・費用ひっくるめて小売店に軍配が上がることを確認しました。家に帰って必要書類を取り揃え、自転車から様々なギャジット(かごカバーやらハンドルカバーやら雨具の類)を引き剥がしました。駐輪場シールも破れないように剥がして、新しいのをもらうまで取り合えず保存。

 あとは今までの手順を逆に辿り、不要自転車引き取り所で自転車をお渡しし、自転車屋に行って新しいのを購入するだけでした。「先ほどはどうも」と言って店内に入ると、「また来ます」と言って本当に来る人は珍しいのか、ちょっと驚かれた様子でした。「以前修理の時、とてもよくしていただいたので…」と雑談をしながら、最後に迷った2つのどちらにするかを決めるため、「どちらが軽いですか」の質問をしました。恐らく人生最後の自転車です。年寄りにとって「軽さは善」ということが身に染みて分かってきました。「メーカーは重量は公表してないんですよ。でもたぶんこっちが少し軽いんじゃないかな」との意外な返事。乗り物を売るのに重量は最も大事なポイントのはずなのに、なぜ非公表? 原材料が一定していないのか? 疑問は湧くがとにかく軽い方を購入、6段ギアでなかなか良さそうです。整備していただいている間に、防犯登録の用紙を書き、二重ロックにするためワイヤー錠もいただいて帰宅しました。まだ十代の時、田舎から持ってきた新品の自転車が盗難に遭ったのがトラウマとなり、中古自転車でいいと思ってきたのですが、こうなったら仕方ありません。うっかり鍵のかけ忘れだけはしないようにと気を引き締めています。


2023年2月4日土曜日

「冬の朝に」

  今年の1月は東京でも寒い日が続きました。日中はそれなりに元気でも夕方にはぐったりするほど疲れてしまう私はいつも早寝ですが、日が短い冬場はなおいっそう早寝に拍車がかかります。病院時間で夕飯を食べると、就寝準備を始めます。夕方の訪問者に「すみません、寝る準備をしてしまったもので・・・」と、失礼の弁を述べることもたびたびです。でも、バイオリズムを守るのは健康の基本中の基本なので仕方ありません。

 ありがたいことに床にはいるとすぐ眠れ、夜中に目覚めても少しラジオを聞いたり音声による読書をしたりしていると、またいつのまにか眠っています。先日は朝4時に目覚め、布団の中で「ラジオ深夜便」を聞いていると、「明日への言葉」というコーナーで、精神科医で作家の帚木蓬生(ははきぎほうせいさんが話をしていました。「現代において一番重要な力は、ネガティブ・・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える力)だ」との言葉に、思わずこれはヨブ記の世界だなと思いました。この力の養成はまさしくクリスチャンが絶えず行っていることであり、毎日の生活はほぼこの連続といってもいいほどです。クリスチャンにはこの力は相当備わっているだろうと思いますが、それは対話する相手としての神がいるからに他なりません。この世は答えの出ない問いの連続です。ヨブが一番苦しんだのは神の沈黙によってであり、その長い時間を耐え抜いたことで紙の答えを聞くことができました。布団の中であれこれ考えながら、「さ、また新しい一日を与えられた」とうれしくなるのです。


2023年2月1日水曜日

「家族形態の在り方とその継承3 持統天皇編」

  前回は『マクベス』を手掛かりに、スコットランドの王位継承についてその家族形態から考えました。今回は日本の皇位継承について、特に興味深い飛鳥から奈良時代にかけての女帝の時代を例に、家族形態という視点から考えてみます。当時は、妻問婚(招婿婚)が一般的な婚姻様式でしたが、一般人はそれで不都合はないとしても、天皇家となるとやはり事情が違ったのではないかと思います。男子の天皇の場合、世間同様の婚姻形態に加えて、人間関係の煩雑さやたびたび外出を要する煩わしい形態を避けて自分の家に妻を召し入れ、最も原始的な家族形態である絶対核家族を形成していたと仮定しても不都合はないように思います。

 そうすると天皇家においては、ひょっとすると妻子との間に一般家庭より緊密で親しい家庭が形成されていたかも知れません。生まれた子供に関しては、一緒に家にとどまる場合、独立して近くに住む場合、完全に家を離れる場合など、いろいろなケースが考えられます。また、天皇が政治的事情や気持ちの変化により新たに複数の家庭を営むこともあったでしょう。さらに孫が生まれる時分には、同居している娘家族の場合はもちろん、独立して家を出た子供でも、息子より娘の方が孫を連れて訪問してくる機会は多かっただろうということはごく自然に推測されます。つまり娘一家の方が息子一家より天皇と気さくで親密な関係を築きやすかったことと考えても大きくずれてはいないはずです。この時代の天皇家の系図を見れば、皇位継承において男女の別なく継承者になれた時代と考えるほかなく、天皇の娘・すなわち皇女であることが皇位継承者としての非常に重要なファクターになっていったのは、当時の天皇家独特の家族形態の在り方も一因ではないでしょうか。

 日本における皇位継承は西洋と違って、戦場におけるあからさまな武力ではなく、血統、親の家系の格というものが物を言います。壬申の乱は、天智天皇が次の天皇候補と目された弟の大海人皇子を差し置いて、息子の大友皇子に皇位を継承させようとしたために起きた争いですが、大友皇子の母が采女であることを考慮すれば、到底天皇になれる血統ではありません。当時は皇位の兄弟継承も普通にあったのですから、天智天皇と同様に舒明天皇を父、皇極天皇=斉明天皇を母とする大海人皇子が異議を唱えても当然でしょう。ましてや、大海人皇子の妃は天智天皇の皇女でもある鸕野讚良(うののさらら:後の持統天皇)なのですから、血統的には勝負はついており、実際、大海人皇子は壬申の乱で大友皇子を破って天武天皇として即位します。天武天皇には后との間に草壁皇子がいますが、恐らくは后の強い要請で、天武天皇は母の違う六人の息子たちを集めて「吉野の盟約」を結ばせます。これにより草壁皇子は天武天皇の第一皇子となり、20歳となる681年に次の天皇たるべき皇太子に指名されます。

 ところが、草壁皇子が政務を行えるようになる前の686年に天武天皇が亡くなってしまい、これを機に皇后(大宝律令で明文化されるまでこの呼び名はありませんが)が政務の前面に出てきます。草壁皇子は当時25歳なのですから、ここで天皇として即位してよいように思いますが、そうはならず、皇太子の母が皇太子の後ろで称制という天皇代行の形をとるのです。最初私は、のちのち持統天皇は早逝する草壁皇子をどうしてもっと早く天皇として即位させておかなかったのかと悔やんだであろうと思いましたが、彼女がそうしなかった以上、それができない事情があったと考えるしかありません。理由として、皇子が病弱であったということも考えられますが、それ以上に律令国家の黎明期でまだ制度が整わず、膨大な実務を必要としていた時期であるのに、若い皇太子はまだ頼りなくその力がないと母の目には見えたからでしょう。彼女はすでに草壁皇子が皇太子となった翌年の682年に飛鳥浄御原令の編纂に着手しており(実務は藤原不比等か)、これからの統治のために欠かせない制度の整備に邁進していたのは、ひとえにこれから国政を司ることになっている息子のためでした。

 そう言い切れるのは、皇后が天武天皇の逝去後にまずおこなったのが、息子・草壁皇子の天皇即位にとって差し障りとなるものを取り除くことだったからです。具体的には亡き姉でもあり、天武天皇の前妻でもある大田皇女の息子・大津皇子に謀反の疑いをかけ自殺に追い込んだのです。大津皇子は天皇の資質という点では草壁皇子よりも優れていたと言われており、そのため彼を一番の障壁と見なしたのでしょう。しかし、大津皇子を消しても、まだ他に天武天皇の別の妃から生まれた皇子たちは存在していました。

 このように、天智天皇を父、蘇我系の遠智娘(おちのいらつめ)を母とする持統天皇は、自分の家庭(夫:天武天皇、息子:草壁皇子)を持つと、息子に皇位を継承するために、あらゆる手を使う母という、絶対核家族における強い母の典型のような姿を見せます。ところが、そこまで息子のためにあれこれ動いても悲劇は襲います。愛息子の草壁皇子が689年に28歳で亡くなるのです。その二か月後に飛鳥浄御原令が完成して、天武天皇時代の庚午年籍以来の戸籍作りも始まるのですが、息子を思えばこそ、律令制度の整備に猛進してきた母にとってこの息子の死ほど衝撃的な出来事はなかったでしょう。

 ここに至って690年、ようやく彼女は持統天皇として即位します。父も夫も天皇だったのですから、この時点で男女の別なく抜群の血統なのは言うまでもなく、既に称制を行っていたことからも彼女に政務を司る能力が十分以上にあるのは明らかでした。これまでに女帝として傑出した統治能力を発揮した推古天皇がいましたし、持統天皇の祖母であり重祚して二度天皇に即位した皇極天皇=斉明天皇もいました。斉明天皇は、百済の救援要請に応じて唐・新羅連合軍に対する救済軍を送るため、一族数名(この中には女だてらに額田王やまだ年若い後の持統天皇もいました)と共に兵を率いて自ら船団を組んで難波を発ち、愛媛の熟田津経由で筑紫朝倉まで向かった人なのですから、何をか言わんやです。女であることをもって即位を妨げる理由にはならない時代だったのは確かでしょう。というより何より、彼女の力は強大で、この時彼女以上の人材がいなかったと言うのが的を射た言い方かもしれません。

 しかし、持統天皇が草壁皇子の忘れ形見である孫に皇位継承しようとして、さらに執念を燃やすとしたら、それは周囲に波紋を引き起こさずには済まないはずです。もし持統天皇が亡夫・天武天皇を中心にした皇位継承を目指すなら、草壁皇子が亡くなった時36歳で、天武天皇と尼子娘との間の皇子・高市皇子を即位させればよかったはずです。しかし690年の持統天皇の即位は、まさにこの兄弟継承を阻むため、そして強引に孫に皇位を継承させるために行われたと考えるしかありません。結局、高市皇子が43歳で亡くなった直後の697年、持統天皇は孫の軽皇子を文武天皇として即位させます。この時文武天皇は何とまだ15歳であり、彼女は自ら後見の形をとって天皇を支えます。草壁皇子の時と比較しても直系の皇位継承への執着がエスカレートしているのは明らかです。

 持統天皇は、自分が天智天皇から兄弟継承によって誕生した天武天皇の后であることを忘れたのでしょうか。これは壬申の乱の際、彼女が当時の立場ゆえにとった振る舞いとは矛盾する行動様式で、文武天皇は見方によってはあの時の大友皇子よりも皇位から遠い立場なのです。

 しかし持統天皇の一連の行動を、息子・草壁皇子を喪失した後に、持統天皇の頭の中で仮想的に孫にまで拡大した絶対核家族の一形態と考えると理解することができます。この皇位継承はまさしく「親の意志による皇位の相続」と見ることができるからです。しかしこの皇位継承によって、本人の意図や自覚とは無関係に、変化を余儀なくされることがあります。一つは、草壁皇子は皇太子ではありましたが天皇になってはいないので、文武天皇は天皇の子ではなく、単に天皇の孫というにすぎないということ、もう一つは皇位が天武天皇系ではなく天智天皇系の直系へと継承される布石になってしまっていることです。

 その後、皇位は文武天皇から母の元明天皇(草壁皇子の妃にして持統天皇の腹違いの妹という複雑なポジションにいる女性)へ、さらに元明天皇から娘の元正天皇へと非常に興味深い道筋を辿り、そして文武天皇の息子であり元明天皇の孫(ということは天智天皇の曾孫)である聖武天皇へと継承されます。こうしてまさしく天智天皇系の直系相続になるわけですが、『続日本紀』にある「元明天皇の即位の宣命」によれば、その即位は「天智天皇の不改の常典」なるものを根拠にしています。ただ、この天智天皇が定めたという皇位継承の変わらぬ原則が本当に存在したという証拠はないようで、とすると天智天皇の権威に頼ったかのように見える「元明天皇の即位の宣命」は、そういうものを持ち出す必要がある状況だったことを示しているのでしょう。息子から母へという皇位継承自体が異例であり、亡夫・草壁皇子が即位を果たさずに亡くなっているのですから、天皇の后であった持統天皇と違って、正統性を主張する根拠が弱かったからでしょうか。

 これまで見た範囲では「女帝をめぐる皇位継承の在り方が何かとても狭い範囲でなされている」という印象がありますが、少し考えるとそれはもっともなことです。一つ屋根の下で息子・娘の成長を見ながら暮らす母は、無意識のうちに子供と密着状態になるのは避けられませんし、それこそが家庭というものの存在意義なのです。気心が知れ、互いの弱点も含めてその特質を知悉した家族という最小単位の中で、決して絶やすことのできない皇位を継承行おうとした結果がこれなのです。

 孝謙天皇(重祚して称徳天皇)までの奈良時代の女帝の歴史を俯瞰して思うのは、女を中心にした相続を行うには、この時代天皇家をめぐる婚姻の法整備が欠けており、それを別にしてもその相続法はいつか生物学的限界にぶつかるということです。一般世間が妻問婚の時代、天皇が男なら一般世間と同様に振る舞っても支障はなかったでしょうが、天皇が女である場合、そこに通ってくる男がいたかと考えると、いくら何でもどこの馬の骨とも知れない男を家に入れるわけにはいかないでしょうし、これはなかなか厄介な問題です。どのような格式、立場、ポジションにいる男ならその資格があるのでしょうか。つまり、この問題は第一に女帝の夫となる人物の条件が法制化されていなかったということが根本にあり、第二に一般に女性が持てる(産める)子供の数は男性が持てる子供の数に比べて、著しく制限されるという事実に尽きると思います。だからこそ男子の直系を軸にする皇位継承となっていったと考えるのが妥当でしょう。

 少し話が逸れますが、これまで見てきた範囲での私見として、天皇を男子に限るのはとてもリスクがある気がします。一夫多妻の社会でもそうなのですから、一夫一婦制で側室を置けない現代において、なおかつ男女の別なく不妊の問題が前傾化し、少子化が極まっている日本において、直系男子による皇位継承はほぼ無理なのではないかということは、誰の目にも明らかなのではないでしょうか。

 持統天皇を中心にその行動原理を家族形態という視点から見てこれまでに分かったことは、誰も皆、自分が親として形成した家族を唯一無二の家族と考え、その継承に命を燃やすということです。絶対核家族はやはり最も原初的家族形態であり、一代で完結する家族形態を過小評価して、家系を三代、四代、五代・・・と理念として継続させることには大きな犠牲と困難が伴うのだということを感ぜずにはおれません。