2022年8月31日水曜日

「何度目かの『ヨブ記』」

 『ヨブ記』はいつ読んでも何か腑に落ちない話です。始めと終わりの枠組みが絵にかいたような寓話形式であり、その間の展開が一進一退の動きの少ない議論から、唐突に理屈を超越した結びへと向かい、めでたしめでたしのうちに終わります。読者は煙に巻かれたような片付かない気持ちになるのではないでしょうか。

 ウツの地に住む正しい人ヨブは、家族や財産にも恵まれ、祝福された生を送っていましたが、神に対するサタンの邪悪なかけひきの材料にされて、家族も財産も奪い去られます。それでもヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と、あっぱれな信仰を口にします。ここまでが第1章で非常に速いテンポで話が展開します。

 サタンの第2のかけひきはさらに過酷で、ヨブはひどい皮膚病になり、本人だと見分けがつかないほどの身体状態を呈します。「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言う妻に対し、ヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と、またしても厚い信仰心で答えます。ここに親しい友人テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人が来て、ヨブのあまりの苦痛の姿に話しかけることもできず、三人は七日七晩共に地面に座って苦しみを分かち合います。ここまでが第2章です。人を襲う災難が容易に神の罰と見なされた時代、理不尽な痛めつけに遭いながら、神に対して呪いの言葉を吐くことをしないヨブの信仰が光ります。

 ところが、第3章になって友人の語りかけを聞くに及んで、ヨブは突如として、「わたしの生まれた日は消えうせよ」と激しい呪いの言葉を吐き始めます。生まれてこなければよかったと言うのです。三人の友人とヨブとの対話では、初めは抑制の利いていた言葉が次第にヒートアップし、激しい言葉の応酬となり、これが延々と続きます。「人の言葉はこういうものにならざるを得ないのだな」と身につまされる場面です。友人たちの主張の根拠は「これほどの苦難に襲われるからには、ヨブに何らかの落ち度(罪)があるはずだ」というものですが、ヨブはこれを受け入れることができません。因果応報思想は古代だけでなく今に至るまで強固に人の心に根差しています。ヨブは自分の不義を決めつけられることを耐えがたく思っていますが、それ以上に神が自分に対して沈黙していることが耐えられないのです。神を詰問するようなヨブの口調の凄まじさは蛮勇と言ってよいものですが、その狂気に近い真剣な勢いにはたじろがざるを得ません。自分の正義を明確に主張できるヨブは傲慢ではないかと思われそうですが、『ヨブ記』の話の前提として、「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」という枠組みがあることを見落としてはならないでしょう。

 第32章にラム族のバラクエルの子エリフが登場しますが、相変わらず話は平行線です。ところが第38章で唐突に神が登場するに及んで、一挙に全てが収束に向かいます。ここには何の説明もなく、神の声を聞いただけでヨブは平伏して引き下がるのです。

 第38章 「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。・・・」

 第42章 「ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。』 そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。」

 第38章以下に示されているのは、「神は全能者であり、創造主である」ということです。なぜ正しい人が苦難に遭うのかの答えは示されないのに、ヨブは納得したのです。このあたりは不思議な気がしていたのですが、最近はなんだか私にもわかる気がするのです。自分も或る程度の年月を生きてきたことが関わっているのでしょう。これまで自分が受けた苦難の意味も理由もわかりませんが、その時々の人生の難所に神が共におられたことは今になって確かなこととして悟ることができます。病もあり視覚の不調もある私が、「なぜ自分はこれほどまでに恵まれているのか」と感じるとは不思議なことです。今わかるのは、三人の友人らと議論している間、因果応報思想を抜きがたく抱えていたのは他ならぬヨブ自身だったのではないかということです。第1章の冒頭でヨブは「なぜ私はこれほどまでに恵みをいただいているのですか」と神に問うべきだったと思うのです。その答えはおそらく、神がモーセを祝福したのと同様、「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ(出エジプト記33章19節)」だったことでしょう。すなわち、こういうことは神の専権事項であり、理由を問わず受け取るだけなのです。