2022年6月4日土曜日

「嘘のミステリ」

  私はよくミステリを読みますが、考えてみると好きな話の範囲はとても狭いことに気づきます。ホラーやサイコパス、スプラッタ系はパスですし、SF、ファンタジー方面も苦手です。狭い生活範囲で暮らしてきた自分にはあまりに不可思議もしくは異常な人物に登場されても、それこそ理解不能で、それらをエンタメとして読むには歳を取り過ぎました。そのため、さほど現実離れしていない、ありがちな事件の中にある意外な真相が解明されたり、ごく普通の一般人が抱える底知れぬ心の深層が明らかになっていったりするという点で、法廷もの(疑似裁判的なものでも良い)は楽しめるものが多いです。うまく作られた作品は、最後に大どんでん返しがなくてもしーんとした余韻を残して終わり、人をしばらく考えさせます。

 作品によっては、検察庁と警察庁の関係を巡る内幕や、それぞれの内部で渦巻く出世競争、昇進欲、保身術など、描かれ方がなかなか多彩になっているようですが、そういうのはちょっとうんざりで、私にとって興味深いのは法の専門家である検察と弁護人の法廷でのやり取りや、ド素人として登場する証人の証言および裁判員の意見です。否認する被疑者を検察が丸め込んで供述調書にサインさせたり、弁護人が提出する「白」の証拠を検察がメンツをかけて黒」と言いくるめるのがこの手の定番ですが、あっと驚く証人が登場し、証人尋問・反対尋問を通して今まで知り得なかった事実が明らかになるたびに、傍聴人として法廷を見ている読者は心を揺さぶられ、それまでの考えはオセロの目のように変化します。これが法廷ものミステリの醍醐味でしょう。

 私が一番強く感じることは、登場人物をエゴイズム、自尊心、罪意識等の観点から見ると百人百様であり、ゼロから100までのグラデーションがあること、また意識するとしないとに関わらず、誰もが誰かを何らかの意味で利用しようとするものなのだなということです。被告人が罪状を否認している場合は、状況証拠を突き崩し真相究明ができるかが鍵となり、また証人が宣誓にもかかわらず何らかの事情で嘘をつくケースもあるのですから、検察側、弁護側双方や傍聴人はみな絶えず当事者しか知り得ないブラックボックスの中身を正しく見抜く力を試されます。忖度社会の日本では当事者も事実を分かっていない場合が少なくありません。

 だいたいの事件は私のような人生経験の浅い者には、「どうしてそんなことしちゃったのかな」「なんでそんなふうに考えるんだろ」といったことばかりなのですが、中でも嘘を突き通す人には「本当のことを言った方が楽なのに」と単純に思います。ま、これではミステリにならないわけですが・・・。嘘をつく人というのは初めから確信犯的にそうしているか、あるいは嘘をついているうちに引っ込みがつかなくなって嘘をつき続ける、もしくは自分でもその嘘を本当だと思い込むほどに心を麻痺させてしまったのだと考えるしかありません。いずれにしても心のどこかで、「私は悪くない」、「嘘をついてでも私には復讐する権利がある」、「世の中の方が間違っている」、「世界は私の考えの通りになるべきだ」と思っているに違いないのです。今思い出したのは、『ゲッペルスと私』の中で、ホロコーストについて「最後まで何も知らなかった」と語り、「私に罪はない」と断言した、ナチス宣伝相の秘書ブルンヒルデ・ポムゼルです。順調な生活を送る職業人として、ささやかな日常の幸せを追い求めた結果があの大虐殺につながっているのですが、職務を誠実に果たしていただけという彼女は、全くのところ主観的には「私は悪くない」のです。「罪があったとするならば、私ではなく、ナチスに政権を取らせたドイツ国民だ」という主張も、彼女の思考においてはまさにその通りなのでしょう。長い人生の中でずっと変わらずそう思い続けてきたわけではないと思いますが、人生の最終章でこういう結論になるのはやりきれない気がします。神様の前に「私は悪くない」と言える人は一人もいないのですから、彼女が「私に罪はない」ことを淡々と語る映画の完成を見届けて、106歳で満足して亡くなったとすると、私にはこの人はもはや人間とは思えないのです。この方の言葉は多くの人を震撼させましたが、他方の極に「私は悪くない」と言う人々は一定数存在し続けるのでしょう。自らが神となる世界とは、すなわち神なき世界であり、そこには人間の命がなかったことを証明してしまったように思います。