浮世離れしない程度にニュースを聞きながら、あれこれ聴書する生活が続いています。社会、産業、経済、家庭、教育、金融、政治、国家等に関する本を読んでじわじわと、しかしはっきりと判ったのは、もう或る種の世界は終わったのだということです。その世界とは過去何千年にもわたって続いてきた、身体に裏打ちされた世界です。目で見て触れる確固たる世界が揺らいでいます。人が一度に食べられる量の食事はたかがしれており、一度に着られる服は一着だけ。家を何軒持とうとも、一日に住める所は一、二か所がせいぜいです。必要なものはそれほど多くなく、何億、何十億というお金があっても使いきれないだけでなく、むしろ有意義な使い方を思案して悩みの種になるはずです。それ以上の額のお金となれば、もはやただの数字にすぎないでしょう。
それにもかかわらず、より多くのマネーの増大を求めて人々が日々目の色を変えるのは、それが脳内で繰り広げられる仮想の現実だからです。人間の脳は果てしなく想像を膨張させることが可能で、あらゆる障害や限界をやすやすと越えてしまうものです。ところがこの仮想空間は時折現実世界と接することがあるので厄介なのです。手触りはなく、自分で操縦する感覚が持てない世界が手に負えなくなりつつあり、わけのわからない仕方で現実の生活に大きな災厄をもたらします。こういうものに近寄ってはいけないと、私の直感が告げています。
そんなわけで最近惹かれるのは古典ばかりです。世界のどの地域のものであろうと、現代では完全に断絶した時代のものであろうと、かつて実際に存在した社会、実在の人が考えたこと、生きた証として残された表現をとてもゆかしく感じます。一日の当たり前の生活の中で、食事し、運動し、何事かを学び、家事をし、睡眠をとる・・・。そのような手触りをよすがとして、ようやく人がなんとか生きていられる世界になったのだなと感じます。年寄りはそれでもいいのですが、若い方々がこれから生活時間の多くを仮想現実で過ごすとなると、彼らが生きていく世界はどんなものになるのか、想像もつきません。人間の生活実感を古典でしか体験できない未来が来るのかもしれません。