2022年3月14日月曜日

「自立キャラの最終形」

  私の記憶では、「草食系」という言葉が使われだしたのは平成の半ば頃で、それからかなり長い間、この言葉で端的に示される日和見主義、孤立を避けて群れることを信条とする在り方が好まれてきたように思います。悪目立ちせず、群れの中に身を置き、事態の雌雄が決するまでできる限り態度を保留するという生存戦略は、或る意味、この時代には必須のものでした。なにしろ平成の世はバブルの後始末に始まり、グローバル化の進展に伴って「非正規化」という労働市場の移行期的混乱に振り回され、また、人間の辿った歩みの結果としての災害やテロが頻発し、なんだか陰鬱な空気がいつも漂っていた時代だったからです。令和になった現在では、もう社会の階層化は誰の目にも覆い難く、混迷はいっそう深まりつつあるものの、踊り場的一段落の様相を呈しています。

 帰省先でみるテレビは、私にとって立派な「ご時世見学」となっていますが、たまたま私が見た2つのドラマでは時代の変化を感じる展開に驚かされました。なんと、主人公には友達がおらず、それを公言してはばからないどころか、そのように在る自分を全く意に介していないのです。一人で孤立していることが病的に恐れられていた時代は終わったのか、このような自立キャラが或る種の規範となりつつあるのかと目が覚める思いでした。以後、話を注視していますが、人の在り方としての最終形が提示されているようなのです。これからの時代に群れてなどいたら、集団ごと一気に滅亡しかねない。もはや何もかも自分の頭で決定しなければならず、どんな結果がまっていようとも自分で背負わなければならない。ドラマでは、そういうことを全て理解した主人公がすっくと立っている姿が描かれています。

 特に面白くフォローしているのは『ミステリと言う勿れ』です。ミステリこそは人の罪から発する犯罪を読み解く万国共通の文学形式ですが、この表題から察するに、ドラマは(原作は漫画らしい。やっぱりね)ミステリにとどまらない、人の罪、ということは即ち人間そのものを扱うということを示唆しているのでしょう。主人公は本来自己完結的な人物なので、物語としては否応なく周囲に巻き込まれるという形で話が展開します。一つには本人が有能だからですが、もっと根深いところで主人公のような人物を放っておいてはいけないという社会的な要請があるはずです。こういった人々はわずかな差異を競い合っていた前時代の「草食系」とは無縁のキャラで、集団の外で非の打ちどころなく屹立しています。だからこそ、自らの存立にかかわるアラームを察知した社会は彼に耳を傾けざるを得ないのです。彼というか、こういう人物はごく少数ながら既に出現しているのですから、彼らに接触して取り込むことが社会の生き残りに必須の戦略です。「滅びるものならば滅びよ」(こう言ったのはローマ帝国末期の東西分裂の時代を生きたアウグスティヌスではなかったでしょうか)という崖っぷちまで来た社会でできることはもうほとんどないのですから。

 十分自己完結的で他者を必要としない人物が個々に存在するだけでは社会は持続できない。自らの思考と力量で人生を切り開いていける人間が、吹けば飛ぶほどの少数にとどまるのならば、先立つ人に従っていても個々人の未来の展望は開けないというのはなんと恐ろしい時代でしょうか。この厳しい宣告に気づいたのは、ドラマの中で一番のけぞった場面、大学生の主人公が教師を目指していると知った時です。「あ、そういう話だったの」と、現在なり手のいない不人気な教師という職業を思いました。ドラマでは疑似的に彼の先生も設定されていますが、彼自身にはもう教師など要らない。彼に教えられるのは彼自身だけだからです。このやたらと古典文学に精通している主人公は、それでもまだ年若い青年に過ぎず、日常に起こるショックな出来事に対して思考停止状態に陥ることもあります。うずくまった状態で、「もう大人なんだから団子虫になってちゃダメ」と自分を叱咤する姿はとても味わい深いものです。日々流れる子供じみた事件を聞くにつけ、三十歳でも四十歳でも、ひょっとすると六十歳、七十歳でも大人とはいえないと感じる時代に、若者が「学べ、学び続けよ」と自分を叱咤しているのです。ドラマは彼に接触する周囲が当惑しながら、それでも何かしらが変わっていくことを描きつつ、教師が教師であるのは、「人は自らの教師になるほかない」ことを教える限りにおいてであると語っています。人生に正解がない時代は、このような若者の存在に希望を置くしかないところまで来たようです。非常に険しい道ですが、幸運が味方してくれるならこのような人は、古代の教父のように永遠を見ることができるかもしれません。