2022年1月3日月曜日

「フィールド研究者の記録を読んで」

  以前見た映像があまりにトラウマティックだったので、昆虫関係の本は無理だなと思っていたのですが、この年末年始はサバクトビバッタの若手研究者前野ウルド浩太郎氏の一般書を二冊読みました。ともすればふさぎがちの日常にあって明るさの機運を感じたかったのです。「出エジプト記」でヘブル人を去らせまいとするファラオと向き合ったモーセに神は、カエル、ぶよ、あぶの大群、家畜の疫病、腫れ物、雹による災害、いなご、暗闇などの対抗手段を与えましたが、どうもこの「いなご」というのがサバクトビバッタのことらしく、他の3つの生物とともに、サバクトビバッタは人類史上最古の災いとして記録されていたわけです。その羽の複雑な模様はヘブライ語で「神の罰」と記されていると考えられているという話は初めて聞きましたが、それは紛れもなく、このバッタの大群が飛び去った後には植物は何一つ残らず、恐るべき飢饉をもたらしたためでしょう。

 前野ウルド浩太郎氏はどちらかというとさかなクン系の真面目な研究者で、フィールドワークの世界に飛び込める行動力だけでも私などにはもう異能の人です。子供の頃読んだ『昆虫記』に魅了され、ファーブルへの憧憬が半端なく、また「バッタに食べられたい」とわざわざ緑の服を着てバッタの大群に対峙するなど、博士の異常なバッタ愛も見受けられますが、科学者なるものこうでなくてはいけません。日本学術振興会から研究資金を得てモーリタニアに渡り、慣習の違いにとまどい、失敗しながら、現地の研究所の方々や遠征スタッフと信頼関係を築いていきます。欧米人研究者はテロの対象になる危険のため、或る程度長く腰を据えて研究することが難しいという事情もあり、また一方で、研究所が蓄積してきたデータを持ち去ってしまうといった出来事もあり、現地の研究員は新参者を疑いの目で見ていました。しかし、体を張った前野氏の研究姿勢に現地の周囲の見方が変わっていきます。政府開発援助(ODA)が機能していたことも幸いしました。この記録は相手の慣習を踏まえた上で、丁寧に時に豪快に、常にまっとうであろうと心がけて対処していけば、相互に信頼し合える関係になれることを教えてくれます。バッタに遭遇するには、いつ、どこに、どのくらいの規模で発生するか皆目わからないバッタの大群情報を集め、時を逃さず飛び出していくしかない、そしてあっという間に雲散霧消してしまうスピードを考えれば、確かにファラオにはモーセが魔術を使ったとしか思えなかったことでしょう。やはり研究室で飼育されているバッタと戸外にいる野生のバッタは別次元です。バッタの大群発生のメカニズムが解明されて、多少なりともその群生の在り方が制御できれば、現地の農業にとってどれほどの恵みになることでしょう。気候変動によりバッタ問題は他の地域に容易に拡大する様相を呈していますので、日本では顧みられることの少なかった研究が大きな貢献をする時がきっと来るでしょう。

 サバクトビバッタの個体は孤立して存在する孤独相の時は緑色ですが、群れて群生相になると黒とオレンジの縞模様になります。混み合いの具合によって変異するというのは、周囲の状況が変化して群れをつくることになった時には、個体としては何か別物になることを示しています。これは、環境の変化によっては自らも変化しないと生き延びられないということかもしれませんが、個体でいる時には通常緑色なのですから、群生の時は何かしら体に負荷がかかっているのではないでしょうか。飛び去ったバッタの群生は皆何事もなく通常モードに戻れるのでしょうか。また、何が群生を引き起こすのでしょうか。非常に興味深いことです。

 一般に生物は環境の変化の中で子孫を残すために最適の選択をしますが、バッタの場合はその指標になるのはこの「混み合い」という密集度合です。混み合いの状態によって雌が産む卵のサイズと数を調整しているのです。孤独相の時には小さくても数多くの卵を生むことが、また、群生相の時には大きなサイズの卵を少数産むことが状況に最適化することになります。こういったこと全てが非常に示唆的で、たとえ不適切な仮説になろうとも、様々な観点から生物としての人間を真面目に考え直さないわけにはいかないのではないでしょうか。

 前野氏の奮闘の記録にはもう一つ大事な側面があります。ポスドクの問題です。そもそも背水の陣でモーリタニアに渡ったのは日本にオーバードクターがあふれてポストがないからです。そんなことは昔からあったというなかれ、というのは昔とは次元の違う大量のオーバードクターの発生は、30年前に始められた大学院重点化政策によって人為的に生み出されたものだったからです。すなわち、十八歳人口の減少による学生減少時代を切り抜けるため、まず東大法学部と文科省が画策して大学院の重点化が行われ、これに他大学他学部が倣って大学院の増員がなされた結果、ドクター過程を修めても就職口がないという現在の絶望的な状況が起こっているのですから、これは明らかな人災なのです。時折、彼らに関して非常に痛ましい報道がなされますが、ここまで若者を欺き躓かせ希望を失わせることが許されてよいのでしょうか。まだ社会に出たことのない、寄る辺ない小さな者たちに対し、このように無慈悲な仕組みをつくって踏みにじる悪辣な者たちを神様も決してお許しにならないでしょう。前野氏は幸い成果を上げてその後のポストを得ることができましたが、人文・社会学系の学問ではさらに厳しい状況に違いありません。研究というものは必ず成果を上げられるとは限りません。どんな発明、事業でもうまくいくのは「千三つ」ほどというではありませんか。千に一つでも大きな業績が上げられればそれは国の宝になるはずです。前野氏が学術振興会から得た研究費は400万円にも満たなかったはず、いま若い研究者に国費を投じなくていつするのでしょう。国には少なくとも1万人規模の研究者に必要な研究費と生活費を投資してもらいたいと思います。現在私利私欲に駆られた利権を守るために使われている税金に比べて、それがどれほどのことでしょうか。税金は真に有意義なことに使ってほしいものです。研究者にとって研究費と生活費は一体のものだというのは世界の常識であり、昨年ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎氏は「渡米して年収が25倍になり生活の心配なく研究に専念できた」というような話をされていたではありませんか。研究に没頭しても必ずはかばかしい達成があるとは限りませんが、没頭なくして達成なし。明日の米びつの心配をしながら研究などできるわけがありません。千三つとしても、大きな業績が三十もあったら途轍もないことになるでしょう。研究意欲にあふれた人は大勢いるのですから、若い研究者をつぶさないでほしい。年頭にあたって言いたいことは、「研究したい人には研究させてやれよ」に尽きます。それにしても正月から憤怒の情にかられ、つい呪いの言葉を吐いてしまった、いかん、いかん。