「宅配送ったけど、明日家にいる?」と、両親の時代から親しくしている福島の方から電話がありました。1月は教会に顔を出せなかったので、ご心配をかけたらしく、動けるので心配はないこと、2月には礼拝に出席できることをお話ししました。翌日、荷物を受け取って中身を一つずつ机に並べていきました。出るわ出るわ"福島尽くし"と言っていい特産品ばかりで、漬物や柚子みそ、甘未・菓子類ほか、りんご、じゃがいも、玉ねぎが次々と現れ、宝箱を開くような楽しさでした。そればかりでなく、下の方には乾麺や私が常食としている山形産つや姫、お赤飯のレトルトパックまであり、なんだか笑いがこみ上げてきました。「この既視感は・・・」と考えると、それは学生時代に実家から送られてくる荷物の中身を取り出す時のわくわく感でした。
この荷物を運んできてくれた配達人は、幼いと形容していいほどの若者でした。「ありがとうございます」と頭を下げて荷物を受け取りながら、ふと胸を衝かれました。このようなエッセンシャル・・ワーカーがいなければ私たちの日常は一日たりとも成り立たないのに、その仕事の報酬として受け取る賃金を推し量って、「なんとかならないのか」と胸が痛みました。私はこの世の経済の仕組みに打ちのめされてから、まだ絶望感から抜け出せずにいます。政治家が、財界人が、官僚が、何か言うたび、「この人はこの発言をすることで本当は何を企図しているのか」と考える癖がつき、性格の悪さが倍加した気がします。「また巧妙な嘘を言っているに違いない」と疑ってかかるのです。人間の悪は詩編の時代から変わりません。
神に逆らう者に罪が語りかけるのが
わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。
自分の目に自分を偽っているから
自分の悪を認めることも
それを憎むこともできない。
彼の口が語ることは悪事、欺き。決して目覚めようとも、善を行おうともしない。
床の上でも悪事を謀り
常にその身を不正な道に置き
悪を退けようとしない。
(詩編36編2節~5節)
このところ経済という観点から自分の生涯を振り返って、我が「ヴィタ・オイコノミカ」はいかなる顛末かを考えてみましたが、何一つ取り上げる事柄がないほど何もしてこなかったことがわかりました。「道端に金が落ちているのに拾わない奴は馬鹿だ」と言われたバブル時代も、仕事に忙殺されてそんな道端があることさえ知りませんでした。当然、バブルの崩壊も何のことかわからず、皆が何を騒いでいるのか不思議でした。とにかく財テクというものを一切したことがなく、利益もない代わりに損害も被りませんでした。大きな買い物は住まいだけ、もちろん投資の対象ではなく、自分が存在するのにひつような場所のためであり、今は誰からも追い出されることなく、ずっと住み続けられることが生活の安心の源になっています。
その他にも思い当たる偶然的出来事がいくつかあり、私のような凡庸な人間に対して、要所要所で必要な知識を授けたり、不要な情報を隠したりして、私が経済的にも間違いを犯さぬよう見守っていた方がいることを確信しました。人は不安や欲望にかられると、「何もしないでいること」がとても難しい生き物だと思います。自分が愚鈍に思えて「やらないよりはやった方が・・・」と考えがちだからです。今になって神様が必要に応じて私の目や耳を塞ぎ、御翼の陰に私をかばってくださっていたことを知ろうとは。そしてその御翼の陰には、疑いを差しはさむ必要のない兄弟姉妹が共にいたのです。その慈しみはいかに貴いことでしょう。神様は人の悪だくみをそのままにしておかれる方ではありませんから、私は様々な不正に憤りながらも、あとのことは全て神様にお任せしていればよいのです。
主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え
人の子らの中から
信仰のある人は消え去りました。
人は友に向かって偽りを言い
滑らかな唇、二心をもって話します。
主よ、すべて滅ぼしてください
滑らかな唇と威張って語る舌を。
彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」
主は言われます。「虐げに苦しむ者と
呻いている貧しい者のために
今、わたしは立ち上がり
彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」
主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。
主よ、あなたはその仰せを守り
この代からとこしえに至るまで
わたしたちを見守ってくださいます。
主に逆らう者は勝手にふるまいます
人の子らの中に
卑しむべきことがもてはやされるこのとき。
(詩編12編2節~9節)