2021年7月29日木曜日

「紅春 184」



 台風接近の予報に一日予定を早めて帰省しました。仮に福島に上陸していれば統計を取り始めて以来初めてとのことでしたが、影響はほとんどなくほっとしました。りくの熱い歓待はありましたが、今のところ気温は予想より涼しくて助かります。朝は4時過ぎからりくと散歩、帰って周囲の草むしりをし、太陽が出たらりくの体を洗って外に繋ぎます。それから午前中の早い時間に農家の直売所へ野菜と桃の買い出しに行く、これは必須です。春先の霜の害を心配していたのですが、杞憂だったようです。今年のあかつきの甘いこと!

 夜は電気を消して、網戸の前でりくと夕涼み。涼しい風が入り、ゆっくりと時間が流れて、子供の頃の夏を思い出します。りくは相変わらず散歩が大好きですが、土手に上がる急勾配の道を登るのが結構きつくなってきました。ヨタつきながらやっとこさという感じで登っていきます。以前はりくの夏休みにと、あづま運動公園に遊びに行ったこともありましたが、今はせいぜい近くの散歩がいいところかもしれません。「あそこの球場で今オリンピックの試合やってるんだよ」と、りくに話しながら、涼しい部屋のテレビで野球観戦です。りくと静かな日々を過ごしています。


2021年7月27日火曜日

「なぜ嘘をついてはいけないのか」

  今までに嘘をついたことがないという人がいたら、その人は噓つきだと断じて構わないでしょう。それほど身近にある嘘ですが、自ずとその嘘には軽重があり、私たちは通常「ついてもいい嘘」があるのではないかと考えています。カントの著作の中に「人間愛からなら嘘をついてもよいという誤った権利について」(1797年)という小論があります。この中で、「われわれの友人を人殺しが追いかけてきて、友人が家のなかに逃げ込まなかったかとわれわれに尋ねた場合、この人殺しに嘘をつくことは罪であろう」と言っており、これは困惑を覚える言葉です。

 カントによれば、「いない」と嘘をついても、犯人と友人が出会い頭にぶつかって友人が殺されてしまうかもしれず、逆に「いる」と真実を告げても、その人は抜け出して不在かもしれず、嘘をつけば友人が助かり、真実を語れば友人が殺されるという因果関係は成り立たないというのです。この説明を聞いても、依然として私たちの困惑は解消されないように感じるのは私だけではないでしょう。カントの定言命法は行為の目的や結果に関わらず、それ自体善なるものとして普遍的に妥当する行為を、無条件的に命ずる原則を示しています。「仮に・・・とすれば」とか「・・・・の時は」といった例外を設けず、絶対的に断言するのです。「誠実は絶対的な義務であって、契約に基づくあらゆる義務の基礎とみなされなくてはならず、もしこれに少しでも例外を認めさえすれば、義務の法則は動揺して役に立たなくなる。したがってあらゆる陳述において誠実であるということは、神聖で無条件的に命令する理性命令である。この命令はどんな都合によっても制約されない」ということです。

 なんとも割り切れなさは残りますが、カントの言う原則はまさにその通りというほかなく、ここが崩れて誰もが「このくらいの嘘は許されるだろう」とか「我が身を守るために嘘をつくのは当然だ」と考えるようになると、それこそ社会が崩壊の危機に瀕することは、あまりにも多くの見え透いた嘘が氾濫している現代においてひしひしと感じることなので、カントの言明のすごさが身に沁みます。嘘が知性と深く結びついていることは子どもの発達を観察すれば誰にでもわかることであり、詐欺師などは本当に舌を巻くほど「賢い」のです。創世記第三章1~4節には次のように書かれています。


主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

女は蛇に答えた。

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 

蛇は女に言った。

「決して死ぬことはない。 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 


 これには前段があって、「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」(2:9)と、、「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16~17)を受けています。ここからわかるのは、「賢い」蛇が神の言葉を捻じ曲げて、神が言っていない嘘の質問に作り換えているということです。蛇の嘘が神への人類最初の背き(罪)を犯させる契機となりました。日本では「嘘つきは泥棒の始まり」というよく知られた言い回しがありますが、「詐欺師の始まり」と言っていないのは、古来から泥棒が忌むべき悪の代表的行為だったからでしょう。

 善悪の知識の木の実を食べてしまった人間は「必ず死ぬ存在」になりました。「食べてはいけない」という神の禁止を破ったことが出発点だったためか、人間は善悪を知りながらたびたび悪を選んでしまう存在となったのです。嘘をめぐる命題はまだまだわからないことだらけです。カントの定言命法を破って嘘をつくことを選択する状況もあるでしょう。ただ、先ほどの明らかに友人の命が危険にさらされているような究極のケースでは、嘘をつく方も自分の命を賭ける覚悟を求められるはずです。それを止める力は誰にも、どこにも無いと思います。また、「嘘だけはつかないで!」という言葉は最も近しい間柄で交わされる約束ですが、こういう関係での嘘は致命的であり、全てを失う覚悟が必要でしょう。相手が作ったまずい食事を食べて、笑顔で「おいしかった」と言う、相手を傷つけないための嘘はおそらくカントの思考の範囲外でしょうけれど。


2021年7月19日月曜日

「効率至上主義と『しかと力』」

  4度目の緊急事態宣言発出に際し、酒類提供の停止要請に応じない飲食店に対して、金融機関から働きかけを要請する旨を示唆した政府が、この要請を撤回し陳謝しました。この件は金融庁、国税庁に話を通したうえで経済再生担当相の発言があったわけですが、さらにこれには前段があることがわかりました。既に1か月前、東京都の酒類販売業者が支援金給付を申請する際、「休業要請等に応じていないことを把握した場合には当該飲食店との取引を行わない」旨の誓約をさせる一文があったのです。これは内閣府地方創生推進室と内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室から、各都道府県宛に出された通達に従って、都の事務方が挿入した一文でした。おそらくこの一件に象徴される対応は、あらゆる分野において過去二十年にわたって取られてきた方法で、その意味で政府やお役所の目から見れば当たり前の手法だったのです。

 今回の例で言うと、まず「感染者を減らさなければならない」という大前提があります。その目標を実現するため飲食に関して御上が考えたのは、①コロナは飛沫感染するので、黙食の励行が重要、②酒類は理性を緩ませるので、酒類の提供停止が効果的、ということでした。大枠の考え方は間違っていないのでしょうが、それを現実化する術を考える時、決定的に見誤っていた点が2つあります。一つはノミニケーションの文化を甘く見ていたことで、これは昔ほどではないでしょうが、終業後飲食を伴う会食の場で、一日の振り返りをしたり、憂さを晴らしたり、明日への活力を養ったりということは就業者にとってどうしても必要な時もあるということです。就業していない人にとっても、飲食しながら友人や知り合いと親交を深めることは当然の欲求でしょう。家で飲酒すれば済むようなことではないのです。現代は禁酒法どころか家飲み法でさえ我慢できないほど人々の欲望は膨れている時代です。

 もう一つは、目標達成を最大限楽な(すなわち効率的な)方法で済まそうとしたことで、この点は私にはいっそう興味深く思われます。私の感覚では2000年頃からこういった通達や事務連絡が濫発されるようになったと感じています。文書一通出せばよいだけなのでお役所にとってこれほど楽なことはありません。翻弄される現場はできる限りこれを果たそうとするのですが、内容があまりに現実離れしていたり、次から次へと無意味な文書が来るのでは到底まともに果たせなくなります。真面目過ぎる人は無理な課題に向き合って鬱になったり、体を壊したりすることになります。この時期から本当に無駄な作業が増えました。

 我が身をなんとしても守るため、多くの人が取った戦略はやりすごすことです。つまり一応やろうとする態度を見せながら、どんどん時間が経っていく状態です。無理難題を吹っ掛けられている人にとって、これが一番効率の良い対処法です。そしてそれは、政府や官僚が法治国家の範囲内で、証拠を隠蔽・改竄しながらあまりに見え透いた嘘をつく有り様を、砂被りで見てきた国民が学んだ結果なのです。長く続いたお役人様の効率至上主義に対して一般人が身につけたこの能力を、仮に「しかと力」と呼んでおきます。

 一例として、学習指導要領の改定時に、外国語学習において、最終的に外国語を用いてディベートできる力を養うことが盛り込まれました。母語でさえできない(というか日本の文化に反する論争ゲームなので行われてこなかった)ことを何故求めるかと考えれば、主として英語で商談をバンバンまとめて経済戦争に負けない人材を育成したいからだと容易にわかるので、すっかり気持ちが萎え、真面目に考える気にはなれませんでした。加えて、ずいぶん前からオーラル重視の指針が出されていたため、現在、高校の現場で働く人の話では、もう文法を基礎とする英作文は壊滅状態と聞いています。それでもそれなりの大学に合格していくという驚くべき現状があるとのことで、大学も大変だと思いやられます。インターネットの時代には、相手のメールを正確に読んで的確に返信するため、書く力をこそ身に付けさせなければならないはずなのに、現実からあまりに乖離した学習指導要領が出されたため、却って英語力が落ちているという現象が起きています。現実を見ずに立てた目標がどれほど逆効果を生むかわかる一例です。いまの若者が外飲み、街路飲みを注意された時とる行動は、「はい、やめます」と素直に言って場所を移動し、同じことを続けることです。決して「ディベート力を養って議論によって自分の主張を通す」などという非効率なことはしません。「しかと力」を身につけたのです。

 今回、お役人が酒類販売業者に対して「違反営業する飲食店には酒類を提供しない」旨の事務連絡をしたところまではいつもの手法であり、酒類販売業者も「しかと力」で応じていたのです。なぜなら、「当該飲食店との取引を行わない」のは「休業要請等に応じていないことを把握した場合」であり、「把握していませんでした」「知りませんでした」と言えば済むからです。しかし政府は、実効が上がらないとみるや金融機関を使って脅すという致命的な思い違いを実行しようとする挙に出ました。これにより事態が一変したのです。酒類販売業という一業界がなんとかやりすごそうとしていた状況が粉砕されました。政府にとってこれが一番効率的に目標を遂行する方法でしたが、酒類販売業の背後にいる何千、何万の飲食店、何千万人かの一般大衆の欲望に考えが及びませんでした。尾を踏まれた大勢の獣が目覚めたのです。あまりに実情を無視した政策は破綻せざるを得ません。今回政府がすぐ引いたのは、ガバナンスの不全があからさまになるよりは謝った方がましだからでしょう。「感染拡大を抑えたいとの強い思いがうまく伝えられなかった」というようなことも述べられていたようですが、明確に伝わったからこそ騒動になったのです。こういう言葉の一つ一つが国民の「しかと力」を益々醸成していくのは間違いありません。ただ今回は、「取引停止命令」が素人目にも法的根拠をもつとは到底思えないものだったためこれで収まりましたが、次に政府は法律を作り、それを盾に国政を動かそうとするでしょう。できるだけ効率よく、包括的に国民を縛る法律を作るに違いないと考えると、これから作られる法律はどれほど悪辣なものになるか恐ろしくなります。そしてそれは、何よりも憲法改正時に盛大に盛り込まれるでしょう。そういう予測を盾ながら、今回の騒動を得難い事例として、国民一人一人が学んでいく必要があると思います。



2021年7月13日火曜日

「もうすぐ普通の風邪になる?」

  英国では7月19日から感染症防止措置制限の全面解除になると報じられています。毎日3万人感染していてもこの判断を下したということは、英国がコロナ感染の弱毒性を公式に認めたということです。すでにワクチンはあり、接種したい人はいつでも接種できるし、経済活動の沈滞ぶりを考えると、あとは「自己判断でどうぞ」ということでしょう。これはこれで一つの見識です。それにしても人口6800万人にも満たない国で一日3万人の感染はすごい。本当にワクチンは効いているのでしょうか。それとも接種していない人が多いのでしょうか。そんな状況でも医療が回っており、重症者があふれていないのなら、コロナはもうただの風邪、といって言い過ぎなら、季節性のインフルエンザ程度になったのです。

 日本では今年になって緊急事態宣言や蔓延防止等重点措置が出されていなかった日数は28日間だけということですが、厳密な意味でのロックダウンもせずにここまできたのは或る意味すごい。オリンピックさえなければもう少し別な対応もあったのではないかと思いますが、緊急事態宣言のただなかでオリンピックをする「柔軟性」は世界の常識を越えています。メリットがほぼ無い状況下で、日本の自己犠牲の精神を全世界に印象付けることでしょう。

 4度目の緊急事態宣言で要請に応じられないほど追い詰められている業界、職種に向かって、経済再生担当相の「金融機関から働きかけを行っていただく」発言には誰もが驚いたはずです。国民との間にプラットフォームが全く共有できていないという、非常に根本的な断絶を感じたのは私だけではないでしょう。そう言えば、以前、新型コロナウイルス感染症対策分科会会長の発言に対し、オリンピック担当大臣は「全く別の地平から見てきた」旨の応答をしていました。同じ地平にいないのなら、言葉が届くはずはありません。

 先日外出してみたら、皆さん普段通りに活動しているようで、交通機関は普通に混雑していました。当たり前です。何らかの宣言が出ている期間が圧倒的に長かったので、出ている状態が「普通」になったのです。みんなの意見は案外正しい。重症病床の逼迫がなければ、最低限のルールを守りつつ、自己判断で動いてもいいのではないかという気がしています。私は自己判断で家にいますけど。


2021年7月11日日曜日

「紅春 183」


 「家にいる間、俺はずっとりくに見張られている」

「私も同じだよ」

 兄の言葉に笑ってしまいました。兄は帰宅するとすぐりくを散歩に連れ出し、外に繋いで夕飯の準備をし、中に入れて食べさせるのですが、その後兄の夕食のお相伴をし、雑用を済ませる間も、入浴する間もそれとなく様子をうかがっているとのこと、「なんか息が詰まる」と言っていました。

 私が帰省している時も、眠っているとき以外は必ず姿が確認できる位置にいて、思わず踏みそうになる場所にいることもあります。最近は夜わざわざこちらのベッドのすぐそばまで来て、寝ていることもあるので、気をつけないと本当に危ない。「あっちにりくのふかふかの布団あるでしょ」と言っても、夏になったせいか平気なようです。たまに起きて手っこを出してきたり、ブルっと体を揺すって気を引こうとしたりするので、こちらも若干寝不足気味。何事か心配でもあるのか、昼となく夜となく一緒にいたいようです。「りくは世界中で一番かわいい子なんだよ」といつも声掛けしていますが、わかっているんだか、いないんだか。


2021年7月5日月曜日

 ワクチン陰謀論の背景」

 ワクチン陰謀論なるものが特にネットを介して広まっていることを最近知りました。かなり無謀な話をもとに実力行使を煽る場合もあるようで、広範な社会的同意を得られる活動ではないでしょう。ただ、どのような現象にもその背景があるのは確かですから、全くの愉快犯以外の二つのケースを考えてみます。

1.突然の事態をうまく呑み込めず、「これで儲けたのは誰か」という観点から犯人捜しをして或る結論に至った人が義憤にかられて吹聴するケース

2.社会の中に陰謀論の論旨(全部または一部)に「心当たり」がある人が相当数おり、その人を介して徐々に広まっていくケース


 「1」のケースは、あまたある世の陰謀論と同様の論理ですが、一つの現象を或る人物や団体が故意に起こした事象としてとらえる点が共通しています。陰謀論信奉者は、まるで世界の奥義を知ったかのような全能感を覚える一方、相対する人物や団体が強大であればあるほど、自説で説明できないものは無くなり、当の本人はますます確信を深めることになります。この確信は強固で、いかなる実証的事実によっても左右されることはありません。しかし、これだけで荒唐無稽な論が急速に社会に広がるということは通常なく、大方の人は笑って聞き過ごす類いの話です。

 「2」のケースは少々厄介です。それはこの言説がたとえ部分的にでも信頼する筋から裏書きされたり、何らかの点でそれまでの自分の体験にかすっていたりするからです。ある説を頭から否定できないと感じる時、それは心に引っかかって容易に消えません。それゆえ、じわじわと人々の間に浸透していくのです。

 今回のワクチン陰謀論はあまりに馬鹿馬鹿しいと感じますが、それにも関わらずその論が広まり、人々のワクチン接種を妨げているとしたら、その原因はこれまでのワクチン行政への不信感が根底にあるのではないでしょうか。ここには半ば必須の予防行為としてなされてきたワクチン接種と健康被害の歴史が大いに関わっているでしょう。これまでワクチン接種は免疫力の個人差を無視して行われてきたため、一部の人に健康被害が発生しました。ところが、接種した本人にはワクチン接種とその後の体調不良の因果関係は体感的に明白にもかかわらず、行政の委託を受けた専門機関によって「因果関係なし」で片づけられてきた歴史があります。ワクチン接種による副作用という専門的な問題を、一般市民がどうして証明できるでしょうか。また、或るワクチンに疑念を持ち何らかの因果関係を疑う医療関係者がいても、保身のため異論を呈したり行動を起こしたりすることはまずありません。事象を糊塗するかのように、副作用ではなく副反応と呼ばれていることも被害者の憤りの一因でしょう。このようなことが続いた結果、残念なことにワクチンへの信頼が失墜したと言えるでしょう。

 医師のほとんどが粉骨砕身患者の治療に取り組んでいるのは間違いありません。しかし、製薬業界等と結託してデータ改竄に手を染めた医師や研究者がいたことも事実で、そのため社会に消し難い不信感が横溢するまでになってしまいました。一部の人が行った不正行為でも長年にわたって正されずにいると、社会そのものが侵食されて不健全にならざるを得ないでしょう。これが医療に限らずあらゆる産業、学術、教育の分野でなされたなら、それら全てが相乗的に積み重なって社会は取り返しがつかない程度まで損なわれてしまいます。完全に壊れた社会の再建は不可能です。まだそうなっていないことを願っていますが、もしすでに「嘘をついてはいけない」、「不正をしてはいけない」という言葉さえ空しいとすれば、我々はもう「2+2=5」と唱えなければ生き残れないビッグ・ブラザーの支配する世界にいるのです。あ、これって陰謀論かしら。それとも真実?


2021年7月3日土曜日

「紅春 182」


  もうずいぶん前から、りくのしっぽは常時ほぼ垂れているようになりました。しっぽをくるっと巻き上げておくにも体力がいるのでしょう。外に散歩に行く時は気が張っているらしく、見慣れた立派な巻き尾ですが、それ以外はへな~っと垂れています。老化現象ですから致し方ありません。

 先日、比較的涼しい日だったのですが、りくには少し暑かったのかコンビニまで行っての帰りが大変でした。歩きが非常にスロー。水を上げてもさほど飲まず、時々立ち止まりながらゆっくり歩いています。突発的なパニックや発作など何かあるといけないので、りくを抱いて帰ろうと思いました。十メートルほど歩いたところ、「自分で歩く」と言うので、降ろしてゆっくり時間をかけて帰ってきました。その後も元気でほっとしましたが、夏場はすぐ戻れるくらいまでの散歩にしないとだめだなと思いました。

 一方、りくが弱っているわけでもない現象もみられます。朝は依然として3時くらいから断続的に散歩をせがみに来ますし、実際外に連れ出すと、引き綱はピンと張り、こちらが早足で着いていかねばならないほどの速さで進んでいきます。散歩はりくの一番の楽しみです。ところが下の橋までの一周が終わりかけ、家路につく時は歩みが急に遅くなります。道草を食いながら時間稼ぎをし、帰りたくない様子がありありです。老獪な戦術です。昔からなかなかの策士でしたが、いっそう年季が入ってきているようです。


2021年7月1日木曜日

「国産品の応援」

  このところ食品の値上げが報道されていますが、これは生活実感と一致します。世界中で人間の生産活動が縮み、原材料の総量が減少する一方、その生産品への需要が減らないのであれば、値上げも当然です。消費は人口動態の変化から導かれる予測値が何年分も前倒しになったような落ち込みようです。感染症の流行以来、手近なところで手に入る食品、日用品以外は通販に頼ることが多くなっていますが、私は可能な限り国産品を購入することにしています。

 これまで書いたデジカメ、桃ジュース、ひのきオイル(虫よけや床掃除にも最適)はどれも非常に良い商品でしたが、もう一つ日本製レースのカーテンについて記します。これは二十年以上使っていた自宅のカーテンが弱ってきたため新調したのですが、このようなものさえ進化を遂げていることが分かりました。私が購入したのは「レースのカーテン」という範疇に置かれていたものの、外からはもちろん、中からも外が見えない、薄手の白いカーテンでした。今のカーテンはUVカット、遮熱が主流らしく、購入品も紫外線や熱はカットしつつ、光の明るさは存分に差し込む製品でした。最初、中からは外が見えた方がいいかなと思ったのですが、そのうちこれはこれでとてもよいと感じました。今までは紫外線を避けるため昼間も一部カーテンを引いたり、目隠しをしたりしていたのですが、今度はその必要がなく、とにかく明るい。これは何かに似ているなと思って考えたら、それは日本の優れた建具の「障子」でした。製作者にそのアナロジーからの閃きがあったのかどうか知りませんが、まさしく布製の障子といった感じです。ふーむ、これが二十年間の進歩かと感心しましたが、あまりにお値打ち価格であることに愕然とし、気の毒になりました。

 食料の高騰は困りますが、消費者さえ「物が安すぎるのでは?」と感じる事態ってどうなんでしょう。「安いだけのことはある」といった粗雑な商品ならいざ知らず、もう十分に優れた魅力ある商品が相当安価な値段でしか流通できないというのは率直におかしいと思います。物には正当な値段があるでしょうに、このようなラットレースを続けてどこに行くつもりなのでしょう。毎日報道される小さな事実の一つ一つが、社会が突然死を迎える前の断末魔の叫びに聞こえるのは私だけでしょうか。国民国家に生きる者として、微力ながら、日々誠心誠意お仕事に取り組まれている方々を心から応援したいと思っています。良い商品に対しては、以前はほとんど書かなかったレヴューも書くようになりました。評価はもちろん「5」。レヴューというより応援レターのつもりです。今のところ外食は完全に避けているので、飲食店、外食産業の応援は無理かなあ。