2021年3月24日水曜日

「専門家と素人の境界とは?」

  私は以前から専門家の知見を高く評価し、敬意を抱いてきた者ですが、近年その信頼が揺らいできています。ウイルスとワクチンについて調べ始めたことに端を発し、おかしなこと・恐ろしいことが見逃されて、あるいは未必の故意として、行われているらしいことに気づいたからです。おそらくこれは医学界に限らずどの分野でも進行している状態なのではないかと思います。

 このようなことがわかってきた背景には、一つにはインターネット時代になり、素人がかつては専門家しか知り得なかった情報にアクセスできるようになったことがあります。これはあらゆるアカデミックな分野に言えることで、ギルド的同業者組合の中でしか流通していなかった知識や技能が、世界的な共有財産になったことによります。ですから、誰かが真剣に何かを学びたいと願い、文献(最新の研究結果も含むすべての情報)を正確に理解し、論理的に思考する力さえあれば、素人でも正しい結論に達することができるでしょう。四十年前に学生時代を送ったものにとってはこれは革命的状況であり、今の大学教育は、教授と学生の圧倒的な知識の水位差をかなりの程度前提になされていたかつての高等教育とは別次元の様相を呈しているに違いありません。膨大な量の情報を読み漁というのは体力勝負でもあり、その中からどれだけ正しい情報、優れた研究結果を見分けられるか、そしてそれを自分の研究に行かせるかが鍵になるとすれば、ひょっとすると若い研究者の方が有利ということだってあるでしょう。

 学問の世界がおかしなことになっているもう一つの背景は、経済環境、社会状況が年を追うごとに厳しくなっていることです。研究者が期限付きの短期のポストしか与えられず、その間に業績を上げなければならないとすれば、スタップ細胞事件のようなことが起きても不思議はありません。この点、医学界においてさらに深刻なのは、日本では急激な人口減少の中で収益を上げ、病院の経営をしていかなければならないということがあります。身もふたもない話ですが、患者一人当たりの診療単価を上げるか、患者を増やすかするしかないのです。すると、高額もしくは不必要な検査や治療を施すか、健康とされる検査基準を引き上げて病人を増やし、病院に呼び込むしかないわけですが、これは経済上の要請ですから、病院を存続するにはいいも悪いもないのです。ふと、製薬会社なら収益を一挙に増大させる思わぬケースがあり得るなと気づきました。パンデミックです。感染症が世界中に拡大すれば検査キットやワクチン製造による臨時収益が見込めるでしょう。いや、悪い冗談を申しました。

 この時代、医療現場で素人が専門家と肩を並べることができるとすれば、それは自分の病に関してでしょう。これだけは本質的に自分にしかわからない。似た症状でも体質や病歴は一人一人異なるので、実は全く違う病ということもあるでしょう。毎日自分の体調の変化を丹念に観察できるのは本人だけです。その人が正しい情報を読み込んで論理的に辿り着いた結論なら、名医から見てどんなに笑うべきものでも、その方が事実に適っている場合がないとは言えません。

 先日或る薬に関することを知ろうとして、ひょんなことから患者の闘病記を読みました。読み始めて数ページで、「あ、この方膠原病だわ」とすぐわかりましたが、患者はもちろん医者もすぐにはそうと気づかないのです。それもそのはず、その本は米国でさえ自己免疫疾患が十分研究されていなかった25年ほど前に書かれたものだったのです。タイムマシンがあれば教えてあげたいとジリジリしましたが、その方は闘病記を書き始める5年前には腎臓病の治療をしたとを記していたので、私にはもう相当病気が進行していることがわかりました。しばしば起こる発熱、突発性難聴、関節の痛み、ヘルペス、骨粗しょう症、全身の倦怠感等、次々と起こる症状に対して、医者も患者も一生懸命治療に励むのですが、私から見るとまったく見当違いの治療です。素人の私でさえ、25年の医学的知識の進歩を背負えば、「そんな時に鎮痛剤や解熱剤を使ったら絶対ダメ」と絶叫するほどです。病の全体像が見えない中で対処療法に振り回される患者の悲哀に涙が出て仕方ありませんでした。ちなみにこの患者さんは非常に有益な社会活動をなさり、著述家でもあり、要するに大変な文化人です。情報網も広く、多くの著名人の協力も得られる立場にあり、当時知り得る限りの知識で医者と相談しながら治療に当たっているのです。そしてその経過を特有の執念ともいうべき熱意で国名に書き残しているのです。書き残された様々ん病名と用いられた薬剤の処方があるからこそ、25年後の素人が「そんな治療はないでしょう」と呆然とする思いで、患者さんに対し気の毒で憐れで悲しくなるのです。介護常体の記述はとても読めませんでした。ただ、最期は肺の病気で突然亡くなられたとのことで、やはりという思いでした。今から見ると、あまりに典型的な重篤化の進行と死因だったのです。25年という年月は素人が専門家を超えるのに十分でした。

 しかし今、やはり親身になってくれる専門家がほしいと思うのは、あまりに医学の進歩が進んだため、学術書においては、素人が見抜けない非常に巧妙なデータ処理がなされていたり、都合の悪いデータを書き落としていたり、些末なものとして扱っていたりすることがあるようだからです。こうなると、専門家の分析の確かさを見抜く目を素人が持たなければならないことになりますが、これは何故だか案外できる気がします。というより、私たちは毎日毎日そういうことを判断しながら生きています。「素人が専門家を見抜く目を持つ」ということは、一見あり得ない矛盾に思えるかもしれませんが、できる人にはできるのです。なぜなら現代はそれができなければ生きられない時代だからです。