2021年2月26日金曜日

「無駄めしの食わせ方の人類史」

  これまでに地球上に登場した生物の99%以上は、すでに絶滅したと言われます。今存在している種がなぜ生き残っているのかは、単に環境への適応という点からだけでは説明できないようです。生物の生存戦略は極めて複雑で解明されていないことも多く、目まぐるしく変わる自然環境の中で「適者生存」というより、むしろ生存している種を適者と呼ぶほかない有り様に思われます。地球上に誕生しておよそ36億年経つという生物史に対して、ホモ・サピエンスの誕生はわずか20万年前であり、人類も一つの生物種である以上、地球上から消える日が来ても不思議はありません。

 人類はその歴史のほぼすべてにわたって飢餓線上にありました。後代に命をつなぐには、その時々の自然環境や外的状況に対し知力を振り絞って全力で最適な選択をしない限り、幾度となく訪れる難局を乗り切ることはできなかったでしょう。人間社会は働かない者を食わせる余裕はないのが普通ですが、それでも人間の集団は必ず働けない人員を抱えています。病気の人や障害を持つ人も考えられる要素ですが、ここでは「子供」と「老人」という誰もが辿る人生の二つの形態を考えてみます。人間の歴史は、こういった人々をどのように養うかの歴史だといっても過言ではありません。

 かつて乳幼児の死亡率は大変高く、それが劇的に改善されたのはつい最近のことです。その時期を過ぎてもちゃんと大人になるまでには大変な苦労がありました。生産年齢になるまでに死亡する子供が数多くいたのです。狩猟・採集の時代には、子供は未来の担い手として母親だけでなく、家族、親族あるいは部族等の中で大切に育てられたことでしょう。また、たとえ身体を使って働くことができなくなったとしても、老人はそれまで生きてきた経験知ゆえに重んじられたに違いありません。

 その後、状況が大きく変わるのはやはり農業がおこなわれるようになり、穀物等を保存できるようになってからでしょう。養える頭数が増え、人口は増えていきますが、その間も天候不順や紛争等による飢饉と、人為的な間引きによって人口調整がなされたのは間違いなく、それも相当長い間続きました。農作物を余分に貯蔵できる家族集団とそうでない家族集団の差も明らかになってきます。すなわち富の偏在が生じたのです。

 それぞれの地域を支配する領主たちは、領民の収穫物を吸い上げて支配を固めていきますが、あまりの苛政は戦う農民を生み、最終手段としての逃散も起きたので、領主も一方的に抑圧的な支配を続けるわけにはいきませんでした。村落内の貧富の差はありながらも、農民は力を合わせて共同体の秩序の維持に努め、例えばなんらかの理由で働き手を失った家の田畑を子供が成長するまで共同で管理した場合もあるでしょう。ただ、村の体力が衰えている場合は悲惨な結末を迎えるほかなく、外的状況に大きく左右された時代でした。

 さらに時代を経て商業が発達し、貨幣経済が行き渡ると、穀物以上に保存のきく貨幣により貧富の差は拡大します。安く買って高く売るのが商業の基本ですから、移動手段が広域で発達していきました。経済格差を決定的に広げたのは産業革命でした。裕福な家族はますます富んで多くの家族や雇い人を養える余裕ができましたが、困窮した家族は養いきれない人員を外に出さなければ生きられません。複数いる子供の中で誰を家に残すか、裕福な家でも「田分け者」にならぬよう相続をどうするのかは古今東西大きな課題でした。嫡出子の単独相続の場合でもそれをどうやって決めるか、長子か、最も優れた子か、遺言によるかなど、それぞれの時代、それぞれの社会で違っています。例えば『マクベス』では、ケルト文化圏で行われていたタニストリー(一族の王位継承候補者による合議制で後継者が決まる)と呼ばれる相続法が戯曲解読の大前提となっています。王位なり家なりの継承に限らず、社会保障という概念のない時代、これは親からすれば誰に自分の老後を託すのかという切実な問題でもありました。この問題を真正面から扱ったのが『リア王』です。

 或る地域・国家において資本主義興隆の一時期には金利の上昇が伴いますが、夏目漱石の『それから』は、成功した実業家が金利だけで食えていた時代を描いています。次男である主人公は当時ごく少数のエリートであった大学出の学士にもかかわらず、学歴に見合った職を得られず父親の仕送りに頼って悠々と生活しています。生産年齢に達した人間が確たる理由もなく働かず無駄めしを食えるという、人類史上まれな事態が欧米に続き日本でも出現したのです。そんな状態で親が結婚を勧めるというのは現代人には理解しにくいことですが、それは財閥との婚姻関係によって、父親が自らの事業を安定させるためであり、家督を譲れる立派な長男がいて老後は安泰であることが明かされています。結局のところこの時代まで、無業者の面倒を見るのはまずもって家族・親族であり、余裕があれば身近な共同体もその一端を担ってきました。国家による社会保障(公的扶助)という考えはまだありません。明治時代の小説では、ごく普通の庶民の家庭でも下女を置いていることがうかがえますが、これも形を変えた社会保障であり、身寄りも財産もない者は老後を奉公先や住み込み先で送るほかはなかったのです。老後どころか日々の生活もままならず、娘を売り飛ばした先の吉原に年老いた親がなお金の無心に来るというおぞましくもやりきれない実態もありました。

 資本主義の時代には産業発展のチャンスが見いだせるところには資本が投入され金利も上昇します。二十世紀のアメリカの比類なき繁栄は、フロンティアを絶えず拡大しながら次々に食いつぶして築いた富に基づいていました。フロンティアが消えれば金利は下降し、最終的には限りなくゼロに近づいていきます。現在は資本主義の最終的形態である金融資本主義時代です。

 日本で国民年金法に基づく年金制度が始まったのは1961年です。したがって基本的にそれまでは、先を見据えて自分で蓄財するか、子供を年金代わりと考えるか、または明治・大正・昭和の小説にこれでもかというほど描かれているように、勤め先・友人・知人から借金しまくるか、移民として国を出るか等々といった選択肢しかなかったのです。その後、国民年金制度が発足したものの、それは当時の平均寿命、男65.32歳、 女70.19歳に合わせ、男は55歳から厚生年金を10年間、女(被扶養者)は65歳から国民年金を5年間程度受給という想定のもとに設計された制度でした。

 国民年金制度ができて60年も経たずにその破綻が避けられないことが明らかになっていますが、それもそのはず、国民の寿命が延び過ぎたのです。また、世代別の人口比も変わってしまったため、賦課方式の年金制度では生産年齢人口ではとても老齢人口を支えられなくなりました。ちょっと考えただけでも、4人で1人の老人を支えるなら、2人の人間(男女)から8人の子供が生まれなければいけない計算になり、これが何世代も続く状況は現実離れしています。それ以前に、地球はこのような爆発的な人口増加を養えるだけの資源を持ちません。

 論理的な結論として、国民年金制度だけで老後を暮らせるというのは、或る時代のごく幸運な人だけが与かれる恩恵であり、言ってみれば、いっときのことに過ぎないのです。できるだけ制度の公平化を図ることは必須ですが、前提条件が変わらない限り根本的な解決法はなく、年金を受け取れる人はたまたま宝くじに当たったようなものだと考える方がよいでしょう。他の全ての事と同じように、巡り合わせの運不運があるとしか言いようがないのです。

 こういう大掛かりな制度は、その制度を前提に日々生活している人がいる以上、急には変更できません。また、人事が数年で変わる官僚制下では、当面の危機を回避するのに精一杯で、抜本的な解決は常に先送りされてきました。少しでも年金制度を保たせるには、最低でも、発足当時に想定されていたように、受給期間を10年間程度にするか、大幅減額しかないのですが、沸き起こる猛反対を思えば開始年齢を70歳にすることさえ容易ではありません。戦後になされた年金積立金がなければ、財政破綻を目前ににっちもさっちも行かなくなっていたはずです。しかし、それとて取り崩していけば必ず底をつくのです。

 今後やってくる不都合な事態に対して、不運をかこつだけではどうしようもありません。気鬱でも気持ちを切り替えて仕切り直しするほかないのです。そもそも働いて富を得るのは国民であって、それが可能になるように法律を整備し、経済環境を整え、国の内外で必要な調整を果たすのが国家の役目です。国は民が生み出した富の一部を税金として納めさせ、社会保障に用いることはできても、民を丸抱えで百歳まで安心して食わせることはできないのです。近年は資本が国境を越えて地球上どこでも巡る時代ですから、企業や富裕層がタックス・ヘイブンを利用して金融資産への課税逃れを図っているため、各国で税を取りはぐれるという厄介な問題も生じています。個人的な解決法としては、働けるうちに働いて蓄財するか、生涯現役で働くか、体調を考慮してその両方を適宜組み合わせて調整するかしかないでしょう。すなわち国家による社会保障をもってしても、基本的に人間社会は無駄めしを食えるようにはできていないということです。

 北欧型の福祉国家があるではないかと言われるかもしれません。確かにそれも一つの見識です。しかし、このような国は人口が少ないことが必須であり(難民を抱えるわけにはいかない)、人を働かせる制度があり(結構な締め付けがある)、また、感染症の対応で明らかになったように、寝たきり老人をつくらないために集中治療を施さないといった体制であることは勘定に入れなければなりません。福祉国家というのは、地球全体から見れば、ヨーロッパの一部を中心とする国に出現した制度に過ぎず、それも人類史においてはごく限られた時代の制度ということにならざるを得ないだろうと思います。あまりに残念な結論で気が滅入りますが、人類史としてみれば現在はまだましな時代といえるのではないでしょうか。そして、理屈がわかれば国に対して過剰な希望を持たずに、覚悟を決めて人生設計ができるだろうというのが利点といえば利点です。



2021年2月22日月曜日

「判断力クイズ」

  状況に合わせてたちどころに的確な判断ができる人を見ると、本当にすごいなと思います。それは私の最も苦手とするところで、いつもああでもないこうでもないと延々迷ってしまうのです。

 地震の影響で運休していた東北新幹線の全線再開は2月24日になると発表されました。私は24日の朝8時台の列車をeチケットで予約していたのですが、地震直後に6時台の高速バスをも予約しました。どちらに決め、どちらをキャンセルすべきかで私は悩むことになり、直接みどりの窓口まで行って尋ねてみることにしました。

前提条件:

①家を遅く出られる方が朝は楽である。

②予定通りに運行するなら、新幹線なら10時半に、高速バスなら11時半に同じJR駅に到着する。

③新幹線のキャンセル料は指定席代の340円、高速バスは100円。

この条件下、私はほぼ新幹線で帰るつもりでいました。

 さて、みどりの窓口でわかったのはだいたい以下の通り。ただし、この時点でのやり取りで、私の理解力ではついていけない部分があり、きちんと理解できている自信がないことを付記しておきます。

① eチケットはそのままタッチで改札を通ってしまうと、使用したことになる。

②いったん「紙の切符」に換えておくと、払い戻し等その後の扱いが楽になる。

③列車は本数を減らして運行し、当日運行される車両は22日(か前日23日)にホームページ上で発表される。

④運行されない場合は、手続きなしで全額払い戻しされる。⑤運転される列車であっても、全席自由席となる可能性がある。

⑥運転される場合でも遅れはありうる。

⑦24日に帰ることが決まっているなら、「紙の切符」に換えた上で、状況に応じ駅員の案内に従って使用できる(乗り継ぎなどもありうる)。

⑧当日は「紙の切符」への変更のため、みどりの窓口は混雑するかもしれない。運行予定のわかる前日等に済ませる手もある。ただ、当日余震があるなどして運休することはありうる。

 このあたりで私はもう絶望的な気持ちになり、新幹線は諦め、高速バスで帰ることに決めました。当日起きうる様々なリスクの中でとっさの判断ができる人はよいでしょうが、視力のこともあり私は無理。それに前日まで対応を決められないということに耐えられず、ホームページの運行予定を気にしながら、バタバタと考える時間も無駄に思えました。それなら早起きするだけで済む高速バスの方がどれだけましか。この方が心理的負担がよほど軽いのです。

 すると窓口の方が「払い戻しはここで無料でできます」と言うので決心がつき、スイカ付きヴューカードを渡してあっさりと払い戻していただきました。このような災害(コロナ禍も含むらしい)の時は無手数料で払い戻されるとのことでした。みどりの窓口に来て本当に良かった。悩ましい問題がすっきりと解決して帰宅しました。

 上記のような条件で、他の方はどのような選択をされるのでしょうか。小さなことでも人生は選択の連続でなかなか大変です。大事なのはしっかりした情報を持っている人に聞いて、自分で判断するということに尽きます。


2021年2月19日金曜日

「土鍋で炊くブランド米」

 冬の間活躍した土鍋は場所も取るし、そろそろ仕舞い時かなと考え、ふとその前にご飯を炊いてみようと思いました。普段から使い慣れた方には何でもないことでしょうが、私は初めて。俗に「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ」と言いますが、その後に「赤子泣いてもふた取るな」と続くので、絶対にふたは開けてはいけないものと思っていました。でも調べてみると、土鍋の場合はじめから中火でよく、吹いたらへらで軽くかき混ぜると書いてあるではありませんか。その後は弱火で10分、火を消してそのまま10分というので、簡単そう。

 私は舌が肥えていませんが、栄養価には関心があり、このところずっと金芽米を食べています。いつも行くスーパーには金芽米は一種類しかないので、この際通販で取り寄せることにしました。たくさんあるので迷いましたが、某元気印の六十代女性タレントがコマーシャルに出ている山形のブランド米に決定、早速注文しました。

 ブランド米が一般に広く食べられるようになったのは、四十年ほど前だったでしょうか。最初の頃はコシヒカリとササニシキが代表的な銘柄でしたが、そのうち様々なブランド米が作られるようになりました。もう三十数年前になりますが、定年退職した父が今度は異分野を知りたいと望んで、なぜだか県の消費生活センターに嘱託で勤めるようになりました。新しい職場の水になじんで、父は生き生きと働いていました。その頃、続々とユニークな名のブランド米が作られており、仕事に関係あることなのかは定かでありませんが、銘柄の名前を織り込んで、七五調の語呂合わせを作って面白がっていました。私が「そんな名のお米があるの?」と疑いの眼差しを向けても、「全部あるんだ」との答えでした。

あきたこまち の 初恋 は

のぞみ も高き 京そだち

三度のときめき ひとめぼれ・・・・

もっと長かったのに残念ながら忘れてしまいました。ただ、ずいぶん楽しそうだった父の姿はよく覚えています。その頃の銘柄で今生き残っているお米はどのくらいあるのでしょう。

 さて土鍋ご飯ですが、どきどきしながら蓋をとると出来上がりはその名にふさわしいつややかさ。誰が食べても美味しいとわかります。おこげを食べたのは何十年ぶりかなあ。ちなみに炊飯器で炊いてももちろん美味しく食べられます。これからはお菓子を少し控えて、ご飯の健康生活を送りたいです。



2021年2月17日水曜日

「紅春 172」

 


 2月13日深夜の地震は東京でもただ事でない予感がしましたが、福島の兄にすぐ電話した限りでは、インフラも含めてとりあえず大丈夫そうでした。もともとその3日後に帰省の予定があったのですが、新幹線は10日ほど動かないとのことで、急遽高速バスで帰りました。同じ発車時間のバスが3台連なってというのは初めて体験しましたが、どれもほぼ満席でした。よんどころない事情で実家等に帰る人が多いのでしょう。

 東日本大震災の時と違って、高速道路が無事だったのは不幸中の幸いでした。車窓から見た限りでは特に破壊された場所は見当たらず、上下線とも車の流れはいつもとあまり変わらぬ感じでした。福島に到着してあたりを見渡しましたが、いつも通りの風景に心底安心しました。

 りーくんは震度6弱の揺れの中でも、ワンモナイト(犬が渦巻き状に丸くなる状態)になってすやすや眠っていたとのこと。兄がたたき起こしてもぼんやりしていたので、そのまま抱きかかえて外に連れ出したそうです。じさまはやはり大物です。知人の家ではお皿が何枚かと照明器具が破損したと聞いていたので少しは覚悟していましたが、家の中は何も壊れておらず、違っていた点といえば、客間の大きなこけしがごろんと横になっていたことでしょうか。昨日は雪がちらほら舞いましたが、今日は陽が出て、りーくんのワンモナイト日和です。いろいろな方に安否確認のメールをいただき、本当にご心配ありがとうございました。


2021年2月9日火曜日

「見方を変えれば」

 出来事1

 立春が過ぎたとはいえ、ここ何日か15℃を越える暖かさでした。こうなると昨年の猛暑が思い出され、気の早い私はもう夏のことを考えて何とかしなければという気になります。考えるだけなら自由なので、制限を設けずに思いを巡らせてみます。

夏だけ避暑地に避難しようか、いや最近の暑さは長い時は2~3カ月は続くからそんな贅沢はできない。夏涼しい土地にごく小さな小屋でも建てて自炊にしてはどうか、いや、そんな体力があるはずない。涼しいところというのは人里に遠くインフラの整備も大変だし、周囲に買い物に行くお店もないだろう。第一、住まいの終活をしなければならない時期に、増やしてどうする。土地・建物には固定資産税がかかる。うまくはいかないな・・・。

出来事2

暖かさにつられて公園を歩き、橋を渡っていつも行かない側に降りてみると、なんとドッグランがあるではありませんか。小型犬用と中・大型犬用の柵に分けられて、小型犬の方は5匹ほどが中を駆け回っています。飼い主さんも中にいるからリードをはずして大丈夫なのでしょうか。他に犬がいたら私はりくを放てないな~などど思いました。中・大型犬の方は一頭だけでしたが、走り回ってはおいしそうにゴクゴク水を飲んでいます。思わず、「りくどうしてるかな~」と思いを馳せます。


 まもなく福島との往復生活は丸9年になりますが、福島教会のこと、父のこと、りくのことがあったため、一カ月に最低1週間、年末年始は2週間近く福島に滞在してきました。体力的に結構きついなと思ったこともありましたし、実際、夏の草むしりや冬の寒さ、雪掻きは大変です。しかし、夏は暑いと言っても東京の暑さとは違いますし、朝晩はまあまあ涼しい。大変な冬もありますが、暖冬だった時もあったっけ。何より宿泊料が無料で、自分の予定に合わせて泊まれる。いつもりくに会えて遊び放題。自炊を中心とする家事はあるけど手抜きでも文句は来ないし、りくにかずけて掃除も適当。

 ってことは、まさかと思いつつ、この生活はそんなに悪くない? これはポリアンナ症候群ではなく、「物は考えよう」とも違い、純粋に様々なっ事項を比較考量してみた結果と言ってよいでしょう。「行かねばならない」と思うから負担になるのであって、「そろそろ遊びに行くか」という気分で行ってみればよいのではなかろうか。兄とも疎遠にならずに済んでいるという、結構大きなおまけもついてるし。うーむ、考えてもみなかった結論にちょっとびっくり。東京の夏はどうするって? とりあえずハンディ扇風機を買いました。


2021年2月2日火曜日

「37.0℃」

  ツイッターの内容は、「○○がきれいだった」、「××がおいしかった」、「△△して楽しかった」といったごく感覚的なものが多いと聞いたことがあります。究極のところ、自分の身体で感じる感覚を何より優先するのは、人間のさがと言えるでしょう。帰省中は私にとって、コロナ問題よりも天気や気温の方が重大関心事なのと同様です。

 今年になって初めての持病の発作が起き、しばらく寝込みましたが、それでもよかったことは、いつもと同じ症状だったのでコロナの心配をしなくてすんだことです。じっと横になって寝ているしかない病なので(寝ているだけで治るというのは或る意味すごいことで、睡眠による治癒力を実感する時でもあります)、こういう時は世界で何が起きていようと自分の病状以外のことは考えられなくなります。本当に人間とは弱いものだと思います。

  突然始まり、適宜水分や栄養を摂りながら寝ているとだんだん治るという経過にはすっかり慣れましたが、今回の問題は通院までに治るかということでした。夕方に歯医者の予定が入っていた三日目の朝、起き上がって歩いたり動き回ったりするのはできるほど回復していましたが、体温を測ると37度を少し超えていました。歯医者は近くなので行くのは問題なさそうでしたが、昨今は治療前に以前はなかった検温があります。がっかりしたのは、その日、被せ物をした前歯が出来上がってくるのを心待ちにしていたからで、それまでろくに物が噛めない状態だったのです。当初、物を噛むのは奥歯が主で、ほとんど影響ないだろうと思っていたのですが、さにあらず、ふたのついた仮の前歯では全然噛めず、うどんの日々が続いていたのです。

 夕方までは時間があると思い、体温を秤ながら寝たり起きたりしていると、体温は36.3℃から37.0℃あたりを行ったり来たり。歩いている間に熱が出るかもしれないと思いつつ、その時は次回の予約を入れて来るだけだと思い直し、歯医者へと向かいました。結果は36.6℃、無事、治療室へ入れました。歯医者の治療を受けられるのがうれしいとはめったにないことですが、思わず饒舌になってしまい、「前歯って単純な上下運動じゃなくて、複雑な動きをするんですね」と、噛めなかった体験から分かったことを述べると、歯科医も満面の笑みで「そうなんですよ」との相槌。丁寧に下の歯との嚙み合わせを調整してもらい、前歯を入れてもらうことができました。今日は歯医者に行ける幸せを学ばせてもらいました。

 翌日は眼科の視野検査、同じ週に診察が入っていましたが、こちらはキャンセルにしました。場所が遠いので外出を控えた方がよいと思ったのと、体調が万全でない、目の状態に変わりがない(行っても見えるようにはならない)等の理由です。受付の人が親切で、半年くらい先の予約を取れるよう当たってみるとのことでした。ありがたし。

 老人が集まると病気自慢が始まると言いますが、誰でも自分の体のことは詳細に話せるものです。歳をとるとそれだけ以前とは違う体の不具合が次々と出てくるのです。これは本人には困った悩みでも、その症状が想像できない若い人にとっては、聞かされるのは大変でしょう。だから病気自慢は老人同士でしかできない。逆に、他人の病の体験談を聞くのがそんなに嫌ではないということは、それだけ歳をとったということになるのかもしれません。