ステイ・ホームで家の片づけをした人は多いでしょうが、私も少しずつやっています。先日、下駄箱に手を付けたところ、二十代の時に履いていた皮の長ブーツが出てきました。皮の部分は手入れされていたらしく良い状態でしたが、履いてみるとヒールが高くて到底履けない。こんなヒールの靴を履いていた時代があったんだなあと、とても同じ自分とは思えません。今は平底の靴しか無理なのです。長ブーツは今年のような雪の東北にはぜひほしいと思い、靴の修繕屋さんに尋ねてみましたが、「靴のバランスが崩れるので、ヒールを平らにすることはできない」とのことでした。
「ちょっとだけ履いてみようかな」という考えをすぐ打ち消したのは、何といっても歳を取って一番避けねばならないのは転倒だからです。コロナ禍の今はなおさら、ケガで病院に行くような事態になってはならない。それでもこのまま捨てるのはもったいない、犠牲になった牛さんも浮かばれまいと、未練が捨てきれませんでした。結局、ファスナー部分もうまく残して、上部のみ切り離してみたら、これが大正解でした。空気を遮断するのでとにかく暖かい。家の中も使えて、頭寒足熱が完璧に実現できます。なにしろこれってゲートルですもの。このまま短ブーツを履いても、膝下までの積雪に耐えられます。
同じ自分かと思った出来事は他にもあります。日本人の国民的体操・ラジオ体操の中に、膝の裏側を伸ばすという体操が組み込まれています。私は子供の頃、この動きが何のためにあるのかわかりませんでした。やってもやらなくても体に変化を感じなかったからです。ところが今は、まず朝一番にこの動きをしています。膝の裏がビリビリと音を立てて伸びるのがわかります。イテテテ・・・。同じ自分とは思えません。
ここにきて、夜眠って同じ自分が目覚めるとはどういうことかと考えています。昔からある哲学的問いですが、実感を持って考えたのは初めてです。朝起きて、昨日と同じ自分だということにあまり疑問は感じませんが、その感覚は実はけっこう頼りないもの、はかないものではないかと思うのです。おそらく脳のどこか一部分が損傷したら、自分を自分だとわからなくなるといったものなのです。記憶喪失などもそうでしょう。
外見も変わり、意識さえ変わってしまったら、もうその人は同じその人とは言えないのかもしれませんが、もう一つ残っている要素として、他者との関係がありそうです。うちの犬はもうボケ爺になっていますが、家族のことは忘れません。家族との関係性の中で自分を保持しているのです。感染者が爆発的に増え、入院できないまま突然亡くなる人もいる今、私は単純に「犬がいる間は死ねない」と思っています。家事をし、生活を整え、生き延びねばならないと決心しています。例えば、戦争の時は精神病患者が統計学的に有意に減少すると聞きますが、昨年の今頃、自分が体調不良で寝込んでいたことを思い出し、命の危険がある時に、病で寝込んでいられるほど人間はやわではないのかもしれないと感じています。さ、食料の買い出しに行かなきゃ。もはや私は去年と同じ自分ではありません。